第八章 調査二日目

 翌日、一月二十一日土曜日朝九時。県警本部近くのビジネスホテルの前で、土井と橋本は榊原が出てくるのを待っていた。

 あの後、県警本部では捜査会議が開かれていたが、結局大した進展もないまま終わってしまっていた。こうなれば、今日の榊原の捜査にすべてがかかっていると言っても過言ではないだろう。

 きっかり九時、榊原はいつものスーツ姿でホテルの前に現れた。

「待たせたな」

「いや、問題ない。で、今日はどうする?」

「ひとまず船橋の現場に行こう。それから江戸川の現場だな。それで一通り現場の捜査は終わることができると思う」

「わかった。土井警部、頼む」

「了解です」

 三人はパトカーに乗り込み、そのまま船橋の現場へと向かった。途中、車内で榊原と橋本が会話をする。

「で、昨日はホテルで何をしていた?」

「どういう意味だ?」

「お前の事だ。ただ休んでいただけじゃないんだろう」

「……特別な事はしていない。ただ、考えていた」

「考えていた、ね。で、何か思いついたか?」

「……まぁ、それなりにはな。もっとも、まだ漠然としたものに過ぎないが」

 そう言いながらも、榊原の目は鋭い。榊原の頭の中では確実に論理が組み上がっている様子だった。

「とにかくすべては現場を見てからだ。結論を出すのはそれからでもまだ遅くはない」

「……わかった。今は何も聞かないでおこう」

 そんな会話をしているうちに、パトカーは船橋の現場となった住宅街へと到着しつつあった。

「そこの公園だ」

 パトカーは現場となった公園の前で停車する。事件から数ヶ月経過しているが、事件の影響からか公園は今でも立入禁止のままだった。榊原たちは黙って荒れた公園の中に入っていく。

「直接的な現場はそこの砂場です。被害者の戸内由香は暴行を受けた後にブランコの鎖で首を絞められてからナイフで刺されて死亡しました」

 土井が軽く解説する。

「砂場から足跡は出ましたか?」

「いいえ、完全に消されていました。犯人は残酷ですが頭は悪くありません。証拠の隠滅などは完璧です。だからこそ、我々も行き詰っているのですが……」

「でしょうね。私も今さらここから新たな証拠が出る可能性は低いと思っています。何だかんだで警察は優秀ですからね。そんなものがあったら初動捜査の時点でわかっているはずですし」

 榊原はそう言って公園を一瞥する。

「ところで、この事件では犯人を目撃した人物がいるという事でしたが」

「えぇ。被害者の友人の八木原美珠という少女が、事件の数日前に被害者を尾行する謎の人物を見ていました。それが『シリアルストーカー』の存在を決定づける事になったのですが……」

「話を聞いてみたいですね」

 榊原はそう言いながら独り言のように言葉を続ける。

「今日は土曜日。となれば学校で部活か、あるいは自宅かだな。ひとまず、学校に行ってみるか」

「ひとまずって……いなかったらどうする?」

「その時は素直に戻ればいいだけの話だ」

 橋本の突っ込みに律儀に答えながら、榊原は公園を出て彼女の通っていた学校……坂松高校の方へと歩きはじめる。

「ここから高校まで何分くらいでしたか?」

「ええっと、確か歩いて十分くらいです。学校と自宅までの通学時間が二十分で、あの公園はそのほぼ中間にありますから」

 土井はメモを確認しながら慎重にそう答えた。

「確か、猫の世話をするためにあの公園に立ち寄ったと判断されたようですね」

「そうです。一応、猫の体も調べましたが、体毛などは付着していませんでした」

「その猫は今どこに?」

「事件の証拠になるかもしれないという事で所轄の船橋警察署が預かっていたんですが、何やらすっかり警察署に居ついてしまって、今や署の看板娘みたいになっているそうです。何というか、やってくる市民の方にも好評なんだとか」

「警察犬ならぬ警察猫、ですか。どこぞの推理小説みたいですね。願わくば、知恵を拝借できればいいんですが」

「言ってみればこの事件の唯一の目撃者ですからね。人間の言葉を話せないのが残念です」

「まったくですね」

 榊原としてはそう苦笑する他ない。

 そんな話をしているうちに、三人は彼女の通っていた坂松高校に到着した。敷地に入ると、グラウンドでバトミントン部が練習しているのが見える。

「どうやら当たりだな。練習が終わるまで待たせてもらおうか」

 ひとまず玄関の事務室に声をかける。土曜日ではあるが休日講座などがあるためか事務員はおり、そのまま会議室と思しき部屋に案内される。

「意外とあっさり通されたな。プライバシーがどうのとか言われて拒否されるかもしれないと思っていたが……」

「案外、事務管理がいい加減な学校みたいだから、それも仕方がないかもしれないな」

「何でいい加減だってわかる?」

「これだよ」

 橋本の言葉に、榊原は会議室の掲示板を示した。そこには何枚かお知らせのようなものが貼られているのだが、そのいくつかが期限切れになっているのである。例えば……


『数理学検定受験者募集……申込期日:十月五日まで』

『剣道スポーツ少年団中学生団員募集! 君も剣道をやってみないか! 十一月二日、当校武道場にて公開合同稽古会開催予定! 見学者求む!』

『高校三年生対象 駿河塾主催駿河模試開催 会場:駿河塾渋谷本校 日時:十二月二十九日 受験希望者は十二月一日までに進路課に申し出る事』

『カナダ交換留学希望者募集 英語の成績及び面接で決定 内申にも反映されます 期間:十月十五日~十月二十二日 応募締め切り:九月十五日』

『「朝が来た にこやか挨拶 元気な日」 十月一日~七日は挨拶強化月間です! 生徒会広報部』


 それらの張り紙を見て、橋本は深いため息をついた。

「よく理解できた」

「しかし『にこやか挨拶』とはなかなかにシュールな標語だな。誰が考えたのか非常に気になるところだ」

 榊原はそんな感想を漏らす。と、そこへ声がかかった。

「あの……それ、私が作った標語……なんですけど……」

 振り返ると待ち人……戸内由香の友人で問題の男を目撃した八木原美珠が気まずそうな表情で立っていた。部活終わりらしく、まだ長袖の体育着のままだ。

「あぁ、すみませんね。わざわざ来ていただいて」

「いえ、それはいいんですけど……」

 自分の作った標語に対して微妙な感想を言われて、美珠はどこか複雑そうである。そんな美珠に対し、橋本が咳払いして自己紹介する。

「警視庁の橋本です。こっちは榊原。土井警部はご存知ですね。実は改めて少し聞きたい事がありまして、こうして無理を承知でお邪魔しました」

「はぁ」

 美珠は怪訝そうにそう言ったが、そのまま素直に椅子に腰かけた。榊原たちも椅子に座り、今回も榊原が質問を進めていく。

「では早速。そこの土井警部に聞いた話だと、事件当日、戸内さんは部活が終了した後一人で先に帰ったという事ですね。時刻は完全下校時刻付近の午後六時前後。確認ですが、間違いありませんか?」

「はい。それが、私が由香を見た最後です。まさか、猫に餌をやるためだとは思いませんでしたけど……」

「猫の事はあなたには全く?」

「聞いていません。聞いていたら私も一緒に世話をしに行ったと思います。私も猫は好きですし」

「なるほど……話を戻します。あなたは被害者と同じマンションに住む幼馴染だそうですね」

「そうですけど、それが何か?」

 美珠は訝しげに聞き返す。

「つまり、あなたの家も被害者の家と同じ場所にある。当然通学路も一緒です。そして、あなたの話では由香さんはあなたよりも先に帰っていった。目的は現場の児童公園で猫の餌をやるためで、この公園は通学路の傍にあります。つまり、あなたも帰宅する際にその傍を必ず通る事になります」

「それは……そうですけど」

「となれば、一つ確認しておかなければなりません。八木原さん、あなたは帰宅する途中、あの児童公園の傍を通りがかった時に何かを目撃したりしませんでしたか?」

 美珠は困惑した表情を浮かべた。

「何かって……」

「由香さんはあなたより先に帰った。つまり、あなたより先に児童公園に行き、そこで事件に巻き込まれた事になります。となれば、遅れてあなたが公園の傍を通りかかったとき、犯行が今まさに行われていたか、そうでなくても公園内にまだ犯人がいた可能性が出てくるんです」

 その可能性に、美珠の顔色が変わった。

「わ、私があそこを通った時に?」

「あぁ、誤解しないでください。これはあくまで可能性の話です。そこでお聞きしたいのですが、あなたがあの日、あの公園の前を通り過ぎたのは何時頃ですか? それによって状況が変わってくるのですが」

「えっと……確か、午後六時半頃だったかと思います」

 その言葉に榊原は反応した。

「六時半……聞いた話だと、ここからあの公園までは十分程度だそうですね。しかし、この学校の最終下校時刻は午後六時。ちょっと到着まで時間がかかりすぎてはいませんか?」

「あ、それは……」

 美珠の顔色が少し変わるのを榊原は見逃さなかった。

「あらかじめ言っておきますが、私は別にあなたが犯人だとかそんな事を考えているわけではありません。犯行形態的に考えて、あなたに犯行は不可能ですから。ただ、あなたの話に辻褄が合わない事も事実です。その辺、どうですかね?」

 美珠は少しの間何か躊躇していたが、やがてふうと息を吐いてこう言った。

「実は……学校を出た後で急に腹痛になって、その……近くのコンビニのトイレに……」

 その言葉に、土井と橋本が顔を見合わせ合った。それなら確かに言いにくいのも理解できる。だが、榊原は表情を崩さずに質問を続けた。

「そうでしたか……では、その件はこれ以上突っ込まない事にしましょう。何はともあれ、あなたは六時半頃にあの公園の前を通りかかった。では改めて聞きますが、この時公園内で何かを目撃しませんでしたか?」

 だが、その問いに対して美珠は首を振った。

「何かと言われても……私は公園の傍を通り過ぎただけですから。別に公園の中を覗き込んだわけでもないし、帰るのが遅れていたから少し小走りでしたから……」

「何も見ていない、と?」

「はい。あの公園は入口から中を覗かないと全体が見渡せないようになっていますから、気がそっちに向いていなかったら気付かないのも無理はないと思います」

 そこで土井が榊原に耳打ちした。

「実際、遺体があった砂場は街灯から少し離れた場所にあって、公園の外からパッと見ただけでは何かわからなかったと思います。現に発見者の大北自衛官も、たまたま近くを通りかかったときに公園の方に気が向いて何かが倒れているのを発見。ですが、近くに寄るまではそれが何かはわからなかったそうですし。もっとも、自衛官としての勘で何か嫌な予感はしたそうですが」

「大北自衛官のアリバイは完璧ですから彼が犯人という可能性は低い。となれば、彼の証言は真実に近いという事ですね。そうなると、彼女の証言も妥当だという事になります。ただし、何もなかったというならそれはそれでわかる事もありますが」

「それは?」

「その時点……つまり午後六時時点で犯行がすでに終わっていたという事です。いくらなんでも襲撃中に通りかかったのなら、物音でわかるはずですから。また、六時十分頃に現場に来たはずの被害者が、いくら猫の世話をするためとはいえ二十分も公園にとどまっている可能性は低い。となれば、八木原さんが通り過ぎた時点で彼女がすでに殺害されていたと考えるのが筋でしょう」

「問題は、その時犯人が公園内にいたか、ですね」

 そんな風に土井と榊原が小声で話している間にも、美珠は必死にその日の事を思い出そうと努力していた。と、その表情が急に何かに気付いたように変化した。

「そう言えば……」

「何か思い出しましたか?」

「いえ、たいしたことじゃないんです。多分、事件とは関係がないでしょうし」

「何でも構いません。聞かせてもらえますか?」

 その言葉に、美珠はなぜか恥ずかしそうにこう言った。

「公園の少し手前だったと思いますけど……私、前をちゃんと見ていなくて、停まっていた車にぶつかりかけたんです。普段、あんなところに停車する車なんてないから反応が遅れて……。何とかぶつかる直前に車のトランクの上に手をついて助かったんですけど、正直あの日に変わった事といったらその車くらいで……」

「ちょっと待ってください」

 何かが榊原の思考の琴線に触れた。

「その車、無人でしたか?」

「は、はい。誰も乗っていませんでした。私は急いでいたからすぐに先に進みましたけど」

「車種と色は何ですか?」

「えっと、車の種類はわかりませんけど、普通の乗用車でした。色は黒だったかと……」

 その瞬間、榊原たち三人の顔色が変わった。黒の乗用車……それは犯人が犯行に使用していると思われている車その物である。美珠はこの事実に気づいていないようだが、車の情報は現在でも一般には非公開で、事件の数日前に犯人を目撃した彼女も車その物は目撃していない。車の話は男が逃げた先のコンビニの防犯カメラの映像から確認された事実である。

 それが事件の時間帯に現場近くの不自然な場所に停車していたとなれば、それが指し示すのは一つである。

「一つ確認しますが、あなたはその車にぶつかるのを避けるためにトランクの上に手をついたんですね?」

「は、はい。両手で思いっきり」

「つかぬ事を聞きますが、この時手袋をしていましたか?」

「手袋、ですか? いいえ、まだ十一月の中旬だったからそこまで寒くなかったし……」

 それだけで充分だった。橋本が真剣な表情で告げる。

「すみませんが、後であなたの指紋を採取させてください」

「な、何でですか?」

「犯人を特定する手掛かりになるかもしれません」

 その言葉に、美珠は目を白黒させていたのだった。


「八木原美珠は犯人の車に思いっきり手をついた。つまり、その車のトランク部分には彼女の指紋がはっきり残っているはずだ」

 あれから数十分後、移動するパトカーの後部座席で榊原はそう断言した。橋本も重苦しい表情で続ける。

「それが検出されれば、該当車が事件当時あの現場近くにあった証明になる。もしナンバーが付け替えられていたとしても、これで犯人を追い込む事は出来るはずだ。少なくとも、車の持ち主が第三の事件当時現場にいた事を立証できる」

 が、土井はあくまで慎重だった。

「しかし、指紋が付着したのは十一月です。風雨にさらされている車に付着した指紋が残っているでしょうか?」

「これが普通の車ならその可能性を考慮しなければならないが、今回の犯人はおそらくこの盗難車を犯行当日やその数日前の調査の段階のみにしか使っていない。ならば、犯行日以外はどこかに隠している可能性が有力だ。その隠し場所が屋外なら万事休すだが、もし屋内なら残っている可能性はある」

「おまけにこの犯人、今までの事件では常に晴れの日を狙っているようだ」

 本部で問い合わせた資料を確認しながら榊原が呟いた。事実、五件の事件はすべて晴れの日に発生していた。

「多分、雨の日の犯行を嫌っているんだろう。雨がイレギュラーな事態を引き起こすのを用心しているのかもしれない。が、今回はこれが功を奏するかもしれない」

「ひとまず、指紋の件は本部に送っておいた。怪しい車がある場合は指紋の調査をするように通達してある。とりあえずこれで一歩前進だ」

 橋本はそう言って背もたれにもたれかかった。

「さて、次が最後か」

「江戸川区の一件ですね。正直、こちらに関して管轄外の私が言えることは少ないのですが」

 土井が申し訳なさそうに言う。パトカーはすでに千葉を抜けて東京都内に入っていた。

「大丈夫だ。こっちの件については私が把握している」

 橋本の言葉に、土井は複雑そうな表情を浮かべた。警視庁の捜査一課長に説明役のような事を押し付ける事に少し抵抗を感じたのだ。だが、橋本はそんな事は気にしていないようである。

「で、榊原。どこから調べる? やはり現場か?」

 だが、これに関して榊原はなぜかゆっくり首を振った。

「いや、この事件に関しては、ここまできたら調べる場所は一つでいい」

「というと?」

「被害者の勤務先だ。そこである事を確認できれば、今回の事件に対するひとまずの結論が出る」

 その言葉に橋本は驚いた表情を浮かべた。

「それは本当か?」

「あぁ。そんなわけで、土井警部、お願いできますか?」

 榊原の指示に土井は少しためらったが、橋本が頷くのを見て考えても無駄だと悟り、黙ってパトカーの方向を変える。橋本は榊原の言葉の真意を確かめようとしたが、それ以上榊原は何も話そうとしなかった。

 数分もしないうちに、パトカーは第五の事件の被害者・森浜涼子の勤務していた「東京ワンダーツアーズ」に到着した。商業ビルの二階に本社を置く小さな会社であるが、海外向けツアーの企画や運営を行っているという。

 いきなりの刑事たちの訪問に、出迎えた東京ワンダーツアーズの初老の社長は当惑気味の表情を見せた。

「あの、今日は一体何の用でしょうか?」

「いえ、少し確認したい事がありましてね。森浜さんのデスクはまだそのままですか?」

「えぇ。警察からもそのままにしておくように言われていますから」

「見せてもらえますか?」

「構いませんが……彼女の仕事は出張が多かったもので、デスク周りは綺麗なものですよ」

 そう言いながらも、社長は榊原を彼女のデスクに案内した。確かに、机の上はすっきりとしていて必要最低限の物しか置かれていない。

「几帳面な性格の女性だったみたいだな」

 そう言いながら、榊原は机の上の物をチェックしていく。

「何を探している?」

「彼女のスケジュールだ。事件前後の彼女の足取りを知っておきたい」

 そう言いながら、榊原は引き出しをあさっていたが、やがてその中からある物を見つけた。

「システム手帳だな。予定は……さすがに出張が多いな。ここ一ヶ月だけでも添乗員として何度もツアーに同行している。それに現地視察だのホテル関係者との会合だの、かなり多忙だな。むしろ出社している日の方が少ない」

「事件前後はどうなっている?」

「事件発生が二月八日。だが二月四日までは添乗員としてツアーに同行していて、五日と六日が休日。七日から九日までが出社日で、本来なら事件発生の三日後となる十一日から別のツアーの添乗員として再び出張する予定だったらしい」

「多忙だな……」

 橋本の呟きに社長が頭をかく。

「何分小さな会社ですので、社員一人一人の負担がどうしても大きくなってしまうんです」

「……いずれにせよ、こんなタイトなスケジュールで動いている彼女をストーカーし、複雑な生活習慣を特定した上で、針の合間を縫うように設定された出社日を狙って殺人を起こすというのはなかなか難しい話だと思うが」

 その言葉に橋本も同意する。

「確かに、少なくとも適当に標的を選んで一から全部調べていたら、一ヶ月ではとても追いつかないというのは間違いなさそうだ」

「つまり、今回の捜査を始めたときに指摘した、犯人が被害者を適当に選んでストーカーしてから殺害しているという考え方に対する矛盾点がここからも証明される事になる」

「うーん……」

 橋本は考え込んでしまった。

「榊原さんはこの可能性を最初から考えていたんですか?」

「被害者が旅行会社勤務という時点でそのような実情があるのではないかとは思っていました。だからこそ、こうして彼女のスケジュールを確認する必要があったんです」

 土井の問いに対し榊原はそう答え、そのままシステム手帳を元の場所に戻す。

「いずれにせよ、これで最低限確認したい事は確認できた。あとは……」

 そう呟くと、榊原は社長に向き直った。

「質問ですが、彼女はどのような性格の人物でしたか?」

「何というか、ビジネスライクな性格をしていましたね。あくまで仕事は仕事、プライベートはプライベートというように、公私をしっかり分ける子でした。だから、プライベートの事を聞いた事はありませんね。ただ、聞いた話だと元々色々な場所に行ける仕事をしたかったらしくて、この仕事に誇りを持っていたのは確かです。大学は東京にある有名な外国語大学で、英語の能力も堪能でした」

「そうですか……」

 そこで榊原は後ろの橋本に小声で問いかけた。

「その大学時代の友人はいないのか?」

「もちろん調べた。が、学生時代の彼女も今とほとんど変わらず勉強一筋のタイプで、サークルに無所属。ゼミ仲間はいたが、必要最低限の付き合いで特定の友人はいなかったようだ。今、高校時代にまでさかのぼって調べてはいるが、正直望み薄だ」

「そんな性格でよくコミュニケーション能力が大切な旅行会社に就職できたな」

「さっき社長も言ったように、あくまで仕事は仕事と割り切っていたらしい。仕事上の付き合いと個人的な付き合いを徹底的に区別している人間だったようだ。そういう意味では几帳面というのも的外れではないと思う」

「典型的な仕事人間、か。そうなると予想通り個人的に何か恨みを抱いたという線は薄いか」

 榊原はその辺は想定内といわんばかりの表情をしている。

「他に何か聞いておきたい事はあるか? 今回は随分あっさりとしているようだが」

 橋本は心配そうに尋ねた。他の場所に比べてあまり突っ込んでいない事に不安を感じているようである。が、榊原はすました表情でこう言った。

「……いや、これで充分だ。知りたい情報はこれですべて知る事ができた」

 そう言うと、榊原は社長に一礼し、呆気にとられている彼を残したまま会社を後にした。橋本達も慌てて後に続く。

 そのまま三人はパトカーに戻り、一瞬何とも言えない沈黙が車内を支配した。橋本も土井も、榊原が何を考えているのか掴めずにいる。一方、当の榊原は何やら深刻そうな表情で真剣に考えている様子だった。

「で、どうだ?」

 重苦しい沈黙を破ったのは橋本だった。真剣な表情で榊原を見据え、榊原も黙ってそれに応えている。

「何やら掴めている様子だったが、今までの調査で何かわかったのか?」

「そうだな……」

 橋本の問いに、榊原は目を閉じてしばらく考え込む。橋本は黙ったままそれを見守っていた。今、榊原の頭の中で様々な情報が高速で回転している事を知っているからだ。土井はその様子を黙って見つめるしかない。

 そのまま十分ほど時間が経過する。不意に榊原は目を開けると、決然とした様子で橋本に告げた。

「いいだろう。アドバイザーとして一通り警察を納得させる事ができる推理はできたと思う。もちろん、『シリアルストーカー』の正体も」

 その言葉に土井は驚愕した。捜査本部が数ヶ月かけて追い求めてもわからなかった「シリアルストーカー」。その正体が、いくら情報があったとはいえこれだけの捜査でわかったというのである。その気持ちは橋本も同じようだった。

「本当か? もちろんお前の事は信頼しているが、もう少し捜査をするべきじゃないのか?」

 だが榊原は自信があるようだった。

「いや、この推理なら矛盾はない。それに次の犯行までに時間がない以上、ひとまず現在ある情報で推理を組み上げるべきだと判断した。一度県警に戻ってくれ。今から捜査本部でそれを話す」

「あぁ、それは構わんが」

 と、ここで榊原は橋本にこう付け加えた。

「だが、その前に一つ頼みがある。この際、ついでに聞いてくれないか?」

「頼み……何だ?」

 首をかしげる橋本に対し、榊原は思わぬ事を言った。

「千葉地検から担当検事を一人、捜査本部に呼んでほしい」

「検察? 何でまた?」

「ちょっとややこしい事になりそうなんでな」

 榊原はそう言うと、はっきりとこう告げた。

「材料はそろった。そろそろ調子に乗って油断しているこの連続殺人鬼の息の根を止めにかかるとしようか」

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