18.先触れのない客人はやはり

 扉を閉めたアニスは、唇に残るかすかな感触に顔を覆った。背を扉にどうと預け「あー」と声を漏らす。


(みっともない。嫉妬に狂うなど)


 あんな風に尋ねるつもりはなかった。

 もっと穏やかに明るい陽射しの下で話そうと、それが彼女のためだろうと思っていたはずだったと、彼はその場にしゃがみ込みたいのを我慢した。そして暖炉の側へと覚束ない足取りで進む。天鵞絨張りの肘置きは微かに温かく、それが暖炉の火によるものかモニカのぬくもりなのか。肘置きを握りしめ、アニスはとにかく乱暴に腰掛けた。

同時、モニカの置いていった本は持ち上げた瞬間手から滑り、バサリと落ちた。しかしデイドレスの裾が煩わしく広がって、彼は拾いようもない。拾い上げたいとも思えなかった。

 アニスは苛立ち、結い上げていた髪を乱した。


「モニカ……」


(就寝の挨拶を始めたのはほんの思いつきだった。ただ名を呼びたかっただけだった)


 彼は込み上がる熱と罪悪感に、眼鏡が外れかけるのも構わず顔を荒く擦った。それによって頬にかすかに残っていた柔らかな感触が消え去り、彼は呪いの言葉を吐いた。

 己がこれ程まで恋情に――嫉妬に駆られて苦しむとは、と呻く。


 誰とも知らぬ、彼女の額に初めて口づけた者に。

 一度は成り代わった、ダーニャに。

 そしてジャンに――。


(モニカは結婚を覚悟していた……明日にでも結婚していい、と)


『春に結婚するなら勿論、賛成よ。』『これ以上の幸せはないわ』聞いたのは先程のことだが、もう何度目か分からないこだまが彼に押し寄せる。アニスは唇を噛みしめた。血の味が滲んでも痛みは全く感じなかった。どす黒い血潮が全身を巡ってまるで高熱をもたらすように筋肉を軋ませていた。


(『アニー』を利用して、いいように彼女に触れていた……罰だ)


 甘く中毒性のある菓子のようだ、とアニスは頭を振った。彼女が菓子以外の物を食べられなくなった気持ちが今なら分かる、と思った。

 会えばあの軽やかな巻き毛に手を差し込みたくなった。跳ねっ返りを撫でて大人しくさせたくなった。一度唇で触れることを許されれば、強引にでもそうせずにはいられないのだ。


(は……まるで恋愛小説だな。さしずめ僕は、恋に目が眩み自分の領分を誤る愚か者だろう……断罪され、永遠に想い人とは結ばれない役目の)


『女性の好む物語の男性は、絶対性格破綻者だ、二重人格だ』

 ここに滞在する以前の己を思い出し、アニスは口の端を歪めた。酷く投げやりな自嘲。引き攣った笑いが込み上げる。

 しかし次の瞬間には悲しみが押し寄せ頭の先まで浸す。かと思えば彼女の赤らんだ頬を想い熱が上がる。

 狂ってる、と頭を掻きむしった。


「……モニカ」


 ――それは祈りの如く。


「君を攫えたらどんなに」


 いいだろう、とは継げなかった。

 それは幻想だと、現実は小説のようにはならないのだと、彼は判っていた。

 膝に肘をつき身を縮込ませようとして、未だ外していなかったコルセットに舌打ちをした。今すぐに、この面倒で不快な衣装を――『アニー』を脱ぎ去りたくなった。背もたれに後頭部を擦りつけた。意味のない声が出た。


(男として出会っていたら)


 灰がちになった暖炉から微かな炎の音。橙の薄暗がりに思い描く。

 モニカの傍に立つのが僕だったなら――。

 アニスはもはやその妄想を幾度、辿ったか分からない。それこそ幻想だ儚い夢だ、と拳を作る。美しく緩やかに形づくられた爪が手のひらに食い込んだ。

 僅かな痛みに少しく熱が引いた。

 ハァ、と強く息を吐く。


「……もうここには侍女か侍従に控えさせないと、だめかもしれない」


(何をするか自分でも分からない……)


 額に口づけている時点で人には言えない関係なのだ、と自分の愚かさに再び呻いた。

 同時に先程のモニカのいじけた様子が思い出されてしまい、慌ててあぁうう! と叫ぶ。涙を堪えたような表情も可愛らしいと、触れたいともう一度会いたいと甘く痺れを含んだ毒に脳が襲われかける。


「……ダメだ! もう寝よう。いや、それより書類を」


 溶け始める思考を振り切り、彼は勢いよく立ち上がった。

 髪は目も当てられないほど乱れ、眼鏡もずり落ち掛けている。彼は心底煩わしげに眼鏡を掴み、首元のボタンも唸りながら全て外し鎖骨まで肌蹴させた。

 そして大股で窓際へと足を向け、カーテンを大きく開いた。冷たい空気が彼の喉を刺した。月は位置を変えてもなお、空に懸かり彼を見下ろしている。

 ひとり、琥珀色を細めた。


(……彼女のために『アニー』になると決めたじゃないか。彼女が結婚を望んでいるなら、望みを叶えるだけだ)


 窓から放たれる青い空気が彼を見る見る冷やす。正しい思考に引き戻した。


「彼女が望むなら……そうだ望みを」


 アニスは月光をそのままに、執務机に急いだ。すぐに便箋を取り出し、ペンを持つ。

 手紙の宛先を『ロティアナ=ダリム』としたためた。


     ◇


 翌日、明らかに寝不足のモニカに「お昼寝なさいませ」と声を掛け母屋に戻ったアニスは、思わぬ人物の訪問に度肝を抜かれた。

 こっくりとした蜜色の瞳。栗色の髪を緩く結わえ、ツンと品良くつり上がった目尻、麗しの女性。


「ろ、ロティ姉さん!」

「まあぁぁわたくしの可愛いアニー! 会いたかったわ!……あぁどうしたのです、こんなにやつれて可哀想に!」


 遅々として進まぬ書類仕事のさなか、先触れもなく書斎に現われたのは二番目の姉のロティアナだった。

 辛うじてノックは家令によるものだったが、その疲れ顔を見るに、恐らくジャンと同じ手口――物理的な強硬手段で入り込んだと思われた。


「ご苦労さまだった。すまないがお茶を」


 と、労れば何も言わず退室していった。さすがラベリ家家令、と内心で安堵し、彼は目の前の姉に眉を下げた。

 相変わらず仕立ては地味だが一目で上等と分かるドレスに身を包み、彼女は彼の頬や体をぺたぺたと確認している。


「せめて先触れくらい頼むよ。ここは他家だ」


 突然のしかもラベリ侯爵家への無作法――ロティアナは今は官吏に降嫁した身分――に、彼は否やを継ごうとしたが、「体調を崩したと聞いて心配しました」と、ぎゅうっと抱きしめられアニスは珍しく感傷的になった。

 風邪で寝込んだあと、すぐに溜まった仕事に取り掛かりくたびれていたこともあろう、初恋を拗らせたせいもあったかもしれない、とにかく彼は珍しくそして殊勝にも姉を歓迎した。

 ――アニスは三月みつきに及ぶ滞在で、次姉の恐ろしさを忘れていたのだ。



「それで貴方、肝心のラベリ嬢とは如何?」


 家族の挨拶を終えた二人は、窓際に移り、ピケの煎れたお茶を一口ずつ飲んだばかり。さすがロティアナは単刀直入。アニスはその切れ味にぐ、と喉を詰まらせた。


「姉さん……」

「あらやっぱり上手くいってないのかしら? アナベル姉さんも言っていたけれど、もう少し報告は詳細になさいな、ちっとも分からないでしょう。装いがバレた訳ではないようだけれど、殿下との進展はどうなのです」

「進展は、してない」


 まぁ、とロティアナは眉を跳ね上げ、弟を叱りつける姉の顔になった。


「アニス=ヴィンセント。貴方まさか、自分の拝命した王命を疎かにしているなんてこと」

「それは違う」


 アニスは顔を顰めて小さく首を振った。

 その仕草に鬘の金髪が淡い光を撥ね返し、丁寧に編まれた編み込みを滑った。ロティアナは彼の美しさに目を細める。

 今日の彼は、装飾の少ないながら袖の膨らみの大きな紺色のボレロ、揃いのドレスを身に着けていた。彼女の前では男言葉を話すものの、その女性としての仕草は洗練されている。どこからどう見ても、貞淑たる淑女だ。

 しかし彼女は自然と空気に放たれるような彼の色気が増していることに気づいていた。


「ロティ姉さん。手紙に詳細を書かなかったことは許して欲しい。僕は滞在してラベリ家の人間として生活している。この家にとって、明るみに出てはまずいことは書けないよ。むしろ王家もどこまで把握しているのか、僕には何も情報がないんだ。滅多なことは言えない」

「つまり、モニカ=ラベリ嬢の状況はかなり思わしくない、と」

「……改善はしている。彼女も、ジャンとの結婚については前向きだとはっきり話してくれた」


 視界の端でピケがあからさまに驚いた顔をしたが、アニスは視線をロティアナから逸らさなかった。


「彼女はとても頑張っているし、才気に溢れた女性だよ」


 ロティアナはひとつ瞬くと、じぃと彼を見詰めた。まるで鼠を見つけた猫のように。アニスはそれに気づかずカップを持ち上げ、力なく口の端を上げた。


「行儀指南役としての仕事は、殆どないようなものだよ。彼女はその気になれば優秀だ」


 彼はゆっくりとお茶を含んだ。姉と対峙している緊張が少しばかり解れる。


(この茶葉はラベリ領の夏摘みか。最近はモニカとのお茶も自領の茶葉が多かったが、こちらもいい。少し分けてもらおう)


 香り高い赤の湯気を深く吸い込み、彼は夜の茶会はこれにしよう、と頬を緩めた。「……ねぇアニス」と聞こえた声に顔を上げるまでは。


「ラベリ嬢とは随分と仲良くなったようね。わたくし、貴方が女性を褒めたのを初めて聞きました。『冷然たる琥珀ちっともデレない瞳』のなんて柔らかいこと」


 ギク、と彼の肩が揺れたのを、蜜色の瞳は見逃さない。艶のある紅の乗った唇が弧を描いた。


「……遅れて来るはずの荷物がまだ届かないようね。急な『お願い』でしたから、要望の物を用意できるのは夕方になるかもしれないわ」


 不意に彼女は艶やかに微笑んだ。未だ昼前。彼は知らず背を伸ばし、口の端を引き攣らせた。まずい、と視線を揺らすがもう遅い。


「ねえ、さ」

「貴方がわたくしに隠し立てができるとでも? 可愛い弟の初恋を応援しない訳がないでしょう!……さぁ全てお話しなさい、アニス。あぁ分かっています、アナベル姉さんの他には誰にも言いませんから安心なさい」


 にっこり、と彼そっくりの顔立ちが上品に笑み崩れたと同時、ピケはアニスの顔が色を変えて真っ青に強張るのを目撃した。


     ◇ ◇ ◇


「ろ、ロティアナさま! これは一体……!」

「ふふふ、これが今回取り寄せた例の下衣です。どうかしら、アニスに大きさは合っていて?」

「えぇ、恐らくぴったりと思われます!! 世の中にはこのような道具もあるのですね! あぁぁロティアナさまのご慧眼には感動致しますわ! あの黒の色粉も素晴らしい代物でした」

「あら貴方、見所がありますね」


 きゃっきゃと届いた荷を開けるロティアナとピケに視線を向けないよう、アニスは努めて、手元の恋愛小説に集中していた。


 ――既に夕方の迫る時分、三人はアニスの宛がわれた客室に移っていた。午睡を終えたモニカが書斎に現われる可能性――離れには客の訪れを伝えてはあるが――も否めず、ようやく彼の『お願い』した荷物が届いたという知らせもあったからだ。


(出会ってはいけない者たちが出会ってしまったのか)


 立ち振る舞いに厳しいロティアナが、侍女としての領分を女装以外の場面では固持するピケが、まるで親しい友人同志のような様子で爛々とについて語り合っている。

 背を撫でるような恐怖に、彼は唾を飲み込んだ。頁を捲っていられない。手にしているのは最近彼女が気に入っている『ためキス』だ。眼鏡の主人公が恋する女性に詰め寄られ、たじろぐ場面。

『眼鏡の男性』という属性――最近モニカが使う言葉だが、特徴のことを言うらしい――を己と重ねてしまい、重苦しい罪悪感が湧き上がる。


(ロティ姉さんに、モニカの現状を知られてしまった……助言はもらったしありがたいが、アナベル姉さんに知られてしまう以上、聖誕祭の舞踏会は絶対に成功させないとまずい)



 ――ロティアナはモニカの偏食と生活習慣の変化を神妙に聞き終えると、ピケにお茶のおかわりを所望して静かに立ち上がった。何も言わず、カウチに座るアニスの隣に腰を下ろす。

 ほっそりとしたロティアナの手が彼の肩に触れた。


「頑張りましたねアニス。わたくしは貴方を誇りに思いますよ」

「ロティ姉さん?」

「ラベリ嬢も貴方がここに来るまでは苦しかったことでしょう。寝食を乱し、ただ本の世界に溺れてしまう程に。それが今では朝に起き、ドレスを身に着けて食事を摂るようになったのですから」


 ロティアナは励ますように彼の手にも触れ、トントンと拍子を取るようにして撫でた。


「貴方は誇りこそすれ、今の状況を嘆いてはいけません。勇気を以て己を叱咤し、再び女性として立ち上がろうとしている彼女を鼓舞して差し上げなければ」

「ありがとう、姉さん」


 面と向かって肯定されることの喜びが彼を俯かせた。

 モニカを救おうとした行動は正解だったのだと、赦しを得た気分になった。さすがのロティアナもダーニャに扮して看病を行ったと語った瞬間は、目を丸くしていたが、それも今では優しげに垂れて彼を見上げていた。


「斬新で奇抜だけれど、彼女にとっては的を射た行動も評価されるべきよ。何かの変装に使ったとは聞いていたけれど、まさか『夜薔薇』のダーニャとはね……あと一月、彼女を大事にして差し上げて。きっと貴方を信頼しているでしょうから」


 フフ、と口元を抑えたロティアナは、感じ入った表情のアニスに目尻をさらに下げた。そしてしかと言い放った。ぐ、と手を掴みながら。


「それで、貴方が恋に落ちたのはどの辺りのことなのかしら?」



 ――洗いざらい吐かされたあとの空虚感と、はっきりと口に出した胸にくすぶるもどかしい恋心に、彼は遂に本を閉じた。

 パタンと音を立てたそれに気づいたか、ロティアナが振り向き機嫌の良さそうな声で言った。


「アニス、いえアニー! これを試着してみましょう! 今すぐ、さぁ今すぐに!」

「全力でお手伝い致します!!」


 ぐふっと漏らしたのは姉か侍女か。アニスには判別がつかなかった。



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 恋愛小説メモ

彷徨う愛の行方さま愛

意に沿わぬ結婚を強要された貴族の主人公が、家出を決行した夜、見知らぬ男と出会い駆け落ち同然で国を出る。時折現われる追手から逃れつつ、慣れない旅の中で愛を育むお話。旅の途中で致してしまい、全ホセ女子がその罪深さに歓喜したという。迎えに来た婚約者を前にして、主人公を攫って国境を越える場所は実在し、聖地と呼ばれている。

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