第5話

 僕が怒気を爆発させたのはそう理由があったからである。


「君、女の経験ないだろう」


 ある時工場の人間が僕の肩を叩いてそう言った。

 悪臭が漂ってきそうな下品な笑顔は嫌悪するに十分で醜悪そのものて、涎糸引く口元に粟肌を立てていると、向こうは僕が答えに窮していると判断したのか、畳み掛けるようにして侮蔑の言葉を吐くのだった。


「情けないね」

「かわいそうだね」

「買いにいかないのかい」

「甲斐性がないよ」


 悍ましい表情で発せられるそれらの汚物は、平素であれば特に気にもしないもののはずだった。だが、先の通り僕は女に対して、女の性に対して屈折した感情を抱いており、聞き捨てる事ができなかった。腹の底が熱く、頭痛がした。湧き上がったのは殺意だった。紛れもなく、殺してやるという意思だった。がしりとした、肉を潰す感触。骨を叩く音。血のにおいが鼻腔を通り舌に届く。人間が倒れ、蹲る光景。五感に伝わる暴力。血を流して倒れる男を見据えている自分から熱が引いていくのが分かる。人が集まり、ある者は男を解放し、ある者は僕を羽交い締めにした(もはや何をするつもりもないのに)。


 その後、僕は個室に連行され少し話をして上長に退職する旨を伝えた。上長は「そうかい」と、さも残念そうな顔をしたが、その胸の内は厄介者を追い払えたという安堵あった事が伺えた。

 人を殴って辞めて、特に罪状が付かなかったのは幸運だっただろう。殴った男もそれから何か言ってくる事もなく、極めて円満に退職を迎えたわけだが、僕の心は晴れなかった。いっそ大事にして警察でも呼んでくれたら、あるいは、男から反撃を喰らい、息絶えるほど滅多撃ちにされたらよかったのにと嘆息を漏らす。結局、野ざらしとなり別のどこかで飯の種を探さねばならない羽目となったのだ。その労力が、僕を萎縮させる。生きていくうえでの不安と苦しみが頭を悩ませ、足取りを重くさせた。先行くなど、見えるはずなく。

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