気鬱の皇女と大賢者の孫 ~聖女と呼ばれた皇女は魔導士に救われる~

普門院 ひかる

第1話 助け人

 私は、帝都郊外を流れる大河ドナエに来ていた。


 時はあかつきの頃。空はうっすらと明るんできている。

 夜、寝付けずに一睡もできなかった私は、深夜に城を抜け出し、ドナエに向かったのだが、女の足では到着するのがこの時間になってしまったのだ。


 夜のうちにひっそりと実行しようと思っていたのだけれど…急がなくては…


 私はドナエの流れの中に慎重に歩みを進めた。

 季節は早春で水は驚くほど冷たい。


 しかし、気にせず流れの中央に向けて歩みを進める。

 そして、水深が腰くらいまで到達した。


 自分が今やろうとしていることが怖くなった。

 でも、(生きることが苦痛でしかない私に他の選択肢はないのよ)と必死に自分に言い聞かせる。


 まだだ、もう少し深いところへ…

 そう思って更に歩みを進めようとしたところで、流れに足を捉えられ、転倒して水中に引き込まれてしまった。


「ゴホッ、ゴホッ…」


 河の流れは思いのほか早く、体の自由がきかない。

 必死に水面に顔を出そうとするが、ままならない。


 ──く、苦しい。


 水中では当然に息はできないが、体は空気を求めて息を吸おうとする。

 結果、私は大量の水を飲んだ。


 そして酸欠になった私の目は暗転し、意識を失った。


    ◆


 次に私の意識が戻った時、唇に柔らかい感触を感じた。


 ──えっ! 何?


 何者かが私の唇にキスをしていると悟った私は声を発しようとした。

 だが、急に強烈な吐き気をもよおした。


「ゴフッ、ゴフッ…オエーッ、オエーッ…」という淑女にあるまじき音を出しながら、私は大量の水を嘔吐する。


 キスをしていたと思われる人物は、私の体を抱き起してくれ、優しく背中をさすってくれたのが何よりも有難かった。


 水を吐く量は減っていき、最後は唾液だけとなった。

 私の口から、ぬるぬるとした唾液が垂れている。

 私は唾液を手で必死にぬぐったが、ハンカチを差し出されたので、「ありがとうございます」と言って受け取り、口と手をきれいにする。


「大丈夫ですか。ご気分はいかがでしょうか?」

 声からすると男性のようだ。


「まだ気持ち悪いです…」

「それはまだ吐ききっていないのですね。ならば全部吐いた方がいい。ご自分でできますか?」


 私はコクリと頷き、試みるが無理だった。


「無理…みたいです…」

「そうですか。では、仕方がないですね。口を開けてください」


 えっ? 不思議に思いながらも言うとおりに口を開けると、彼は私の口に手を突っ込んできた。


 ──えっ? 何?


 彼は指を私の喉の奥まで突っ込むと、指を曲げて喉の奥を刺激した。途端に吐き気をもよおし、私は再び水を大量に吐く。


 彼は指で刺激し続ける…

 その間も、もう片方の手で私の背中をさすってくれている。


 やがてすべて吐き切ったようで、水は出なくなった。

 ふと見ると彼の手は、私の胃液混じりの水と唾液でべとべとになっていた。


「す、すみません。手を汚してしまって…」

「いえ。お気になさらないでください」

 彼は爽やかに言った。


「それよりご気分はいかがでしょうか?」

「おかげさまで、だいぶすっきりしました」

「それは良かった」


 ようやく気分が落ち着いて彼の顔を見てみる余裕が出てきた。


 淡いブロンドの髪があけぼのの陽光を受けてキラキラと輝いている。それにきれいに通った鼻筋に涼やかな目元。薄い唇。

 もろに私好みの超絶イケメンだった。


 こんな人にあんな恥ずかしい姿を見られたうえに、手まで私の汚物で汚してしまったなんて…

 私は深く恥じ入った。


 が、今度は寒気がして、体が震えてきた。

 無理もない。まだ早春の早朝で気温が低いところで、服がずぶ濡れなのだ。これではみるみる体温が下がってしまう。


「これは気がきかないことで、失礼しました。寒いですよね。では、服を乾かしましょう」


 服を乾かすとは、焚火たきびでもくのだろうか…


「風よ。熱風となりてかの者の衣服を乾かせ。アマンドゥスが命じる。ヒートブロウ」

 彼が詠唱するとしばらくの間丁度良い加減の熱風が吹き、服も塗れていた髪も乾いた。


 想像の上を行く事態に私は驚きを隠せなかった。


 彼は魔導士だったのだ。

 そう言われてみれば来ている服も地味ではあるが魔導士が切るローブのようだ。


「ありがとうございます」


 人心地ついたので、確認してみる。


「あ、あのう…あなたが助けてくださったのですよね?」

「ええ。たまたま通りかかったものですから」


「その割には服が濡れていないようなのですが?」

「魔法で運びましたから…」


「そうですか…それは凄いですね」

「いえ。たいした魔法じゃありません」


 そこで会話が途切れてしまった。

 気まずい沈黙が二人を支配する。


 彼は私をどう扱ってよいか思案しているのだろう。

 そうよね。こんな面倒くさい女と関わりたくはないわよね。それにこれ以上ないような痴態もさらしてしまったし…

 第一印象は最悪だわ。


 しばらくして、彼は意を決したように口を開いた。


「これは答えたくなければ答えなくても良いのですが、もしかして死のうとしていたのですか?」


 ああ。ずばり直球な質問がきた。

 私は逡巡したが、命の恩人には嘘はつけない。


 私は「はい」とだけ答えた。


「そうですか…」


 また、しばらくの沈黙の後、彼は言った。


「私のような者でよろしければ、なぜそのようなお気持ちになったのか、話していただけますか?少しは気持ちが晴れるかもしれませんよ」


 と言われても、今日あったばかりの初対面の人に…

 話あぐねていると、彼がこの上なく優しい目で私を見ていることに気づいた。


 なんて慈愛に満ちた眼差しなのだろう…

 まるで神か天使のようだ…


 私は少し安心し、ぽつりぽつりと自分の境遇を話し始めた。

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