第18話

 先に会った工場長が部屋に入ってきたのは騒音が静まった頃合いであった。


 工場長は「待たせたね」と柔かに笑っていたが、それが形式的な表情であるのは瞭然で、友好などといった情は持ち合わせていなかった。その証拠に、書類や作業着が雑に投げられて渡された。それらが目の前に散らばるのを見ると、彼が内心、僕をどうでもいい人間と認識しているのが分かったのだった。


 今後は、僕自身も同じように扱われ、用が済めば捨てられるのだろう。彼にとって僕は、ただの補填要員でしかないのだから。


 そう諦観し落ち着こうとしても不愉快な感覚は消えなかった。これも、例の仮面舞台のせいだと思えば納得もいく。発露する怒りは、僕という存在を形作る数少ない人間的要素であった。僕は何かに対して怒る事により自尊心を満たし、生への正当性が(内向的なもので他者におけるものではなかったが)立証できたのである。




 僕は怒りの矛先を向ける相手に対し殺意を持っていた。無論、この時の工場長も例外ではなく、かねてより気に食わないと思っていた著名人や、僕を嘲笑った知人。また、道ですれ違う、幸せそうに笑っている人間達においても、等しく殺してやりたかった。

 怒りをぶつける相手を欲していながらその人間を抹消したいという願望は破綻している。しかし、増え続ける憎しみを前に僕はその矛盾に気づけず、だからこそその怒りが正しいものだと錯覚していたし、世の中が間違っていると思い続けていたのだった。全てが自身の偏執であると知るのは、全てが手遅れになってからである。





「書類に名前を書いたら、あっちのロッカーで着替えて待っていてくれよ。また呼びに来るから」



 工場長が忙しなく部屋から出て行った。

 再び訪れる寂寞。遠くの方から、ごうん、ごうんと、重い音が響いている。工場が稼働し、皆働き始めたのだ。言われた通りロッカーへ行って薄い作業着に袖を通した僕は、いよいよ始まる労働について怖気、腰が抜けそうになる。薄暗いロッカーが不安を呑ませ、溺死しそうなくらい、苦しく、冷たかった。

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