第4話 彼岸花

 「屋上とはまたベタだね櫻子さん」

 

 校舎最上階の扉を開けて外に出ると、すぐ正面のフェンスから外を眺める櫻子さんが見えた。向こうも僕が来ることはお見通しだったらしい。


 「……そこの扉、鍵かけといた筈なんだけど」

 「まあ、そこは色々とね。えっと、怒ってる?」

 「怒ってる。当たり前でしょ、全身からカレー臭噴出する女子なんてこの世に存在していい訳ないじゃない」

 「結果としては皆に大ウケだったよ、お金出すから定期的にやってほしいって」

 「ワタシはサーカスの珍獣かっ!」


 ぷりぷり怒りながら、何かを投げつけるジェスチャーをする櫻子さん。手になにか持っていたら実際に投げられていただろう。その代わりに、ふわりと怒りの匂いを孕んだ空気が漂ってきた。


 「右近君は、もう全部わかってるんだね」

 「全部じゃないよ、事情までは分からない。ただ、櫻子さんが自分の体から出る匂い、香りを任意で操作できるってことだけ」


 お昼休みの教室が7月半ばにも関わらず密閉されていたのはそれが理由だ。空調すら香りを邪魔しないよう最小限に設定されていた。余すところなく彼女からの恩恵を授かるために。それほどまでに彼らは櫻子さんの香りに心酔していたのだ。


 「いや、フツーは信じないっていうかそんな結論を思いつきもしないよ。普通に馬鹿げてるもん。有り得ないじゃない、そんなこと。だから皆もわざわざワタシに何か言ってくることなかったのに」

 「そうだね。まあでも僕もお察しの通り、そこそこ普通じゃないから」

 「うん。ズルいなあ、そっちだけ一方的に分かってるなんて。ワタシは右近君の特別、全然分からないや。他の皆は右近君を特別だとすら思ってないよ」

 「まあ、そこも芸の一つなんだよ」


 屋上に吹き抜ける風で、櫻子さんの背中まで伸ばされた髪が揺れる。

 より一層、彼女から伝わってくる負の感情が濃くなった。

 何も知らない人なら、訳も分からずここから立ち去っているだろう。

 

 「髪を伸ばしているのも、それが理由?」

 「うん。……ワタシね、しゅーきょーの家の子供なんだ」

 「しゅーきょー」


 七索チ―ソ―のイントネーションで発音されたその単語は、少しでもその意味が伝わりませんようにと、ぼやかされて宙に浮いていた。


 「そ。教祖サマ。なんかどこのしゅーきょーなのかは良く分からないんだけどね。イエス様も仏様もお家にいないんだよ、へんなの。その代わりにパパとママの肖像画はあちこちに飾ってあるんだけど。結構大きいとこなんだよ、お家の他に施設があって、信徒の人達も一杯いて。まあ、そんなだから、子供の頃はあんまり友達とかいなかったんだよね」


 その光景が、まざまざと脳裏に浮かび上がる。手にとるように想像できた。


 「周りは大人ばかりだった、と」

 「あはは、ホント話が早いなあ右近君は。そうだよ、ワタシより何倍も大きい大人たちが、ぐるりとワタシを囲んでミコサマ、ミコサマって。漢字分かる?神社のお姉さんじゃなくて神の子だって。笑っちゃうよね、なんにも出来ないただの子供なのに。ワタシはそれが凄く怖かったけど、でも他に行ける場所もないじゃない?だからワタシは頑張って周囲の期待に応えようと思ったの」


 そう言いながら過去を思い出しているのであろう櫻子さんの目には、何も写っていない。彼女にとって、それはあまりにも恐ろしすぎたのだ。幼子が無数の個を失った大人達に囲まれた時、最早それはひと繫がりの怪物にしか見えまい。


 「皆が望むように、カミサマのこどもとして皆に喜ばれるように。自分のワガママは我慢して、皆が喋ってほしいことを喋るの。静かでいて欲しい時はじっとして、泣いて欲しい時は涙を流すの。そういうのをずっとやってたら……」


 ただ苦しいだけの毎日で。何故自分がこんな所にいるのかも分からないまま、もがき続けていると、ある日唐突になにかに手が届く。そうなれば、それに縋りつかずにいられるはずがない。


 「いつの間にか、体から好きな匂いを出せるようになっていた」

 「そ。……いやだからなんで分かるのかな。ワタシは今でも納得できてないのに。それでも、そんな事が出来るようになっちゃったもんだからワタシのミコサマ扱いは余計加速しちゃって、まあ中学まではなんとかやり過ごせてたんだけどね。中学の卒業式の人に、お家に偉い人が来たの」


 いつの間にか、櫻子さんは僕に背中を向けていた。僕に見られまいとするかのように。


 「偉い人っていうのは……宗教の人じゃなくて?」

 「うん。パパもママも皆白い服なのに、その人だけスーツ着てたからよく覚えてるよ。多分国の人とかだったんじゃないかな。……それでね、パパとママが、ワタシをその人に差し出そうとしたの」 


 それは。

 僅かな希望にすがっていた彼女を。

 本当の絶望に突き落とすには充分なほどの。


 「櫻子さん、もう」

 「ワタシね、それでもう全部分からなくなっちゃったの。どうして、今まで一生懸命やってきたのにって。それで、そのおじさんの太い手に掴まれてワ―ッてなっちゃったら……」

 「もういい。櫻子さんもういいから」

 「今まで嗅いだことがないような、もんのすごい臭い匂いが出たの」

 「……え?」

 「もう凄かったんだよ、さっきの教室と完全に真逆。パパもママも偉い人も、皆ゲーゲー吐いちゃって。それでワタシはそのスキに外に飛び出したの。それで、警察にもいけないと思ったから、昔パパとママに一度だけ連れてってもらったおじいちゃんとおばあちゃんの家に行ったの。パパとママはその時勘当されちゃったんだけどね。なんとか辿り着いて事情を話したら、もうおじいちゃんとおばあちゃんが代わる代わる怒るやら泣くやら。それで、その時思ったんだよ。ワタシは自分の思ったように怒ったり泣いたりしていいんだって」


 そう言い切って、再び櫻子さんが僕の方を向いた。

 そうか。櫻子さんは、そう思えたんだね。


 「じゃあ、今はそっちの家に住んでるんだ?」

 「うん。最初はパパとママがワタシを取り返しに来るんじゃないかって思ってたんだけど全然何もなくて、しばらくしたらしゅーきょーは解散してパパとママは逮捕されちゃった。多分、偉い人を怒らせちゃったんだね。それ以降は平和そのもの!安心安全、毎日楽しく女子高生をやらせてもらってます!おわり!……えへへ、なんかごめんね、一気に聞かれてもないこと話しちゃって」

 「ううん、話してくれて嬉しかったよ」


 気付けば夏の長い夕暮れも終わりに差し掛かろうとしていた。

 この屋上からなら、地平線に沈んでいく夕日もよく見えたのだろう。


 「帰ろう、櫻子さん。送っていくよ」

 「えー、ワタシはまだ右近君の話を聞いてないんだけど?」

 「それは長くなるから、また今度ね」

 「また今度って、もう期末テスト終わったら夏休みなんだけど、いつになるのさ」

 「じゃあ、夏休み中にでも」

 「……それは、夏休み中に遊ぼうってこと?」

 「そうだよ」

 「んふふ、そっか。じゃあまたその時ね!」


 きい、と錆びかけた屋上のドアを締め、カツンコツンと二人並んで階段を降りる。

 部活に残っている僅かな生徒を残し、あらかた人の捌けた校舎内に二人歩く音がよく響く。この音が、少しでも長く続けばいい。そう願わずにはいられなかった。

 僕としても、ようやく望んで手に入れた平穏な日常なのだから。



 一学期の終業式、櫻子さんは登校してこなかった。 

 夏休みの具体的な約束は、まだ交わしていなかった。

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