第13話 赤ちゃん、ばぶばぶ(1)
「奥さんの実家、海に沈んじゃったんですよ」
沙莉は館林の駅について、久保田さんと合流した。金子さんの家に向かいながら、奥さん実家に帰って出産したんじゃないんですねと言ったら、久保田さんが教えてくれた。
海に沈んだというのは、関東平野の大部分が海に沈んだことをいっている。沙莉が八歳の年、直下型地震があった。地震の影響なのか、地震の原因と同じ原因なのか、関東平野がのっていたプレートが沈み込んだらしい。縄文時代以来の、関東平野がほとんど海に沈むという状況に陥った。それで、いまあるように海が館林までせまってきたのだ。
「それじゃ、ご両親は」
「うん。家がなくなっちゃって、賃貸らしい」
「ああ、一緒に沈んじゃったわけじゃないんですね。よかった」
「ふたりともプロのダイバーで、百メートルくらいボンベ使わずに潜れたらしいです」
「ホントですか?それで助かるんですか?」
「ウソです」
久保田さんの腕を何度もはたく。
「もう、どこからですかっ」
「えーと、ふたりともプロのダイバーから」
「ダイバーじゃないってことですか」
「ないじゃなくて、なかったです」
「どうでもいいです」
吐き捨ててやった。
「地震のあとすぐ息子さんのところに避難したからですね。沖縄」
「へー。家が海に沈まなくても帰りたくなくなりそう」
「そう。それで居ついちゃって、ダイビングのインストラクターになった」
「またウソですか」
「それは本当」
現在はダイバーなのか。メンドクサイ。久保田さんはいつもヘンな嘘のつき方をする。いや、まあ嫌いじゃない。
「沖縄は遠いですね。こっちで出産するのも納得です。で、ご両親はいくつからダイビングはじめたんですか」
「さあ、うちの親じゃないんで知りませんけど」
「今日奥さんに会うけど、いきなりそんな立ち入ったこと聞いたら顰蹙ものですよね」
「聞いてみたらいいんじゃないですか?芸大生っていえば、顰蹙買うようなことしてもきっと大丈夫です」
「しません。芸大生をなんだと思ってんですか」
「そうですね、わりと普通の人多いみたいですね」
「わりとでも、みたいでもありません。みーんな普通の人です」
久保田さんは肩をすくめてスルー。やれやれ、本当にグンマの人だろうか。
途中のスーパーで買い物をしてゆく。夕方におジャマして、久保田さんとふたりで夕食を作ろうということになっているのだ。子育てしていたら夫婦の食事は用意するのが手間だから、きっとよろこんでもらえるはず。
金子さんの家についたとき、赤ちゃんは眠っていた。ママはほっとひと安心だ。
赤ちゃんは生後一箇月もたっていない。手はぷくぷくで小さい。口もちっちゃい。顔はおじいちゃんみたい。
梨を買ってきたから、キッチンを借りて切る。久保田さんが、普通に切ってくださいと言った。こんなところで芸大生らしさをアピールするつもりはなかった。ハーブティーに梨でティータイムだ。
「寝られてますか?赤ちゃん寝てる間に少し寝たらどうですか」
「大丈夫です。まだ寝てる時間が長くて、起きてる時間は短いんです」
へー、そういうものなのか。久保田さんがペンギンのヒナの育て方を話しはじめた。ペンギンと人間を同じにしないでもらいたいところだけれど、金子さんの奥さんはさすがというべきか、うまく話をあわせてくれているみたいだ。金子さんも普段から動物の話ばかりしているのかもしれない。動物といっても、水族館だから大抵魚とかクラゲとかだけど。
赤ちゃんが起きて、手足をバタつかせはじめた。これは抱っこのチャンスではないか。抱っこしてみる?と聞かれ、ぜひと答えた。首のすわらない赤ちゃんの抱っこの仕方を教わって、赤ちゃんを抱く。ちっさい。手足をバタバタするのが好きみたいだ。落ち着くことがない。もしかして、抱っこされて落ち着かないのか。久保田さんがほっぺをツンツンする。ご機嫌で、きゃっきゃとよろこんでいる。
交代といって、今度は久保田さんが赤ちゃんを抱っこする。赤ちゃんは大人しくなった。ずっと久保田さんの顔を凝視している。久保田さんも慈愛に満ちた目で見つめている。ちょっとちょっと、この子は金子さんの子だぞ。
「久保田さん、目が赤ちゃんほしいっていってますよ」
「そうですね、いつまでも赤ちゃんでいてくれる赤ちゃん」
そればっかり。赤ちゃんも久保田さんに抱っこされた方が気分よさそうだ。女の子だからか?ふん。あなたは若すぎる。残念ねっ。
「知り合いが毎年か、一年おきで赤ちゃんできれば最高だなー」
「人にばっかり押しつけないでください」
「ペンギンで手一杯ですよ」
「そろそろ独り立ちするでしょ?」
金子さんの奥さんがニヤリとしている。
「ペンスケですか?」
「ペンスケっていうの?久保田さんが育ててるエンペラーペンギンだけど。四年くらいすると大人のペンギンになって、お嫁さんをもらってつがいになるらしいの」
「ほほう。久保田さんガンバらないと先を越されますよ」
「競争じゃないんで。人間とペンギンだし」
「もう!この減らず口を黙らせてやりたい」
奥さんが上品に笑う。あの金子さんの奥さんとは思えない。赤ちゃんが久保田さんの腕の中で泣きはじめた。
「お腹すいたのかなー?」
「大人もお腹がすく時間じゃないですか」
「ちょっと失礼して授乳してきますね」
奥さんが赤ちゃんを受けとる。
「わたしたちはキッチン借ります。そのうち金子さん帰ってくるでしょうし」
赤ちゃんがおっぱいの時間のあいだに、料理にとりかかる。久保田さんは切る係。タマネギ薄切りして水にさらし、マリネソースをつくっておいて、柵になった鯛の切り身を薄切りにする。皿にさらしタマネギ、鯛の薄切りを盛りつけ、マリネソースをかけて冷蔵庫にいれておく。食べるときに出せば完成。
煮物をつくって保存しておく。これは今日食べるというより、あとで忙しいときにでもあたためて食べてもらう分だ。だし汁に切った具をいれて火にかけておく。
鍋にオリーブオイルをいれ、ニンニクをつぶして投入。火にかけて香りが出たところでトマト缶を鍋にあける。煮てアクをとり、塩で味をととのえればトマトソースだ。これはあとでスパゲティのソースとして使う。
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