03-5 《 120+163+153 》

 まだ夜も開け切らない暗がりの中、毛布に埋もれながら寝ている耳に物音が聞こえた。布団の中で身動いで、向かいのベッドに目を凝らす。少しの間ぼうっと眺めて、赤アリスが部屋から出たのだとわかった。


 わざわざこんな時間に、どうして外になんか。


 時計がないので正確な時間はわからないけれど、室内の暗さからも朝が来ていないことは確かだったしこの辺りは森と湖以外何もない。


 まさか──


 ふと、嫌な想像をする。が、すぐに打ち消した。こんなところでまで後ろ向きに考えてしまう必要はない。寝直そうともう一度毛布で視界を閉じたが、すでに足先が冷えてきていた。一度冷えを自覚してしまうと、また寝直すのは難しい。しばらく寒さと事実確認を天秤にかけて布団に埋まっていたものの、ずるずると這い出して服を着込んだ。


「う、わ、さむ……」

 思わず声が出るほど寒い。その声も、響くことなく雪深い森の中に消えていった。周囲はまだ暗く、冷たい空気を吸い込んだ鼻がひりひりする。赤アリスにもらった暖かい帽子をしっかりと被り直し、転ばないよう手すりにつかまりながらロッジの階段を降りた。とても静かだ。


 暗いといっても想像していたような真っ暗闇ではなく、目を慣らせば歩けるくらいだったのは幸いだった。森に入るのは恐かったので、ひとまず湖の方に向かう。夕方に歩いたときよりも雪が深くなっていて、足を取られないようにするのが大変だった。こんな短時間の間にずいぶん積もったものだと思っていると、意外とあっさり探し人が見つかった。湖の岸のそば、倒れた樹に腰掛ける小さな背中。


「赤アリ──」


 声をかけると同時に、木々を抜けた。そうして見上げた空と湖の一面に、息を呑む。

 冷たい夜空にたなびく光のカーテンが、視界いっぱいに広がっていた。



 オーロラだ。



 一瞬、寒さを忘れた。自分が今、どこにいるのかもわからなくなるほど、圧倒された。



 そのまま呼吸を止めてしまっていたのか、突然吸い込んだ空気の冷たさに噎せ込む。そこで赤アリスが首だけで振り返り、片手を上げた。「すごい景色だね」と思わず小声になりながら、彼女の隣に座る。フードに埋もれた赤アリスの顔はよく見えなかったけれど、頷いたように見えた。


 張り詰めた静寂の中、空と湖は鏡のように同じ景色を映し出している。

 初めて見たオーロラは、今まで見てきた映像や写真とは違い、本当に生きているようだった。忙しない動きをしているのかと思えば、折り畳まれたりほどけたりなびいたり。空の上で泳ぐ大きな魚のようでも、織姫が舞う服の裾のようでもあった。緑色に揺れる光が、時折赤や紫や黄色に変わり、また緑色に戻っていく。


 自分の息遣いしか聞こえない、途方もないほど静かな世界で、わたしは幼い頃に家族で見上げたキャンプでの夜空を思い出していた。こんなに寒くはなかったし、オーロラなんて見えなかったけれど、星ってこんなにたくさんあるんだ、と思ったことはよく覚えている。身を寄せ合って、何もしないでただ一緒に空を眺めるだけで、楽しかった。水筒のコップで飲んだ熱々の紅茶はわたしの舌にはまだ苦くて、確かメープルシロップを入れてくれたんだ。外は寒いからすぐに冷めるだろうに、火傷しないよう息を吹きかけてから渡してくれた。どうしてこんなことを思い出すんだろう。寒さで痛くなった鼻をすする。吐き出した息が、あのときの湯気のように揺れて消える。


 眺めていた時間は、そんなに長くなかったかも知れない。不思議と寒さはあまり感じなかった。煙がほどけていくようにオーロラの裾が消えて、ほんの数分青い静寂に包まれた。ほどなくして、しらしらと夜が明け始める。昼から、この朝にかけて、どれだけの奇跡がこの場所に起こっていたのだろう。この湖をつくり出したアリスは、一体どんな思いでこの景色を描き出して、ここから離れたのだろう。

 それでも、その人がこの景色を思い描かなければ、わたしがこの景色を見ることは、決してなかったんだ。


 朝日が射して来るときまで、二人で話もせず静かに明けていく空を眺めていた。

 ふと、赤アリスが立ち上がって湖の側へ寄って行く。


「ほら、見てみろよ」


 赤アリスの、凛とした声が音に慣れていない鼓膜に響く。湖辺まで近寄ると、昨日まで湖だった場所がまるで花畑のようになっていた。鏡のような結氷の上に走った線が茎、霜がまるで花のようにそこかしこに現れている。結晶の模様が視認できるほどに大きい。澄んだ氷の下には白くて丸い模様が点在している。削り出したガラスのような模様はまるで絵画の下地のように、花畑に幻想的な奥行きを与えていた。朝日を受けて端からきらきらと輝くその光景すべてが、一つの作品のようだ。


「きれい……」

 ほとんど溜息のように、そう呟いた。自分たちの息遣いしか聞こえない静かな世界。


 太陽が角度を作るにつれて波がゆっくりと引いていくように雪の庭園は失せて、また美しい湖の姿に戻る。惜しいと思う暇も与えないくらい、すべて儚く一瞬で消えた。


「そろそろ行くか」

 隣でぐうっと伸びをして、大きな欠伸をしながら赤アリスが言う。先導してもらいながら森を抜けたけれど、行きと比べればあっさりするほど境目は唐突に現れた。振り返った森は、まだそこにある。どこかに消えてしまったアリスのことと、いつか消えてしまう美しい森と湖のことを想って、少しの間余韻に浸った。

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