第二章 幕張事件

 二〇〇五年十月九日日曜日深夜。千葉県千葉市美浜区。一般的に幕張副都心と呼ばれているこの地区は「職住学遊」が融合した未来型国際都市として設計され、一五七メートルのツインタワーによって構成されるワールドビジネスガーデンを中核とするビジネス街、近隣の某テーマパークや成田空港利用者の宿泊地として栄えるホテル街、幕張ベイタウンを中核とする集合住宅地、幕張海浜公園を中心とする公園地区などにより構成されている。また、幕張メッセや千葉ロッテマリーンズが本拠地とする千葉マリンスタジアムなども存在し、まさに千葉県の中核、副都心の名に恥じぬ大都市である。

 午後十一時頃、青梅久貴おうめひさたかはイライラした様子で千葉マリンスタジアムの辺りを歩いていた。根っからの西武ファンである青梅は本日千葉マリンスタジアムで行われたプレーオフシーズンのロッテvs西武の試合を観戦していたのだが、結果は3-1で西武の惨敗。やりきれない怒りを抱えながら、青梅の足はいつしか近隣にある幕張海浜公園へと向かっていた。

「くそっ、面白くない!」

 そう呟きながら、青梅はすっかり真っ黒に染まった東京湾を眺めた。彼は幕張のビジネス街にある生命保険会社の営業部員である。日々ノルマに追われるストレスの高い仕事であり、そんな彼にとって野球観戦は一つのストレス解消法でもあった。しかも地元で西武が試合をするとなって喜び勇んで球場にやってきた次第なのだが、結果は敗戦。この日のために明日は有休をとっているが、そのまま家に帰る気もなく、何となく海の方へ足を向けたのである。

 四十歳になるが未だ独身。脱サラも考えなくはない今日この頃である。海を眺めているうちに、青梅の胸には何とも言えない虚無感が漂いつつあった。

「……俺、何やってるんだろう」

 そう言って空しい気分のまま家に帰ろうとして……その視線が不意にある一点で止まった。

「ん?」

 海岸の波打ち際。そこに何かが転がっている。街灯もない海岸ゆえに何かはわからないが、不思議とそれが青梅の気を引いた。気づいたときには、青梅はそちらへ向かって歩みを進めていた。

 なぜかはわからないが、妙な胸騒ぎがする。だが、まるで吸い寄せられるように青梅は海岸に近づいていく。暗闇に包まれた海岸だが、近づくにつれてそれの正体が青梅の目にも見えるようになっていき……

「う……」

 直後、青梅は絶叫した。

「うわわぁぁぁっ!」

 青梅は狂ったように叫びながら、まるで這いずるように元来た方へ戻っていき、そのまま近隣の交番を探し始めた。青梅が見たのはそれだけの反応をしてもおかしくないものだった。

 暗闇の波打ち際に転がっていたもの……それは胸に刃物をつきたてられた女性の死体だったのである。


 三十分後、現場となった千葉マリンスタジアム近くの海岸は、先程と打って変わった明るさで照らされていた。もっとも、その光源となっているのは警察の設置した照明器具であり、海岸には多くの刑事たちがうろついていたのだが。

 だが、駆けつけた所轄の刑事たちの表情は一様に険しかった。浜辺に転がる女性の遺体……その胸には一本のナイフが突き立てられ、そしてその髪はまるで何かで強引で切り取ったかのように乱れていたからである。

「これは……木更津の女子大生殺しと同じじゃないか……」

 この時点で、所轄署は県警本部に事態を連絡。木更津の事件と同一性があるという事で、木更津の捜査本部から直ちに土井と中司が駆け付ける事となった。まさかの連続殺人となり、現場に到着した両者の顔には悔しさがにじみ出ている。

「まさか連続殺人に発展するとはな……」

 中司が苦々しげに言うが、土井は黙って砂浜に横たわる遺体の方を見つめている。最初の事件から一ヶ月、事態は大きく動こうとしていた。

「ご苦労様です!」

 所轄の幕張署の刑事が敬礼する。

「状況は?」

「通報があったのは午後十一時頃。通行人の一人が遺体に気付き、近隣の交番に飛び込んできました。今、その交番で事情を聴いています」

「被害者の身元は?」

「近くにバッグが落ちていて、そこに運転免許証と名刺が入っていました。名前は東中佐代里ひがしなかさより、二十四歳。名刺によれば三ツ星銀行幕張支店勤務。本籍は福島県いわき市ですが、現住所は幕張ベイタウンになっています」

 そんな説明を受けながら、土井たちは波打ち際の遺体の傍に近づく。典型的なビジネススーツ姿で、見た感じは会社帰りといった風である。

「どうですか?」

「……胸を一突きか。しかもナイフが木更津事件のナイフと同じときてやがる」

 中司が吐き捨てる。土井もそれに続いた。

「おまけにこの髪の切られ方……木更津の一件と手口があまりにも似すぎている」

「ナイフの種類や、被害者が髪を切られていた事はマスコミに公表していない。こいつは模倣犯じゃないぞ」

 状況から見て、この事件が木更津事件と何らかの形で連続している事は明白だった。

「死亡推定時刻はどうなっている?」

「何しろ波で何度も揺さぶられている上に、海水で体温も下がっていますから……検視官もてこずっているみたいです。確定までしばらくかかります」

 所轄の刑事が恐縮そうに言う。

「砂浜なら足跡が出ないか?」

「今、鑑識が調べています」

「なら、今はとりあえず被害者の近辺捜査だな。それと目撃者の調査。だが……発見場所と時間が少し厄介だな」

 そう言って土井は腕時計を確認する午前零時。ちょうど日付が変わったところだった。


 二つの事件は同一犯によるものと推察され、幕張署と木更津署による合同捜査本部が設置された。捜査本部の名称も「千葉女性連続刺殺事件」へと変更されている。事件翌日の早朝、木更津署の大会議室で開かれた捜査会議の席上で、中司が二件目の事件の概要を述べ始めた。

「被害者は東中佐代里、二十四歳。三ツ星銀行幕張支店勤務。十月九日の深夜十一時、同日千葉マリンスタジアムで行われたプレーオフ戦の観戦帰りだった生命保険会社勤務の青梅久貴が気晴らしに海浜公園を歩いているときに遺体を発見し、近隣の交番に通報しています。事件当日の被害者の動きですが、彼女の勤め先である三ツ星銀行幕張支店は幕張のワールドビジネスガーデン内にあり、当日はニューヨーク支店と合同で進めていた重要な取引の下準備のために彼女も休日出勤しています。下準備は長引き、最終的に彼女が退社したのが午後九時。これはタイムカード及び社内に設置された防犯カメラの映像から明らかです。そして、それを最後に彼女の行方が途絶えます」

 続いて検視官が立ち上がって所見を述べる。

「遺体の状況から考えて、彼女は海を流されてきたのではなく、直接あの波打ち際で殺害されたと判断します。海を流されてあそこに漂着したとすれば沖合などに生息するプランクトンなどが付着しているはずですがそうしたものは確認されておらず、そもそも最後の目撃から遺体発見まで二時間しかない状況です。どこか遠くで捨てられた遺体がわずか二時間であの浜辺に到達するなどという偶然はちょっと考えられません。また、波で洗い流されてはいましたが遺体周辺の砂には被害者が抵抗したと思しき跡もあり、遺体発見現場が殺害現場であるという事を裏付けると考えます」

「死亡推定時刻は?」

 一課長の問いに検視官は厳しい表情を浮かべた。

「何しろ遺体が打ち寄せる波で揺られている状態でしたので、法医学的には遺体発見の一時間~三時間前と判断するのが精一杯です。ただ、先程中司警部補が言ったように彼女は少なくとも午後九時までは生存していますので、そこから考えると死亡推定時刻は午後九時から午後十時までの一時間の間に限定されます」

 一息ついてから、検視官はこう続ける。

「遺体その他遺留品に残留指紋等は存在せず。性的暴行の痕跡もありません。直接的な死因は前回同様心臓へナイフを突き刺された事による出血性ショック死ですが、それ以前にやはり激しい暴行を受けており、さらに今回は肺に多少なり海水が入っている事から、顔を強引に海水につけられていた可能性も指摘できます。砂浜の抵抗の痕跡はこれが原因でしょう。おそらく、とどめを刺される前に失神に近い状況になっていたのは間違いないかと思われます。また、今回も被害者は髪をナイフで切断されていました。切られた髪の行方は不明です」

 明らかになる凄惨な犯行の様子に、刑事たちの表情も険しくなっていく。

「次、鑑識」

「えー、凶器のナイフは前回と同一製品のナイフである事が確認されました。現場には被害者の物と思しきハンドバックが残されていましたが、現金やカードは抜かれていません。今回は現場が砂浜ですのでいくつか足跡を検出しましたが、検出された足跡のうち一つは被害者の物、一つは発見者の青梅久貴氏のもので、久貴氏の足跡は遺体から五メートルの所で引き返しています。つまり、発見者は遺体から五メートル以内に近づいていないわけです。で、もう一つ持ち主不明の足跡が確かに存在はしたのですが、この足跡と一致するスニーカーと思しき物が公園の砂浜から緑地地帯に入ったところで見つかっています」

「らしきもの、というのは?」

「灯油か何かをかけられて焼かれていたんです。遺体発見の少し前に不審火の通報があって消し止められ、事件に関係あるかもしれないという事でこちらに届け出がありました。焼け残った靴底の一部から何とか問題の足跡と同一のものだという事はわかったんですが、靴のサイズなどはわからなくなっています。犯人はかなり用意周到です」

 そう言うと、鑑識は腰を下ろした。その場に重苦しい空気が支配する。

「……被害者の人間関係はどうなっている」

 これについては進行役をしていた土井が自ら答えた。

「現在捜査中ではありますが、職場の人間とのトラブルはほとんどなかったようです。プライベートについてはほとんど話さず、したがって交際などがあったのかについても不明です。ただ、被害者の職場のデスクを調べた結果、彼女の物と思しき手帳が確認されました。ここ一ヶ月以内の予定を確認してみると、ほとんどが顧客との商談や出張などで占められていましたが、その中に事件の数日前に『KMと会う』という予定が書かれていました。さらに、事件発生当日の予定欄にも『KM』という文字が確認できます。実際、彼女の自宅が幕張ベイエリアにもかかわらず、現実には彼女はそことは真逆の海浜公園で殺害されているなど、彼女自身の行動に不審な点が見られるのも事実です。このKMなる人物が誰なのかはわかりませんが、以上の点を含め現在彼女の周囲を捜査中です」

「第一の被害者との共通項は何かあるか?」

「少なくとも今の段階で二人の被害者にこれはという共通項はありません。本籍地も年齢も職業も現住している自治体もバラバラ。出身大学も別です。あえて言うなら、双方ともに千葉県在住で大体二十代前半、そして黒い長髪をしていたというところでしょうか」

「つまり……黒い長髪の若い女性なら誰でもいいという事か」

 一課長のこの言葉に、会議室に緊張が走る。そう、事件はまだ終わっていないかもしれないのである。

「わかっていると思うが、次の犯行を繰り返させてはいけない。各自、その点を心に止めて捜査を続行するように。いいな!」

 捜査本部の全員が大きく頷き、各自が一斉に捜査へと動き始めた。土井も中司と合流して捜査に向かおうとする。

 と、その時一人の警官が捜査本部に駆け込んできた。

「警部、捜査責任者に会いたいという人が訪ねてきていますが」

「誰だ?」

真下健二ましたけんじと名乗っています」

 土井は思わず中司と顔を見合わせる。聞いた事がない名前である。

 が、直後の警官の言葉に、土井の表情は厳しいものとなった。

「何でも、殺された東中佐代里の恋人だという事ですが……どうしますか?」

 と、そこで中司が土井に耳打ちした。

「おい、『真下健二』ならイニシャルは『KM』だぞ」

「あの手帳に書かれていた『KM』の正体か」

 ならば話を聞く価値はある。

「わかった。話を聞こう」

 二人が玄関に出ると、そこには気弱そうな表情をした一人の男が不安そうに立っていた。年齢は殺された東中とそう変わらないだろう。二人が近づくと、男はビクッとした表情で二人を見つめた。

「真下さんですか?」

「は、はい。その……佐代里が殺されたって聞いて……」

 最後は尻すぼみになりながら男……真下は答えた。

「担当の土井と中司です。早速ですが、お話を伺っても?」

「もちろんです。そのために来たんですから」

「では、立ち話もなんですのでこちらへ」

 二人は真下を小会議室へと案内した。まさかいきなり取調室に入れるわけにはいかない。

「まず、あなたの職業及び被害者との関係を教えてください」

「えっと、僕は千葉マリンスタジアムの職員をしています。その……佐代里とはお付き合いをさせてもらっていました」

 そこで土井と中司は視線を交わす。現場は千葉マリンスタジアム近くの海岸。手帳の件もあり、被害者がこの男に会うためにあの場所に出向いた可能性は非常に高い。

「どういう経緯でお付き合いを?」

「その……友達と合コンに参加した時に出会って……そのまま付き合う事になりました。もう二年ほど付き合っています」

「最近も関係は良好でしたか?」

「えぇ」

 土井は一瞬押し黙ると、いよいよ事件に関する質問に移っていった。

「事件当日、あなたは何を?」

「あの日は……西部とロッテのプレーオフ戦で、僕も球場で仕事をしていました。それで……試合後に佐代里と待ち合わせをしていたんです」

 やはり、あの手帳の「KM」は彼の事らしい。

「どこですか?」

「球場の前です。彼女が近々またアメリカへ出張する事になるって聞いていたので、その前にもう一度会おうという話になって……。でも、仕事が終わって待ち合わせ場所に行っても彼女はいなかったんです。携帯に電話しても出なかったし、どうしようかと思ったら急にパトカーのサイレンが聞こえて……その後大騒ぎになってしまったんです」

「その後は?」

「何があったのかは気になりましたけど、まさか彼女が殺されたなんて思わなくって、しばらくそこで待ち続けていました。でも、来なかったんで……しかたなくそのまま帰ったんです。事件の事は、朝のニュースで知りました」

「帰った、ですか。しかし近くで事件らしきことが起こっていたんですよ。普通だったら心配して見に行きませんかね?」

 土井の言葉に、真下は少し言い淀んでいたが、やがて諦めたようにこう言った。

「……調べたらわかる話なので言いますけど、実は僕と彼女、三日ほど前に些細な口喧嘩をしていたんです。でも、本当にどうでもいい喧嘩で……昨日の待ち合わせはその埋め合わせをするというものでした。実際、電話口では彼女も機嫌がよかったんです。でも、いざ来なかったら、やっぱり本当は怒っていたんじゃないかって思えてきて……。だから僕は彼女が怒って来なかったと思って帰ってしまったんです。今日にでももう一回電話をして謝るつもりでした」

 一応筋は通っている。土井は別の話題を振った。

「昨日の午後九時から十時までのアリバイは?」

「スタジアムの仕事をしていました。でも、一ヶ所にとどまるような仕事じゃありませんから、誰か証人がいるかといわれると……」

 真下はそのままうつむいてしまう。現場が現場だけに、こっそり抜け出せば犯行が可能な事は彼自身よくわかっているのだろう。とはいえ、スタジアムで仕事をしていたというのは事実のようなので、アリバイは半々というのが実情のようだった。

「いいでしょう、その点は後で確認します。では、ここしばらく、被害者に何か変わった事はありませんでしたか? どんな些細な事でも構わないんですが……」

「変わった事、ですか」

 真下はしばらく考え込んでいたが、不意にこんな事を言った。

「そう言えば……最近変な気配を感じるって言っていました」

「変な気配?」

「僕もよくわからないんですけど、ここ数日、帰宅途中に誰かにつけられているような気配を感じるって、うす気味悪がっていました。もっとも、彼女は気のせいだと思ってやり過ごしていたみたいですし、僕も気にする必要はないんじゃないかって言っていたんですけど……」

 その言葉に、土井たちの顔が厳しくなった。それは、一件目の事件でも問題になった、例の「謎のストーカー」の話そのものであった。

「その話、本当ですか?」

「は、はい。一週間くらい前からずっと。でも、視線以外に何もなかったし……」

 真下は恐縮そうにそう言うが、土井たちにとっては深刻な話だった。姿のない「謎のストーカー」……その存在が、本格的に重くなりつつある事を彼らが実感した瞬間だった。


 それからの捜査本部は、この「謎のストーカー」について前回以上に本腰を入れて捜査をする事となった。とはいえ、相手は姿の見えない、それどころかこんな事件さえなければ気のせいで済ませられてしまいそうな謎の人物である。まるで幽霊を捕まえるような話で、捜査陣営の焦りとは裏腹に捜査は遅々として進まなかった。

 謎のストーカーの存在はひとまず伏せられる事になった。こんないるともいないともわからぬ人間の事を公表するわけにはいかなかったのだ。髪が切断されている事やナイフの種類なども相変わらず伏せられ、公開されたのは若い女性が連続して殺害され、それが連続殺人の疑いが強いという点だけである。だがそれだけに、千葉県警の捜査本部は次の事件を防ぐことに躍起になり、全力の捜査を実施した。

 だが……一ヶ月後の十一月。その頑張りは、もろくも崩れる事になる。

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