第7話 沙莉の推理と、プリンとタイ(1)
クラゲの水槽は昨日と同じ。スイッチを入れると照明がつく。ポンプだって正常に働いている。ときおりポコッと気泡が下から水槽の壁面に沿って浮いてくる。電源ははいっている。つまり、久保田さんがステファニーを水族館に連れて行ったとは考えられない。犬や猫じゃないんだから当たり前だ。クラゲと一緒に出勤なんかしたら、すこしの間休めと優しく言われるにちがいない。
玄関の鍵をあらためる。ドアノブをさげても開かない。ちゃんと鍵がかかっている。窓。キッチンの窓も、南の窓もキッチリ閉まって鍵がかかっている。そのまま動かそうとしても、もちろんびくともしない。
つまり、密室だ。密室からステファニーが消えた。念のため、水槽についているフタを観察する。しっかり閉まっている。ステファニーが自分で水槽からでていったらこうはいかないはずだ。昨日の夕食がクラゲだったからと言って、怖れをなして逃亡したというわけではなさそうだ。誘拐でまちがいない。でも、密室からどうやって誘拐するというのだろう。
これは、犯人からの挑戦だ。必ず解決して見せる。久保田さんの名にかけて。
うん。決まった。
突然の音に、鳥肌が立った。ケータイの着信音だ。なんだなんだ、人をおどかして。久保田さんからメールだ。犯人からの要求の連絡ではなかった。久保田さんは、夕食の支度はしなくてよいと言ってきた。メニューに悩んだり買い物に行ったりしなくて済む。余計なことは考えずに推理に集中しろという神様からの指示にちがいない。
あらためて水槽をよく観察すべきことに気づいた。誘拐するときに乱暴に扱ったとすれば、足の一本くらい水槽の底に落ちているかもしれない。バラバラにすれば、どこか隙間から部屋の外に出すことだって。できるか?知らない。水槽の底には、なにも沈んでいない。
次は水槽の周囲だ。水がこぼれたあとが見つかるかもしれない。水槽の水は海水だ。こぼれて乾けば塩分がのこっているはず。残念だけど、水槽の水がこぼれたあとは発見できなかった。拭き取られたのかもしれない。水槽からクラゲを引き上げるのに一滴も水を滴らせないなんてことはないだろう。
ともかく、犯人はおそろしく慎重に、そして几帳面にステファニーを誘拐し、この部屋を密室にした。眠っている人間を起こすことなく。
あとは推理だ。沙莉はソファにくつろいだ。脳に酸素を送らなければならない。リラックスが必要だ。目を閉じる。
恐ろしいことに気づいてしまった。ステファニーをバラバラにすることをさっき検討したけれど、クラゲの体の九十パーセント以上が水分だという事実を考え合わせれば、水分を吸ってしまうとか、あぶって蒸発させてしまうとかすれば、簡単に隠したり処分したりできてしまうのだ。その場合、ステファニーの命は失われているだろう。
いやしかし、犯人が人間だとするのは無理だ。人間が部屋にはいってきて、ステファニーに危害を加え、外に出て密室にするなんてことはできないだろう。久保田さんは合鍵をあずみさんにも渡していないと言っていた。ピッキングか?いや、ピッキングで玄関からカチャカチャ音がしていたら、眠っていても起きるだろう。たぶん。咲名ちゃんに作ってもらった合鍵は、とっくの昔に久保田さんの手ですべて処分された。
犯人は動物。猫か?いや、猫が水槽のフタをもとどおりにすることはできない。猫でも密室にはいってはこられない。謎だ。
ダメだ。これ以上は考えられない。お昼にしよう。
日曜日なのにランチをやっていた。久保田さんとはじめて一緒に食事をしたレストランだ。サラダ、スパゲッティを食べて、紅茶がでてきた。仕事の昼休みらしき客はいない。久保田さんは働きすぎだと思う。
ステファニーはどこかで生きているだろうか。はじめて久保田さんの部屋に遊びに行ったとき、クラゲが死んだら補充すると言っていた。ステファニーがいなくなったと聞いても、久保田さんはきっとあたらしいクラゲを補充して忘れてしまうだろう。女は悲しい生き物だ。そんなに簡単に忘れられたくなんかない。
紅茶を口にする。レモンスライスが小さな皿にのっている。味をかえよう。スライスをティーカップに投入する。おお、水色がオレンジに。スプーンですくって皿に戻す。紅茶の色が変わったのは、レモンが酸性だからだ。化学反応。詳しくはわからない。酸やアルカリが強いと人間の皮膚を溶かしてしまう。クラゲならどうだろう。簡単に溶かされてしまうかもしれない。そうだ。水槽の水を調べてみよう。誘拐ではなく殺、クラゲの可能性もある。
歩くのももどかしく部屋にもどる。まずはお湯だ。ヤカンを火にかける。ポットを用意して、茶葉を投入。セイロンティーだ。水色が濃い。
紅茶を蒸らしている間にスプーンとプリンを用意する。冷蔵庫にはいっていて、目をつけていたのだ。先に一口。甘くておいしい。落ち着く。ティーストレイナーをカップに設置してポットから紅茶を注ぐ。十分いい色がでている。紅茶を立てつづけに飲むのはお腹が受けつけないかと思ったけど、プリンと一緒なら話は別なようだ。おいしくいただく。
プリンはただ食べたくて食べたわけではない。プリンの容器に水槽の水を少量くむ。つぎにポットから紅茶をプリンの容器に注ぐ。色は?ティーカップの中の紅茶を薄くしただけの色だ。つまり酸性ではない。
いま気づいた。塩だ。ナメクジは塩をかけたら水分をすわれてしぼんでしまう。クラゲでも、水槽の水の塩分濃度が高ければ、同じように水分をとられてしぼんでしまうはずだ。でも、調べようがない。水槽の水を舐めてみたくはない。袋に水槽の水をつめて、海に沈むか調べてみようか。メンドクサイ。プリンの容器で何度も水を汲んでは袋にあけるという作業を繰り返さなければならない。嫌だ。探せばポンプがあるかもしれないけど、やっぱりメンドクサイ。よし、塩はいれてない。だって、塩はクラゲをしぼませるかもしれないけど、溶かしはしない。却下だ。
そうなると、もう確かめるネタがない。また考えなければならない。なにについて考えればいいのだろう。溶けたのではない。しぼんでもいない。そうなると、水槽の外にでたということか。ああ、水槽の重さを計っておけば、変化があったかどうかでステファニーが水槽の外に出たのかどうか確かめられたのに。
水槽の外に出たことにすると、その痕跡を探すしかないか。でも、フタ、水槽、水槽のまわり、どこにもなんの痕跡もなかった。お手上げだ。
そうだ。閃いた。
冷蔵庫を開ける。プリンがもうひとつある。よし、もうひとつプリンを食べよう。考えるためには脳に糖分を与えてやることも必要なのだ。いいことに気づいたなと自画自賛しつつ、プリンのフタをはがす。フタにすこしプリンがくっついている。それもスプーンですくって口に入れる。味もよくわからないし、ボリュームもない。あまりやる価値のない動作だった。いや、価値はあった。水槽のフタを調べよう。水槽を眺めながら、とりあえずプリンを味わう。ちょっと渋めの紅茶によくあう。プリンの容器は、久保田さんに見つからないようにゴミ箱のゴミの中にうずめておく。
さて、水槽のフタにステファニーがくっついていたとすると、もう干からびて悲惨なことになっているだろう。顔がゆがむ。フタを水槽からとって裏返す。ステファニーは、いなかった。そういえば、さっきフタをあけてプリンの容器で水をすくったのだった。フタにステファニーがひっついていれば、そのときに気づいたはずだった。やれやれ。すこし安心したけど、これでまた事件は振りだしに戻ってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます