01-3 《 102 cream 》
目が覚めたとき、そこにあったのは木組みの天井だった。
薄暗い室内にあたたかい色の灯りが漏れ出している。一瞬、これまでのことは全部夢で、田舎の祖父の家にいるのではないかと思い込もうとした。が、そもそもわたしに田舎はないし、遠く聞こえる聞き慣れない言葉と嗅いだこともないような不思議な匂いに息を吐いた。これで、死に際の悪い夢の線はなくなったのだ。
頭を少し動かすと、布と擦れる感触がある。なるべく音を立てないように、身体を起こした。そう広くない部屋の中には、わたし以外誰もいない。色々な瓶が入った棚と移動式の木製ラック、椅子が三脚。簾のようなものがかかった別室への入り口が一つと、向こう側にも扉が一つある。光が漏れ出しているのは簾越しの向こう側で、低い声色の話し声が聞こえた。
聞き耳を立てようと手をついたところが、ぎし、と軋む。わたしが寝かされていたのは藁を木枠にでも巻き付けているような簡易ベッドのような物で、襤褸みたいだけど清潔な匂いのする布が掛けられていた。めくってみると、落ちたときに擦り剥いていた場所に包帯のような紙のような物で処置された跡がある。薬みたいな草の匂い。ふと気付いたが、この部屋は街の中の独特なにおいだけではなく、漢方のような植物っぽい薬臭さを感じる。
どこかで気を失ったわたしを、誰かが助けてくれた?
そう考えるのが自然だったし、不思議と怖いような感覚はなかった。あんなに気が動転していたのに、自分でもわかるくらい気持ちが落ち着いている。そんなに怖いところでもないような気すらしてくるのだから、現金なものだと思う。仮にそうではないとしても、わたしにはどうすることもできない。だったら、そう思っている方が幾分か楽な気がした。
そばにあった小さなテーブルに目をやると、土もののお腕と匙が置いてある。中身はほとんど残っていなかったけれど、鼻を近づけると、薬のにおいに混じってお米みたいな甘さのあるにおいがした。こういうの、なんて言うんだっけ。
「おもゆ…?」
「お、なんだ嬢ちゃん。目が覚めたのかい」
「うえぉっ…!」
突然声をかけられて、文字通り跳ねるように飛び上がってしまった。反射的に布を身体に巻き付けるなどという無駄な抵抗をしてしまう。大きな影が簾を揺らし、程なくのそりと現れた。
案の定『人間』ではなかったし、その異様な姿に驚いたのももちろんあるのだが、それを遥かに凌ぐほどの衝撃を受けて見開いた目がこぼれ落ちてしまいそうだった。
──言葉が、わかる!
「えっ、あ……え、」
「無理すんなって、ゆっくりでいいから。俺の言葉はわかるのかい?」
「あ、……はい。あの、……っ」
あの、まるで意味のわからなかったノイズのような言葉が、わかる。そして、自分の言葉も通じている。それだけのことなのに、泣きそうなくらい安心してしまう。
動揺して言葉の出ないわたしを見て、そのヒトは何も言わずにサイドテーブルのランプに明かりを灯す。重そうな身体をゆっくりと動かして少しの間奥へと引っ込んでしまったかと思ったら、あたたかいハーブティーを持って来てくれた。
***
簾の向こう側から聞こえていた低い声の主は、このヒトだったらしい。
落ち着いた、安心する話し方をするヒトだ。わたしにわかりやすいように、わざとゆっくり話してくれているのかもしれない。持って来てくれた飲み物の器を両手で包みながら、ランプのそばにあるお腕と匙を下げる彼の姿を盗み見た。
分厚くて大きな甲羅と肉厚なヒレこそ海亀を連想させる姿だったけれど、海亀でないことも確かだ。重そうな甲羅を支えている足は牛やヤギのようで、蹄がついている。頭も亀のように見えなくはないが、足と同じくうっすらと毛が生えているし、ちょこんとした牛みたいな耳とおでこに生えている角のようなものは、わたしが記憶しているかぎり海亀の特徴にはない。ただ、明らかに見慣れた生き物とは違うのに、嫌悪感は感じなかった。言葉が通じるからか、彼を優しいと感じているからか、いまだに混乱しているだけなのか、自分でもよくわかっていないのだけれど。そんなことはきっと、大した問題でもない。
重そうな甲羅を細い動物の足が支えているせいで、彼の動きはひどくゆっくりとしていた。たまによたつくこともあり、明らかに二足歩行には適していない。かと言って、あれでは這うこともままならなさそうで大変だ。そんなことを考えている間に、海亀さんがゆっくりと簾の向こうから出てきた。両ヒレで支えているお盆の上には、果物が乗ったお皿と小さなナイフがあった。テーブルに置いて、ベッドのそばにあった椅子に彼が腰掛ける。
「腹、減ってるんだろ」
「えっ…」
「お前さんが気を失ってる間、腹の虫がぐうぐう鳴ってたからよ。でもまあ、ちゃんとした食事は安静にしてからの方がいい。落ちてきたばっかりなんだろ。粗末なところで悪いが、ゆっくりしてくれや」
「……」
思わずお腹をおさえる。聞かれていたのかと思うと、途端に羞恥が湧いてきた。
でも、そうか。そう言われると確かに、朝ごはん以来何も食べていないのだから空いていない方がおかしい。
わたしはお腹が空いている。
そう思った途端、盛大にお腹の音が鳴る。あまりのタイミングの良さに、恐る恐る彼を見ると、笑いを噛み殺しているように見えた。いっそ声を上げて笑ってくれた方がマシだったかもしれない。こんな人前で、恥ずかしい。彼は人ではないけれど。
彼は手にした果物を六等分くらいの大きさに切り分けて、ひと切れを渡してくれた。ヒレなのにずいぶん器用だと思ったら、ヒレの先には細長い爪のようなものがあって、そこで物を持ったりナイフを扱ったりしているらしい。受け取ったものの、口にするのを一瞬ためらったことを察してか、彼が先に果実を口に運んで食べて見せた。鼻を近づけると、美味しそうな匂いがする。勇気を出してひと口かじると、外側は林檎で内側が桃のような、柔らかくて甘い、でも柑橘のような味もする、不思議な果物だった。正直、かなり美味しい。ふた切れ目も差し出してくれたので、ありがたくいただいた。
「お前さん、アリスだろ?」
「え、いえ……違います。わたしは、」
そこまで声に出して、ふと気付く。
あれ、名前、なんだっけ?
「アリスじゃねえのか? まあ確かに、アリスにしちゃあちょいと不器用そうにも見えるが──」
「多分、アリスって名前ではなかったと思います……と言うか、ええと、ここって一体」
言いかけたところで、表の方から、ものすごい音がした。
「ああ……言ったそばから来やがったな。おい! ドアは静かに開けろってなんべん言わせりゃわかるんだ!」
海亀のヒトが呆れたように大きな声を上げて立ち上がる。溜息混じりの呆れた顔で首を振り、簾の方へとよたよたと向かって行く。
「あの、い、一体誰が……」
振り返った彼が一言、短く言った。
「アリスだよ」
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