第4話 英雄閣下の訪問。

 エルヴィユ子爵家、当主の執務室。普段は滅多に近づかないはずのその部屋に、カミーユは近頃、度々呼び出されていた。


 婚約を解消するまでも、詳細を決定するために一度や二度はこの部屋を訪れていたが、まさか婚約を解消した後の方がこうして足を運ぶことになろうとは。

 それも全て、アルベール・ブランの関係で。




「……国王陛下から、ブラン卿からの婚約の申し出に関して、手紙が届いた」




「……はぁ」




 父、バスチアンの言葉に、知らず、気の抜けた返事が零れる。

 いくら貴族と言えど、子爵家ともなれば国王陛下など雲の上の人。そんな人が、英雄と呼ばれる次期公爵と言えど、婚約に関してこうして手紙を寄越すとは。やはり、アルベール・ブランという人物の婚約は、それほどまでに重要なことなのだろう。


 「何と書かれているのです?」と、カミーユはおそるおそる口を開いた。




「婚約を受けるな、ということでしょうか。家格も釣り合っていませんし、当然、陛下もそう考えられたのでしょうね」




 しかし、国王がアルベール本人にそれを言おうにも、褒美として自らの望む相手との結婚を許した手前、アルベール自身の決定を覆すわけにはいかない。そう考えれば、こうして先に話を聞きつけ、手紙を送ってくるのも分かるというものだ。


 そう思い、これからこのエルヴィユ子爵家を訪れるアルベールが、何かを話し始める前に、この度の婚約解消についての出来事を説明し、同情してもらう必要はないのだと伝え、きちんと断ろうと、そうカミーユは考えていたのだけれど。


 バスチアンは少々諦めを混ぜたような表情で、「残念ながら、そうじゃない」と呟いた。




「陛下からの手紙にはこう書いてある。『ブラン卿は、話し方や態度から、顔が良いだけの堅く恐ろしい男に見えるかもしれないが、根は面白味もないほど真面目で優しい人物だ。婚約に応じようというのならば、もちろん賛成するが、断ろうと考えているのならば、どうかすぐにはそうせず、ブラン卿を知る時間を作ってやって欲しい。王命とは言わないが、私は二人が結婚することに賛成である』……」




 淡々と読み上げるバスチアンに、カミーユは数度瞬きを繰り返した後、「それは、褒めているのでしょうか。それとも貶しているのかしら」と、どうでも良いことを呟いてしまった。

 バスチアンもまた同じことを思ったようで、「幼い頃から、仲の良い方々だからな」と、無難な言葉を選んで応えた。




「どちらにせよ、陛下はこの婚約に賛成、ということだろうな。……王命とは言わないと書いてあるが、陛下からの言葉に一子爵家が逆らえるわけもないのだが……」




 ぼそりと呟くバスチアンに、カミーユもまた頷く。少なくとも、早々に断るという選択肢だけはなくなった瞬間であった。


 執務室を出て、自らの部屋へと戻る途中、「お姉さま!」と呼び止める声があってカミーユは廊下の真ん中で足を止める。振り返れば、ぱたぱたと走り寄る足音と共に、その長い金色の髪を揺らす、カミーユの妹、エレーヌの姿があった。その後ろには、彼女によく似た容姿の子爵夫人、母であるアナベルの姿も。


 カミーユに駆け寄って来たエレーヌは、心配そうな表情でカミーユの手を取り、「大丈夫? お姉さま」と訊ねてくる。主語のない問いに、しかし考えるまでもなく妹が何を言いたいのかが分かって、カミーユは柔らかく微笑んだ。妹を不安にさせないために。




「大丈夫よ、エレーヌ。何とかしてお断りすれば良いだけだもの。私が男性恐怖症だから、公爵家の夫人には向いていないって分かれば、ブラン卿の方から断って頂けるはずだわ」




 自分自身の願いを込めながら、カミーユはエレーヌにそう優しく呟く。エレーヌはその両手を胸の前で合わせて、「本当?」と、やはり心配そうに呟いていた。


 カミーユとエレーヌは、年こそ一つしか違わなかったけれど、あまり似ていない姉妹であった。カミーユが父、バスチアンに似て、亜麻色の髪ときりりとした顔立ちなのに対し、母、アナベルに似たエレーヌは、金色のふわふわした髪と二十三という年齢の割にどこか幼く見える、甘やかな顔立ちをしている。初めて二人を見た者は、姉妹だとは気付かないかもしれない。もっとも、角度によっては赤く見える、父譲りの茶色の瞳だけはそっくりであったが。


 いつも愛らしいエレーヌと比べられていたカミーユが、妹の事を嫌わないでいられたのは、妹のおっとりとした性格のおかげだろう。人見知りでいつもカミーユの陰に隠れようとする彼女は、今になってもカミーユにべったりである。おそらく、その役目もそろそろジョエルに譲ることになるだろうけれど。


 それはそれで、少し寂しいものだ、なんて、そんなことを思った。




「国王陛下からのお手紙には、何と書かれていたの? カミーユ」




 ゆっくりとした足取りで近づいてきたアナベルも、エレーヌと同じように心配そうに訊ねてくる。よく似た二人は、アナベルが若々しい容姿なのも相俟って、まるで姉妹のように見えた。


 国王からの手紙の内容を、二人はどう受け取るかと少し不安に思いながら、カミーユはバスチアンから聞いた手紙の内容を「実は……」と、二人に聞かせる。二人はその表情を変えることなく話を聞き終え、同時に深く溜息を吐いていた。「ああ、やっぱり……」と呟いたのは、その額に手を当てたアナベルであった。




「あのお二人は、幼い頃から仲が良かったと誰もが知っているもの。ブラン卿が望むのならば、陛下がそれを否定なさるはずがないわ……」




 予想通りだった、というように呟くアナベルの表情は、少しも嬉しそうではなかった。手を伸ばし、カミーユの指先に触れてくる。「断っても良いのです、カミーユ」と、アナベルは目を細めて囁いた。




「陛下も、必ず婚約しろと仰っているわけではないのでしょう? 少しだけ話す時間を共にして、どうしても無理だったら、お断りしなさい。私も、旦那様も、これ以上あなたを不幸にさせるつもりはありません。いざとなったら、私たちが出て事態を収束させます。……決して、相手が伯爵で、次期公爵だからと、国王の命だからと、そんなことで気負うことはないのよ」




 アナベルはそう、ゆっくりとカミーユに言い聞かせる。「あなたの好きにしなさい」と、そう言って微笑む。けれど。




 国王陛下や、次期公爵であるブラン卿に睨まれてしまったら……。




 父や母、そしてエルヴィユ子爵家そのものにも、迷惑がかかるのではないだろうか。そんなこともまた、頭を過ぎった。


 アルベールがエルヴィユ子爵家を訪れたのは、予定通りその日の昼過ぎのことだった。カミーユを筆頭に、バスチアンやアナベル、エレーヌと、総出で彼を出迎えたエルヴィユ子爵家の面々は、馬車から降りた彼の姿に、その目を見開いた。


 そのまま夜会に足を運んでも見劣りしないだろう、濃いグレーのジャケットに、細かな刺繍が縫い込まれている上品なその服にも視線を奪われるのだけれど、それ以上に。


 美しく背に流れていた彼の銀色の髪は、今では肩にもつかない程の長さに切られていたからだ。




「ようこそおいでくださいました。ミュレル伯爵閣下」




 一歩足を踏み出したバスチアンが、そう言ってアルベールを出迎える。ミュレル伯爵とは、アルベールが国王から与えられた伯爵位のことだ。先の戦争で争った北東の隣国との辺境の地にほど近い、ミュレルの地を治める者に与えられた爵位である。


 先の戦争で英雄と呼ばれるようになった彼がその地を治めることで、隣国への圧力にもなるということなのだろう。また、ベルクール公爵家の領地にも通じているため、ミュレルの隣地を治める辺境伯爵と共に、盾の役割を果たしているのである。


 バスチアンの元まで歩み寄ったアルベールは、その美麗な顔に笑みを浮かべて、「歓迎して頂き、ありがとうございます。エルヴィユ子爵」と、呟いた。




「これから何度も顔を合わせることになるでしょうから、どうかアルベールと。気負いなく名前を呼び合える関係になることが、私の目標ですから」




 夜会などでは見たこともない穏やかな笑みに、その場の誰もが目を疑うようにお互いの顔を見合わせる。いつもの彼は、やはり他人を寄せ付けないためにあのような硬い表情を作っていたのだろうかと、そんなことを思った。


 バスチアンやアナベル、そしてエレーヌに挨拶を終えたアルベールは、こちらに顔を向けると、数歩足を進める。美しい容貌に浮かぶ優しい笑みが、一段と嬉しそうに深まった。




「ごきげんよう、カミーユ嬢。……こうして君と言葉を交わすことが出来て、とても嬉しい」




 言って、アルベールはすっとその手を差し出してくる。女性の手を取り、その甲に軽く口付ける素振りをする、ギャロワ王国の貴族の間では一般的な挨拶。


 エルヴィユ子爵家の面々が、はっとしたようにこちらに足を進めようとする。男性恐怖症であるカミーユがそのような挨拶を受けられるはずもなく、いつもならば先回りをしてバスチアンやジョエルが庇ってくれていたのだ。


 しかしあまりに自然に手を差し出して来たアルベールを拒否することも、誰かが間に入ることも出来ず。カミーユはただ、呆然とその手を見ながら、震えそうになる手を必死に重ねようとして。


 さっと、アルベールが自らの手を引いた。カミーユの手が、触れる前に。




「良ければ、邸を案内して頂きたい。構わないだろうか」




 驚くカミーユにそう言って、アルベールは僅かに首を傾げて見せる。さらりと短くなった銀の髪が揺れるのを見ながら、カミーユはこくりと一つ頷き、「もちろんですわ」と呟いた。


 一定の距離を保ったまま、二人並んでゆっくりと歩き、カミーユは彼に屋敷の中を案内していく。子爵という地位にある者の住むタウンハウスにしては、エルヴィユ子爵家はそれほど大きな屋敷ではない。ギャロワ王国に多い、パラディオ様式の建築物で、広間や応接室、客室など、必要最低限の部屋が揃っているだけの、貴族というよりは、階級の高い騎士の邸宅といった様相である。


 屋敷の南側、陽当たりの良い位置に設けられたサンルームで、カミーユはバスチアンと共に、アルベールと向かい合う。

 さすがは王家の血を引く大貴族というべきか、ゆったりと椅子に腰かけるアルベールは堂々としていて。居心地悪く座っている自分や父と、どちらがこの屋敷の主人か分からなくなりそうだった。




「さすがに、いきなり名前を呼ばせて頂くのは恐縮ですので、ブラン卿、と呼ばせて頂きますが……。今回のご訪問は、我が娘への求婚のため、という認識で間違いないでしょうか?」




 軽く咳ばらいをした後、バスチアンがそう静かに問いかける。本当はアナベルもこの場に参席しようとしていたのだが、あまりに不安そうな顔をしていたため、控えているようにバスチアンが告げたのだった。


 アルベールはバスチアンの言葉に少し残念そうに笑うと、「ええ。その認識で間違いありません」と答えた。




「あのような場での発言だったため、カルリエ卿も、カミーユ嬢も、私が本気だったとは思わなかったかもしれませんが。……私は本気で、カミーユ嬢と結婚したいと思い、求婚しました」




 「これが、その証になるでしょう」と続け、アルベールは控えていた従者に何やら合図を送った。従者はずっとその手に持っていたらしい小箱を掲げて頭を下げる。アルベールはそれを受け取り、そしてカミーユの方へと差し出した。


 黒く深い色合いに塗られた木箱の表面には銀色の細かい装飾が施されており、色とりどりの輝く宝石が散りばめられている。それそのものが、まるで美術品のような様相。子爵家とはいえ、騎士の家門として質素堅実を掲げているエルヴィユ子爵家の令嬢であるカミーユにも、その価値が嫌でも分かった。少なくとも、本当に何かを入れて使う代物ではないということは。


 そんな木箱を当たり前のように示しながら、アルベールは「開けてみてほしい」と告げてくる。テーブルの上に置かれたそれを、果たして本当に触れて良いものかと思いながら、おそるおそる手を伸ばして。


 きぃ、と小さな音を立てて開いたその中には、やはりというべきか、ベルベットの藍色のリボンで束ねられた、銀色の長い髪が収められていた。

 エルヴィユ子爵家も、古くから伝わる騎士の家門の一つ。その贈り物の意味を、カミーユが知らないはずもなかった。




「これは、……私が、受け取るべき物ではないのではありませんか?」




 騎士がただ一人、生涯の伴侶に捧げる、生きた証。

 英雄閣下と呼ばれ、尊敬の眼差しを受ける彼の思い出のよすがを受け取る相手に、ただ求婚されただけの、ましてやいずれ断る予定の自分が相応しいとは、少しも思えなかった。


 しかしアルベールはゆっくり首を横に振ると、「君以外に、渡したい者はいない」と、きっぱりと言い切った。




「俺が死んだ時、思い出して欲しいのは君だけだから。俺が持っていても、捨ててしまうだろう。……もし、この求婚を断るつもりでも、受け取ってくれないだろうか。君の手で処分しても構わないから」




 そう、彼は当然のように続ける。まるで、すでに決まり切っていたことを告げるように。

 何度か顔を合わせ、挨拶を交わしただけの自分に、なぜそこまで言い切れるのだろうかと、頭の冷静な部分では、そう考えていたけれど。


 「だめだろうか?」と言って僅かに首を傾げたアルベールは、主人を伺う飼い犬のように見えて。カミーユにとっては、恐怖の対象である男の人なのに。


 なぜだろう。少し、可愛いと思ってしまった。

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