第2話 終わりと始まり

 三回の裏は三者凡退で切った優里だったが、続く四回裏は味方の失策などが重ってしまい、無死満塁の局面が出来上がってしまった。後一点奪われたら七点差となり、四回コールド負けで試合は終わってしまう。

「ここまで良く粘りましたけど流石に厳しいですね」と霧生が呟いた。

「無死満塁で迎えるのがクリーンナップだからね。一点入ったら終わりの局面なら自ずと内野は前進守備をせざるを得ないけどその間を抜かれれば点を取られるし、外野に飛ばされてもタッチアップがある」

「三振で切り抜けろってことですか……」

 太田は腕組をしながら試合を見守っている。面倒見が良く、新チームでは主将を務める彼女にとってはこんな状況では自然と黒須中に肩入れしてしまうのだった。

(頑張りなよ。勝負はまだ終わって無いんだから)

 太田は心の中でそう唱えながらマウンドで円陣を組む黒須中の内野陣を見つめていた。



マウンドに内野陣が集まると三塁手の澪が申し訳なさそうに涙ぐんでいる。

「す、すいません」

「ドンマイドンマイ!」

 主将として気丈に振る舞いながら優里は澪の胸をグラブで軽く叩いた。

「試合はまだ終わってない。泣くんだったら後にしなさい」

 そうだよ、と他の内野陣も頷き、澪を慰める。

「無死満塁だから内野は前進守備で取ったら迷わず、ホームに送球!良いね!」

 理子の言葉に内野陣は頷いて円陣を組んだ。

「最後の最後まで諦めない!悔いを残さないように戦おう!」

 優里がそう言って音頭を取ると円になった他の選手たちも「おお!」と声を上げる。

「「私たちは出来る!」」

 その懸命な姿勢に場内からはパラパラと拍手が飛んでくる。太田も霧生も橘も同様に拍手を送っていた。

 三番が右打席に入ってくる。今日はまだ打たれていない相手だが強豪校の三番を張っているだけあって勿論侮れない。

一球目二球目とストライクが先行してツーナッシングで追い込んでからの三球目、スライダーを捉えて打球が三塁線上に飛んだ。これが抜ければコールドだ。

(ここは抜かせない!先輩たちの野球をここで私が終わらせる訳には行かないっ!)

 前進守備を敷いていた澪が横っ飛びで打球を掴みに行く。グラブから弾いた球が転々と転がるがそれを掴むと急いでホームに送球する。

「理子先輩っ!!」

 ベースを踏んだ状態で澪からの送球をキャッチした理子は即座に一塁に転送する。一歩及ばず一塁はセーフになるが、澪のビックプレーでサヨナラコールドのピンチは防ぐことが出来た。

「おおお!!この局面で防いだー!!」

 黒須中の予期せぬ好プレーに八尋中への期待一辺倒だったスタンドの観客たちも沸いた。

「澪ナイスプレー!!」

 マウンドから優里がピースすると澪も笑顔でそれに応える。

「先輩!まだまだ野球しましょ!最後まであきらめずに!」

 澪の言葉に優里は頷いて向き直る。しかし続く打席は強打者の高塚南海だ。一つアウトを取ったとは言え、塁が埋まったこの状況では彼女を抑えない限り、未来は無い。



 六対〇の四回裏一死満塁、迎えるは四番高城南海。絶体絶命の状況を前に優里は軽く息を吐いた。身体は緊張しているが、心は不思議と冷静だった。

(なんでかな……こんな状況なのに意外と落ち着いてる)

 緊張は当然ある。だがそれと対照的に冷静な感情の自分がいた。以前絶体絶命に変わりは無く、打たれれば三年間が終わるこの状況で優里はあくまで落ち着いていた。

(この勝負に私の三年間の全てをぶつける!) 

 満塁のランナーを置いて迎えるは四番、絶体絶命のこの局面に優里は全ての力を投じた。



 高塚との勝負は一進一退の攻防となり、フルカウントになった。優里の球を高城は捉えてこそいるもののフェアゾーンには打たれていない。だがいつまでも粘られてはこっちが先に根負けしてしまう。

 はあはあ、と優里は息を整えながら額に浮かんだ汗を拭った。照りつける太陽は容赦なく体力を奪っていく。

 対する高塚はまだまだ余裕の表情を浮かべている。彼女にとってこの勝負は夏の初戦のコールド勝ち寸前に回って来たただの一打席でしか無いのだろう。

 手に握った白球を見ながら優里は「次の一球が最後になるかもしれない」と思った。

打たれれば終わり、外れても終わり。次の球を最後にしないためには今ここで高塚南海を打ち取るしかない。

(今の自分が投げられる最高の球を……!)

 無意識のうちに優里は振りかぶっていた。身体がまるで自分の物ではないかのように動いていく。まるで見えない何かに突き動かされているかのようなこれまで味わったことない奇妙な感覚だった。

(このチームを……私たちの野球をここで終わらせないっ!!)

地面をしっかりと踏みしめて全ての神経を指先に集中させたかのような特異な感覚に引きずり込まれながら優里は渾身のストレートを高城の内角に向けて放った。


 優里の左腕から放たれたストレートは高城の胸元目掛けて抉る様に対角線上から向かってきた。そしてその急角度のクロスファイアに彼女は無駄のない鋭いスイングで応戦する。だが――

(なっ、ここから更に伸びる!?)

 ストレートは高城のバットの手前で更に伸びた。それは最早一つの生物のような躍動を見せてバットは空を切り裂いた。

 バシッ!と乾いた捕球音が静寂の中で響いた。今まで何度も逸らして来た優里のストレートだったが、この土壇場で理子は完璧にしかもこれまでで最高のウイニングショットを捕球して見せた。

 そしてこの土壇場で優里は高城を初めて土を付けた。それも三振というこれ以上ない形で――



 試合の熱気も冷めやらぬうちに通路の方へと観客が引き上げて行く。試合は終わった。

 四回裏無死満塁のピンチを無失点で切り抜けた優里は続く五回六回でも躍動し、守備にも助けられながら八尋中の打線を抑えて追加点を与えなかった。しかし、肝心の黒須中の打線が振るわずに一点が遠いまま結局六対〇で試合は終了した。

「さて私たちも帰ろうか」

 はい、と太田と霧生が橘に頷いた。

「来た甲斐がありましたね」

「うん。やっぱり高城南海は要注意ね」

「あの黒須中のピッチャーはどうでした?」

「粗削りだけど面白い子ね」

霧生がグラウンドに目を下ろすと整列を終えた両チームの選手がベンチに下がって行く。だが勝った八尋中の選手に喜びの顔は無かった。

(これじゃどっちが勝ったのか分からないな。それだけ八尋にとっては美郷って子の投げた球が堪えたんだろうけど)

 するとベンチに下がる優里に高城が声を掛けているのが観客席から見えた。流石に何を話しているのかまでは分からないが、友好的な雰囲気なのは遠目からでも何となく感じた。

「美影何やってるの。混む前に出るよ。先生がスタボ寄って行こうってさ」

 先を行く太田に呼ばれて「今行きます」と美影は急いで階段を駆け上がって行った。

 


「美郷さんっ!」

 整列を終えて下がって行く所で優里は声を掛けられた。振り返るとそこには高城が立っている。

「あっ、高城さん」

試合中は帽子を被っていたから気が付かなかったが、彼女は前髪を長く垂らしてヘアバンドを巻いている。目鼻立ちもくっきりしていてユニフォーム姿でも分かる程華やかな容姿だ。背丈はそこまで変わらないし、出るとこは出ているが体の線だって優里と同様に細い。この身体のどこにあれだけ飛ばせる力があるのだろうか。

「良い試合だった。ありがとう」

「あ、いえこちらこそありがとうございました」

 高城が差し出して来た右手を優里は握った。

(硬い。これがスラッガーの……いや高城南海の手なんだ)

 握った手は美少女の容姿からは想像も付かないほどに硬く、そしてマメだらけだ。それは何百何千、いや何万と素振りしてきた高城南海の努力の跡だった。

「三打席目のクロスファイア凄かった。あれがあなたの本当の球なんだね」

「いや、そんな……あの時はとにかく無我夢中で何が何だか自分でも分からないって言うか……」

 高城に投じた最後の一球は殆ど感覚が無かった。それ以降は八尋中打線を封殺したが、同じ球は投げられなかった。

「でも私はその球を打つことが出来なかった」

 高城は悔しそうな顔で優里を見つめている。

「去年全国に行った時も速い球を投げる投手とは何人も戦ったけどあんな球を投げてきた投手は美郷さんが初めてだよ。今日の試合で二本打って試合には勝ったけど勝負で勝ったとは全然思っていないから」

 勝ったと思ってないから?

試合は完勝、ホームランも打って何打点も稼いだのに最後の一球を打てなかったのをここまで引き摺っている。これが上で野球をやって行く人の意識なのかと優里は痛感した。

(ただ勝つだけじゃ無くて完璧に勝たなきゃこの人たちの中じゃ納得のいく勝利にならないんだ)

 自分たちの意識とは雲泥の差だ。

「でも次は必ず打つから。だから高校生になったまた戦おう。野球は続けるんだよね?」

「うん、そのつもり」と優里は頷いた。

「何処に進学するの?」

「うーん、進路はこれからだけど出来れば県内の女子野球部がある所には行きたいかな。高城さんは?」

「色々誘われてるけど私は神園学園に進学するつもり」

 神園学園は鹿児島県の女子高校野球黎明期に創部された全国で最も古い女子野球部がある高校でこれまでに何度も全国制覇を達成している名門校だ。

「次はもっと大きな舞台。そうね……甲子園を賭けた試合で決着を付けようよ!」

「甲子園か……そうだね。また戦おう」

「約束だよ。でも次は必ず私が打って勝たせてもらうから」

「うん、私も次こそは負けない」

 互いに顔を見合わせて笑い合った。さっきまで戦っていたのが嘘のようだ。

「それじゃあまた。お互い頑張ろうね」

「うん、またね」

最後に爽やかな笑顔で手を振りながら高城は仲間たちの元へ戻って行った。その笑顔は先程迄真剣勝負に徹していたとは思えないほど柔らかで年相応の可愛らしい少女のそれだった。

「甲子園か……」

 一方的にライバルしてきた高城の姿に優里は戸惑いながら彼女に握られた手を開いた。手のひらには高城の手の感触と熱がまだ残っている。その熱が試合のものか高城のものか、それとも自分の内に秘めた熱なのかは分からない。だがこれだけは分かった。

「不完全燃焼じゃ終われない……私の野球はまだ何も終わっちゃいない」

 手のひらに残った熱を逃がさないようにギュッと手を閉じた。

 負けたままでは終われない。今の優里を動かすものはそれで十分だった。



 七月中に澪を主将とした新体制への引継ぎが完了して優里たち三年生は正式に野球部を引退した。それからの夏休みは受験勉強に精を出し、息抜き程度に野球部の後輩の指導に参加した。

「優里先輩は何処の高校受験するんですか?」

練習中にそう聞いてきた澪に対して優里は「私は県内で野球が強い所に行くよ」と答えた。

 志望校は夏休みのうちに決まった。熊本の桜彩学院女子高等部、通称桜彩女学院だ。

桜彩は女子プロ野球の帝都ワルキューレで一昨年まで活躍していた橘京華が春から新しく監督が就任して先月の夏季九州予選で創部初のベスト8に進出するなど注目を浴びている新進気鋭の高校だ。

監督の橘は現役時代に試合をテレビで観ている。利き腕こそ違うが、彼女の投球スタイルは優里が目指している理想形だった。

そんな彼女の指導を仰ぎ、投手として成長したかった。高城と再戦し、今度こそ自分が勝つ。そして甲子園に行きたい。優里の決意は揺るぎないものになった。



 二学期から本格的な受験モードに突入したが、合間を縫ってトレーニングは続けた。朝夕の走り込みに筋トレを欠かさず、時には後輩の練習や近所のおじさん連中がやっている草野球に混ざることもあった。引退後、実戦経験を積む機会が殆ど無かったので趣味の草野球でも優里にとっては貴重な実戦登板だった。

「優里ちゃん高校でも野球続けるんのかい?」

 草野球仲間のおじさんにそう尋ねられ優里は笑って「続けます」と答えた。

「中学じゃ全然勝てなかったけど甲子園目指してるから」

「そうかい、じゃあ優里ちゃんが甲子園行ったときはおじさん達草野球仲間で応援団作って応援しに行かないとな」

「あんまり恥ずかしいのは止めてくださいよね」

 そう言って優里は笑った。



 秋が終わって冬に入る頃、高城の近況を知った。夏の全国大会で四強に残った彼女は進学先を神園学園に決めたようだ。

九州内なら高校三年間で何度も戦う機会はあるだろうし、甲子園を目指す以上神園学園を避けては通れない。彼女が言っていた「甲子園を賭けた試合」の相手としてはこれ以上無いだろう。

 寒さが厳しくなる冬の時期から投げ込みの量を減らして走り込みと筋力トレーニングを重視するようになった。受験勉強に追い込みを掛けながらトレーニングは欠かさなかった。

練習、経験、知識、自分にはまだまだ何一つとして足りない。何一つとして自分は満たされていない。飽くなき野球への欲求と向上心という渇きが優里を突き動かした。

 冬が終わって受験のシーズン、桜彩女学院の偏差値自体は県の中でも中の上と言ったところだったが、最後の最後での追い込みが見事に功を奏して優里は合格を果たした。

 そして春――



 三年間を過ごした校舎を背にしながら優里は校門へと歩いた。もう友人や野球部の仲間との別れは一応済ませた。二度と会わない訳じゃ無いし、同じ熊本県内にいればきっと何処かで会うはずだ。

(それにしても友達が誰一人として桜彩に進学しないのは参ったな……また一から友達を作らなきゃいけないのか)

 どちらかと言えば人見知りの優里にとってそれが目下最大の悩みだった。

「優里先輩!!」

 大声で後ろから呼び止められた。振り返るとそこには野球部の新しい主将に就いた澪が練習着姿で立っていた。

「澪、どうかした?野球部の送別はして貰ったけどまだ何かあるの?」

「最後に優里先輩に言っておきたいことがあって」

「言っておきたいこと?」

 何だろうか?と優里は首を傾げた。まさか恨み言?いや、彼女に限ってそれは無いだろう。

「優里先輩!私必ず桜彩に行きますから!」

「澪……」

「絶対優里先輩の後ろ守って見せますから!」

 澪は泣きながら笑っていた。

「うん、楽しみにしてるね」

「絶対……絶対優里先輩と甲子園行きます!私頑張りますから!」

 そう言って澪は涙を拭い、「優里先輩も頑張ってください!」と笑顔で走り去って行った。

「甲子園か……」

 ヒラヒラと散った桜の花びらを掴んだ。

(絶対に行って見せる。あの甲子園のマウンドに立つんだ)

 そう決意を新たにした優里は校門を出て三年間過ごした黒須中との別れを告げた。


 春は終わりの季節でもあり、始まりの季節でもある。優里の三年間の中学生活は終わり、新たな高校生活が始まろうとしていた。



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