2.可愛優利

 ――放課後。


 授業が終わり、校内のあちこちで話し声や笑い声が響き、グラウンドからは、運動部員が出す大きな声が聞こえてくる。

 そんな生徒たちでごった返す校内を、優利は一人歩いていた。その足取りは、重い。授業で疲れているとか、寝覚めが悪かったからとか、そういう理由もあったが、一番の理由はいまから向かう場所にあった。

 校舎二階の突き当たりにある図書室。優利の目的地はそこだった。本を読みに行くわけではない。そもそも本を読みに行くならもっと足取りは軽かっただろう。優利は本を読むのは好きだった。部活を選ぶときも、図書委員になるかどうか迷ったほどだ。そのぐらい本が好きだったし、入学した手の頃は、図書室にもよく来ていた。

 最近は足が遠のいていた図書室に入れば、広々とした読書スペースの向こうに並ぶ本棚が見えた。まるで木立のように連なる本棚へと足が向きそうになった優利だったが、すぐに足を止めて、軽く息を吐いた。――優利にはやらなきゃいけないことがあった。幸か不幸か、周囲を見回すと、目当てのもの、というより人はすぐに見つかった。

「……あ、優利」

 近づけば優利よりも先に口を開く。いつものことだった。二人で話すと、口を開くのはいつも優利が後になる。

「どうしたの? 本、探してるの?」

「違うよ。……えっと……その、姉ちゃんに、い、インタビュー……しにきた」

「インタビュー?」

 首を傾げたこころは、しかしすぐににっこりと笑って頷いた。

「その、部活でそう決まって……」

「そっか、新聞部だもんね。私にってことは、本のことかな」

「うん。夏休みの、読書感想文のための記事を書くんだ」

 話し出してからは、言葉につっかえることもなかった。優利自身も不思議なことに、最近は姉であるこころ相手にすら話しかけづらいのに、話し出すと途端に気が楽になる。といっても、話すのが苦にならないのはこころと、後は新聞部の部長だけなのだが。

 ともかく、インタビューの段取り自体はとんとん拍子に進んだ。こころが話をつけてくれたおかげで、他の図書委員や、先生にも話を聞けることになった。急な話だったので、他の人のインタビューは別の日にすることにして、この日はこころのおすすめの本だけを聞くことになった。

 こころは本棚へと向かう。優利もその後に続いた。そして、読書スペースで待っていればいいと歩いている途中に気づいて、優利は何となく、苛立つような、憤るような嫌な気分になった。最近、よくそんな気分になる。こころが悪いわけじゃないと分かっていても、姉といるのが嫌になってしまう。けれど嫌って避けていると思われるのも嫌で、優利はこのところ、ずっと自分の感情に振り回されていた。

「この本がいいかな……でも、もうちょっと短い方が読みやすいかな? 優利、どう思う?」

「えっ……」

 こころに声をかけられて、物思いに沈んでいた優利は、はっとして顔を上げる。すると、表情を曇らせたこころの顔が見えた。

「……大丈夫? 朝からずっと、気分悪そうだよ」

 優利は首を横に振る。大丈夫、と言う言葉がつっかえて出てこない。心配されたくない。気にしないでほしい。そんな思いは、大丈夫、という言葉ではなく、ほっといてくれというつっけんどんな言葉になりそうだった。

「どの本にするか決めた?」

 優利は話を無理やり切り替えた。こころは、曇った表情のまま、顔を本棚へと向けた。優利は視線をたどって、こころが見ていた本の背表紙に目をやった。本棚にはファンタジーものの文庫本が敷き詰められている。こころはまた少し悩んで、その中から一冊の本を引き出した。背表紙には『妖精姫と竜の王子』と書かれている。優利はそのタイトルに見覚えがあった。

「これ……誕生日に父さんが買ってくれた本だったっけ」

「十歳のときの誕生日だよね。優利のだったのに、結局わたしが譲ってもらっちゃって」

 そう、買ってもらったものの、本の内容は優利の気に入るものではなかったのだ。だから一通り読んだ後、こころにあげてしまったのだった。

「この本ならわたしもよく知ってるし、ちゃんとおすすめできるんじゃないかな」

「うん。それでいいと思う」

「じゃあ、あっちで話そっか」

 こころが指差したのは窓際にあるテーブル席だった。人がまばらに座っているが話し声はほとんど聞こえてこない。他の人の会話で声が聞こえない、ということも無さそうだった。


 こころと優利は、テーブル席に着き、インタビューを始めた。


 姉の言葉をノートに手早く書き記し、必要そうな部分には赤線を引きながら、優利はまた、何とも言い表しにくい気持ちに見舞われていた。こころは、まるで手元に原稿でもあるように、すらすらと受け答えをしている。本をおすすめする理由、見どころ、そして読書感想文を書くコツすらも添えて語るその姿を、優利は途中から見られなくなっていた。

 自分なら、絶対どこかで言葉に使えているだろう。そもそも質問する言葉だって、一度考える間を置いて、途切れ途切れになってしまっているのだ。小さい頃から話すのが苦手、なんてことは無かった。優利も子供のころは、姉と同じように話せていたはずだ。それが、いつからか、すぐに言葉が出なくなっていた。

 そんなことを考えていると、自分か姉のどちらかを、どこかへと押しやってしまいたいような、そんな気持ちに優利はなるのだ。

 それでも何とか、そういう気持ちは外には出さずに話を進めていった。インタビューは順調に進み、原稿を書くのに充分な量の話が聞けた。

「……このぐらいでいいかな」

「そう? じゃあ……次の号、待ってるからね」

 こころの言葉に、優利は応えず席を立った。原稿をまとめられる自信はある。けれど、何故かこころが見るとなると、途端にその自信もしぼんでしまうような気がしてくる。こころが書いた方が、よっぽど上手くできるのではないかと、そんな後ろ向きなことすら考えてしまう。それが嫌で、優利はその場を離れようと、急いでノートやシャーペンをしまっていく。

 だが、急ぎすぎたせいだろうか。収めようとしていた赤いボールペンが手から床へと滑り落ちてしまった。からからと転がっていくボールペンを拾おうとかがみ込んだ、優利の視界にペン以外のものが映る。人の足だ。上履きのサイズは優利よりも大きい。慌てて立ち上がると、入れ違いに、背の高い男子生徒が腰を屈めてボールペンを拾い上げ、そのまま優利に渡してくる。

「あ……ど、どうも……」

「優利くんだっけ? もう帰り?」

 え、と思わず声に出してから、優利は言葉を失った。見ず知らずの男子生徒に、何故そんなことを聞かれなきゃいけないのか――そう思ったのも束の間。優利はその生徒が誰なのか気づいた。

「……吉備先輩?」

 そこに立っていたのは二年生の吉備ミカだった。周囲の生徒も彼の存在に気づいたのだろう、にわかに周りがざわついて、あちこちから視線が向けられる。目立つ理由は、背が高く、金色の髪をしているからというだけではない。サッカー部のエースで、しかもイケメンと来れば自然と注目を集めるものだった。

 優利はその存在感に、気圧されたように思わず一歩後ろに下がっていた。一方吉備の方は周囲の様子などものともせずに口を開く。

「読書感想文、なに書くか聞きに来たんだけど。いまから帰りなら明日でいいよ」

 優利は気づく。吉備は自分ではなく、こころへと話しかけていた。

「あ、あの! オレ……ひとりで帰るから」

「優利?」

 こころの声を振り切るように、優利は自分の鞄を取って席を立った。背後から呼び止める声が届いたが、何も言わずにそのまま図書室を出て行く。廊下を行く内に歩くスピードが速くなっていく。しまいにはほとんど走るような速度になっていたが、下駄箱の横を通り過ぎそうになってようやく、自分が走っていることに優利は気づいて足を止めた。

「はぁ……はぁ……」

 少し走っただけだが、息が上がっていた。優利は肩を落として、忙しなく呼吸をする。周りの生徒が一瞬だけ優利に目をやって、そして何事もなかったように昇降口から出て行く。気にされていないと分かっていても、優利は何だか恥ずかしくなって、溜め息を吐いて下駄箱の方を向いた。ちょうど、自分の靴が置いてある場所だ。このまま帰ってしまいたい。が、部室に顔を出してインタビューの報告をしなければならない。気は重かったが、帰るわけにはいかなかった。

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