3

 数時間過ごしたが何もなく、友人に何日も世話になるのも申し訳なかったので、今夜は家で寝ることにした。

 さすがにあのシーツは気持ちが悪いのでそのまま捨てた。

「あの……良かったら泊まりましょうか?」

 タクシーに乗せて送ろうとしたら、杏菜が言った。

 思ってもみない申し出だった。杏菜にとっては、私は今日が初対面の赤の他人だ。心霊相談みたいなことはいつもやっているみたいだから、たくさんいる依頼人の一人。それなのに、私が一人では不安だろうと心配してくれている。

 飄々とした態度からはわかりにくいが、優しい子なのだ、この子は。昔から。

「ありがと。そうしてくれると、すごくうれしい」

 そう答えると、杏菜ははにかんだように笑った。


 一緒に夕飯を食べ、話をしていると、恐怖はどんどん薄れていった。それと引き換えに心を占めるのは、二十五年間の彼女への想い。

 物心ついたときから前世の記憶があった。彼女を愛した記憶も、交わした約束も。だからずっと彼女だけを求めていた。その彼女を実際に目の前にして、私の愛情と劣情はむくむく膨れ上がる。

 私の気持ちなど露ほども知らず、杏菜は無邪気に笑い、無防備に首筋を、肩を、腿を晒す。笑顔を見せるようになったのはうれしかったが、それ以上に、今の彼女が私のものでないことが切なく苦しい。

 夜中の十二時を回り、私達は床についた。ベッドを譲ろうとしたが「私、床でいいです」と杏菜は言い張った。

 マットレスとクッション、タオルケットの簡易な寝具に横たわって、

「おやすみなさい」

 と杏菜が言った。

「おやすみ」

 そんな些細なやりとりも嬉しくて、現金な私はつい二日前の恐怖も忘れて目を閉じる。



 夢の中で、妙に息苦しかった。

 呼吸ができない。この感覚を私は知っている。

 私の身体はぶらぶらと揺れているはずだ。その足元にはまだぬくもりの残る少女の身体が転がっている。

 ああ、アン。

 私の可愛いアン。ごめんね。その細い首の感触がまだはっきりと手に残っている。

 脳に酸素が回らない。目の前が白くなる。アン、私もすぐに行くからね。

 ――マリア。マリア!

 私を呼ぶ声がする。そんなに必死にならないで、お前をひとりになんてしないから――。


「マリさんッ」

 身体を引っ張り起こされ、背中を強く叩かれる。途端、嘔吐えずいて口から勢いよく何かが出た。

 激しくむせる。鼻がツンとする。状況が飲み込めない。口の中が塩辛い。これは……海水?

「あん……な」

 名前を呼ぶのが精一杯だ。杏菜は私を抱えて背中をさすりながら、必死の表情で辺りを見回している。


 ざああああああああああああああああああああ


 唐突にけたたましい音がした。大量の水がシンクを打ち流れていく音。

「逃げますよ、立てますか?」

 まだ頭がクラクラしたが、私は頷いた。

 杏菜の肩を借りて立ち上がる。よろよろと歩いて玄関につづくキッチンに足を踏み入れると、ぴちゃり、と水音。

 シンクから水が溢れて、床まで水浸しになり始めていた。

「マリさん、頑張って」

 私を半ば引きずるように、杏菜が進む。


 ざああああああああああああああああああああ


 今度は浴室から水音がする。

 水は寝室にも流れ込み、玄関のたたきに落ちる。

 びしょ濡れの靴に足を突っ込み、玄関の扉を開ける。転げ落ちるように階段を降りた私達は、なんとかタクシーに乗ることができた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る