「こう言うのも難だが、あの遺体の解剖は、極めて刺激的なものだった」


 少しばかり躊躇ったような物言いで、一人の男が自らの考えを述べる。

 彼の名は一条平喜ひらき。齢六十を超えた白髪の老人で、如何にも学者らしいひょろりとした体躯をしている。ぎょろりと開いた目は魚のように無感情で、不気味な印象を初対面の者に与えるだろう。

 彼は帝京大学の法医学者であり、数々の事件性がある遺体を解剖してきた、司法解剖の『プロ』だ。

 普段ならば、司法解剖の結果は書類の形で警察に渡され、口頭で話し合うものではない。しかし優成はこの日彼に直接意見を……先日捜査が始まった、はらわたを引き摺り出された女性の司法解剖結果を詳しく聞くために、帝京大学まで足を運んだ。普通ならば出向いたところでそんな話は出来ないが、優成と平喜は歳こそ離れているが親友のような間柄。それと規則について程々甘い不良同士なので、世間話のように仕事について聞けるのである。

 今の優成は平喜の仕事部屋に案内され、ソファーに座ってくつろいでいる……部屋中に本やら書類やらが積まれていて、落ち着けるほどの広さはないのだが。


「うーん、お茶が美味しい……」


 ちなみに、一緒にやってきた神楽は割とリラックスしていた。平喜が話し始めたのに、出されたお茶を堂々と堪能している。

 大物新人と言うべきか、能天気と言うべきか。絶対後者だなと心の中で呟きつつ、優成は平喜に尋ねた。


「刺激的ってのは、ちょっとしたスキャンダルになりそうな言い方だな」


「しかし事実だ。法医学者になって三十年以上、数えきれないほどの遺体を解剖したが、あのような遺体は初めてだった」


「爺さんが初めて、ね。つまり、ただの惨殺体じゃないと?」


 日本は世界的に見ても治安が良く、大きな事件も少ない国である。だが、それでも凄惨な猟奇殺人事件が起きていない訳ではない。小学生男児の首を切断して校門に置いたり、強姦した女子高生を殺害後コンクリート詰めにしたり……時代を考慮しなければ複数の具体例を挙げられる。ここまでスキャンダラスな事件でなくとも、バラバラだったり何十ヶ所も刺されたりした遺体なら、いくらでも出てくるだろう。

 三十年以上司法解剖をしてきた平喜であれば、惨殺された遺体など十や二十どころでなく見てきた筈だ。その平喜が初めてだと言うだけで、先の事件の異常さが、本格的に話が始まる前なのに優成にも伝わってくる。

 優成は気を引き締め、耳を傾ける。平喜は落ち着いた、否、落ち着こうと勤めた口振りで語り始めた。


「まず、外に出されていた腸だが、総量が足りていない。一部が欠損している。いや、一部というのは正しくないか。体格から推定される量の半分ほどが失われていた」


「……カラスにでも食べられたか?」


「その可能性はゼロではない。だが、それにしては減っている量があまりにも多過ぎる。死亡推定時刻は通報の一時間ほど前であり、殆ど時間が経っていない事を考慮すれば尚更だろう。何より……」


「何より?」


「……。ハッキリとした形のもので、間違いなく存在している。直に食い付いて、遺体の腹の中身を喰ったようだ」


「うへぇ。やっぱクマに襲われたんですかね?」


 神楽の意見に、優成は頷かない。そして平喜も。


「……また、腹の傷をよく調べたところ、刃物による切り傷は見付からなかった。最初に刃を入れて、ある程度開いたところで引き裂いた、という訳ではない。指を腹に突き刺して、力だけで掻っ捌いたらしい」


「うわ、駄目駄目。想像しただけで寒気がします……もうそんなの出来る動物って、クマだけじゃないですか? まさかゴリラはいないでしょうし」


「ゴリラは草食だから肉なんて食わねぇよ……そもそも、だ。クマが原因なら、爺さんは最初からそう言ってる。そうだろ?」


 既に納得したようにこくこくと頷く神楽を、優成は呆れ口調で嗜める。

 そう、ただの獣害なら最初からそう言っている筈だ。わざわざ勿体ぶったり、ましてや「あのような遺体は初めてだ」なんて前置きをする訳がない。

 そもそも現場には、裸足で歩いたと思われる足跡や、下水道に降りた際に付いたと思われる指紋が残されていた。クマだがなんだかが食事中に、血糊を裸足で踏み、下水道に跳び込んだなんて、いくらなんでも意味不明過ぎる。それに本当に獣害なら、獣の毛ぐらい落ちていそうなものだ。

 優成の考えが正しければ……


「……その通り。クマの仕業なら最初からそう言っている」


「いや、でもクマ以外に何があるんですか? ライオンもトラも、日本にはいないですし、動物園から逃げたってニュースもここ最近ではないと思うんですけど」


「夏目、よく考えてみろ。爺さんは腸に歯型があったって言ったんだぞ」


「? だからクマとかなんじゃ……?」


「お前、法医学者が『歯型』を知ってる動物なんて、一種類しかいないだろ」


 優成の言葉に、神楽は首を傾げる。

 だが、すぐに彼の言いたい事を理解したのだろう。

 理解したからこそ、困惑した表情を浮かべるのだ。神楽は優成の、それから平喜の顔を見る。なんの冗談ですか? と訊きたそうに。

 冗談だったらどれだけマシな事件だったろうか。優成としても、自分の妄想が暴走して変な推理に発展しただけと思いたかった。だが平喜は何時までも訂正しない。

 事実なのだから、訂正するなんてあり得ないのだ。


「ああ、そうだ。歯型の持ち主は人間だ。どうやら犯人は、被害者が生きている状態にも拘らず、素手で腹を引き裂き、内臓に頭を突っ込んで喰ったらしい」


「い、いや、いやいや!? なんですかそれ!? そんな……いや、だって、そんなの……」


 人間技じゃない。

 神楽の口からその言葉は出なかったが、顔は明らかにそう訴えていた。優成も同じ気持ちだ。こんなのは人間がしたとは思えない……精神的にも、物理的にも。


「まぁ、確かに正気じゃないというか、これじゃあモンスターの類だな」


「腹を素手で引き裂くなど、正に怪物と言うしかない。付け加えると骨折していた手足には、人間のものらしき指の跡が残されていた。つまり素手で、強引に捻じ曲げて折ったようだ。正直、どう報告したもんか悩む」


「あー……これ、そのまま報告したら、部長とか絶対怒りますよね。漫画の出来事を書いてどうする、みたいな感じに」


 神楽が言う部長とは、刑事部長の事だ。優成達からすれば上司であり、事件の報告は彼の下に届く。

 多忙な身であるが真面目な人間で、報告書の類は全てしっかりと目を通しているだろう。ましてや猟奇殺人の調査となれば、警察組織の威信も掛かっているため、捜査の進展には強い関心がある筈だ。それ自体は治安を守る警察組織の管理職として好ましいのだが……奇妙な解剖所見を出せば、ほぼ確実に彼の目に留まり、生真面目故に眉を顰める事は容易に想像出来た。

 尤も、それはあくまで部長個人の『感情』の話である。そして優成が知る限り、部長は生真面目故に公私を分けて考えられる人だ。報告書がどれだけ非常識で感情を逆撫でする内容でも、理屈が通っていれば理不尽な文句は付けない。


「いや、アイツの性格なら怒られる心配はないだろ。むしろ出世しか考えていないような輩じゃなくて幸運なぐらいだな」


「ああ。下手したらこっちの報告を無視して、クマという事にされたかも知れん。次の犠牲者が出ればまた話は違うのだろうが、それを望む訳にはいかないしな」


「当たり前だ。大体犯人は下水に跳び込んでるから、とっくに死んで……」


 犯人死亡という推測を語ろうとして、しかし優成は言葉を途切れさせた。

 本当に、犯人は死んだのだろうか?

 大雨直後の下水道。そんな場所に跳び込めば普通の人間、いや、陸上動物ならばまず溺れ死ぬだろう。どんなに力の強い猛獣だろうが、洪水と窒息には敵わない。

 されど、どうにも不安が胸にくすぶる。

 論理的に考えれば死んでいて当然。だが、そもそも論理的な考えが通じる相手なのだろうか。人間の腹を素手で裂き、骨を腕力でへし折るような怪物が……


「なんにせよ、書類には正直に書くとする。詳しい内容は実際に読んで確かめてくれ……話はこれで終わりで良いか? 次の司法解剖もあるから、俺は先に行くぞ」


 考え込もうとした優成だったが、平喜の声で我に返る。「ああ」と肯定の返事を反射的にしたが、ふと、彼の言葉に違和感を覚えた。


「次の司法解剖? また殺人事件か?」


「いや。幼稚園児ぐらいの子供が用水路で溺れ死んでいたらしい。打撲の痕跡はあったようだが溺れた際に付いた可能性があり、時期的にも子供が自発的に入る事は不自然ではない」


 平喜の言葉に、優成は一応納得を示して頷く。しかし内心、疑問を抱いていた。

 司法解剖は全ての遺体に行われる訳ではない。基本的には事件性がある、もしくはその可能性が否定出来ない遺体に対してのみ行われる。理由としては解剖医の数や予算の不足があり、それはそれで問題がある(つまり事件を見逃す可能性がある)のだが……

 なんにせよ、事件性がないとされた遺体を司法解剖するというのは、ちょっと普通ではない。異常という話ではないし、良い事だと優成個人は思うが、未だに違和感は残る。


「事件性がなさそうなら、普通は解剖しないだろ?」


「事件性がないとは限らない。実は子供の身元が分かっていない。また事件発覚から既に丸一日経っているが、該当しそうな行方不明届けも出ていないと聞く」


「……ああ、そういう事か」


「え? どういう事ですか?」


 平喜の説明に、神楽はぴんと来ていない。

 揶揄する訳ではないが、神楽は親から愛情たっぷりに育てられたのだろう。だから考えから抜け落ちているのだ。

 望まれない子供の存在が。


「(邪魔になって計画的に殺したのか、衝動的にやったのか、それとも外にほっぽり出して知らんぷりした結果か。どう転んでも『事件』という訳だ)」


 捜査結果が出ていないうちに言うのも難だが、優成としては腸が煮えくり返る想いだ。我が子の命を親自ら奪うなど断固として許せない。

 しかし、こうして事件として発覚しただけ『マシ』かも知れないとも思う。もしもこの子供が出生届の出されていない、所謂無戸籍児だったなら、そして遺体が用水路を流れて下水道に入り込み、人目の付かない奥深くでしまったら……事件そのものが発覚しなかった恐れもある。

 そうして闇に葬り去られた事件というのは、決してゼロではないだろう。そして警察の目に留まったとして、正しい捜査結果を得られなければ事件は解決しない。

 つまり。


「邪魔したな。仕事、頑張ってくれ」


 優成がこの亡くなった児童のために出来る事は、目の前の法医学者にこれ以上余計な負担を掛ける前に、話を切り上げて帰る事だ。


「ああ。忙しくない時にまた来い。紅茶ぐらいは出す」


「おう、期待しとく。夏目、帰るぞ」


「あ、はいっ。先生、お話ありがとうございます!」


 平喜に別れを告げ、優成と神楽は部屋を出る。二人は大学内の廊下をしばし無言で歩いたが、やがて神楽が話し出す。


「ところでおやっさん。結局、子供の件はどういう事だったんです?」


「お前なぁ……全ての子供が望まれてると本当に思ってんのか?」


「……………あー、そういう……」


 優成がヒントを出せば、苦虫を噛み潰したように顔を顰めながら神楽は納得した。


「早く、事件が解決すると良いですね」


「馬鹿野郎。俺達警察が事件を解決するんだよ。あと、他の事件を気にして、自分が担当している事件を疎かにするな。俺達が抱えている事件だって、誰かの命を奪った奴がいるんだ。気合い入れろ」


「うすっ!」


 言われるがまま気合いを入れたのか、随分と迫力ある声で返事をする神楽。その気持ち自体は悪くないと優成も思う。

 しかし、その気持ちをぶつけるのは現状では中々難しい。解剖結果によって、多少なりと混乱が起きるのは目に見えている。

 一つ、この状況が大きく変わるとしたら……


「(平喜が言っていたように、新しい犠牲者が出た時か……)」


 そんな時は来ない方が良いに決まっている。大体犯人はほぼ確実に死んでいるのだ――――心からそう思う優成であるが、しかし『刑事の勘』が囁く。

 この事件はこれで終わりにならない。

 むしろここからが、本当の『事件』の始まりなのではないかと……

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