第12話 競い合う理由

 若宮直人の強襲から数刻して、俺が目を覚ましたのは消毒薬の匂いにあふれたベッドの上だった。全身は嫌な汗でびっしょりぬれており、これまで一度だって感じたことがないほどの焦燥が上乗せされたような拍動、後頭部にだけひろがる鈍い痛みと包帯で押さえつけられてはいたが背からは差し込むような鋭い痛みが拡がっていた。

 大丈夫かという美蘭の声に、瞼を持ち上げると、世界の色が違って見えた。

 俺は俺なのに、『俺』じゃなかった。

 その唐突すぎる理解と絶妙に追いついていないままのひ弱な心に苦笑いだ。

 零れ落ちてくる涙の理由は一つではない。

 俺はすべてをはぎ取られて、ここにいる。

 俺はすべてを否定されて、ここにいる。

 ぐっとかみしめた唇にぴりっと走った痛みが教えてくれる。

 現実を変えなくちゃならない。どれだけ現実がもたらす真実が醜いものであったとしても、もう止まれない。

 俺は宿命を従えて、導く。

 だから、美蘭と話そうと思った。美蘭と話さなければならない。

 美蘭はまだ知らないし、わかっていない。でも、美蘭はこちら側だ。

 深く息を吸い込み、意を決して口を開こうとした瞬間、事態は一変した。

 事はすんなりと俺に味方してはくれなかった。

 勢いよく開かれた障子の向こう側に立っていたのは仮面をつけた長身の男で、すぐにそれが一心だとわかった。

 連れていけと温度が感じられないほど低い声で彼は配下の男たちに俺の捕縛を命じた。

 宗像の中枢、それも最重要機密区画への敵襲は事実がどうであったにせよ、俺と真規を招かざる客と判ずるには十分だった。

 内側で手引きをする者がいなければ破ることができない防壁が破られたのだと、一心は淡々と言葉を並べた。

 俺は公介と共に居たというのに、反論する機会すら与えられなかった。

 廊下へ引きずり出され、中庭に立っていた仮面の少女がこちらを見ていることに気が付いた。彼女は池のほとりにある大きな庭石の上にすわって、頬杖をついたままだ。

 ちょっと待ってくれと叫びながら廊下に飛び出してきた美蘭にどこからともなく現れた貴一が小さく退けと言って、彼女を抑え込んでしまった。


「はいはい、手を離す。 コレは僕の守備範囲だ。 ゆえに僕が連行する」


 俺を両側から拘束していた男たちに貴一が軽く手をあげてみせると、彼らはどちらの主の命を聞いたら良いのかと困惑顔になったが、貴一にぐっと睨まれたらもう選択の余地はなかったらしく手を離した。

 傷の痛みでゆらめいた俺の身体をすぐに美蘭が支えてくれた。

「真規はどうしていますか?」

 俺の質問に、貴一は僕の手の者が拘束していると答えてくれた。

「君以上に、水無瀬真規君には聞きたいことが山のようにあるからね。 実害を受けたのは紅ではなく、この黒なのだから、今回に限って言えば、総統よりも先に僕が話を聞くのが道理というもんだよね」

 命を狙われた俺より、当然、大きな疑いをかけられたのは真規ということか。

「彼らは僕が拘束するって言ったはずなのに、やけに仕事が早いですよね? ねぇ、総統?」

 余計なことを言うなとわずかに苛立った一心へとゆっくり振り返った貴一が、おどけたような声をあげた。

「余計なことをするのは僕の十八番。 いつも通りです。 そうでしょう?」

 貴一としかりつけるような声をあげた一心に、当の貴一はにっこりと笑んだ。

「僕、王号を使っても構いませんけど、やってみましょうか?」

 貴一は俺と一心の間にするりと身体を入れ込むように立って、その大きな背中で待機と命じている気がした。

「貴一、お前なぁ」

 一心がわずかに肩を落としたように見えた。それを見ていた志貴がゆっくりと立ち上がると、小さく息を吐いた。

 彼女は貴一に対してゆっくりと指をさして、片方だけ口角をつりあげた。

「お前がその気なら、私も使ってみても構わないが?」

 ひょいと石の上に飛び上がった彼女が指先にビジョンブラッドの炎を灯した。

 これには一心が大ため息だ。すばやく中庭へおりると、志貴の身体に手を伸ばして岩の上からすっとおろして、それだけは止せと首を振っている。

 志貴は納得がいかないのか、彼の意図を探ろうと一心の胸倉を力いっぱいつかんだ。一心は彼女に耳打ちするように何かつぶやき、志貴はすっと両腕をおろした。

「貴一、二度はないからな」

 宗像が従うのは誰かを考えろと言葉を吐き捨てて、中庭を去っていく志貴を追うように一心が去っていく。

「命令違反をしているわけではないでしょうに、お二人がこれほどお怒りとはね。 さぁ、皆も退いて退いて。 ここは僕が仕切るからね」

 貴一が集まってきていた黄泉使い達に散れと命じて、くるりと俺の方へ振り返った。言葉はないが、貴一のウィンクに救われた気がして、涙腺が崩壊しそうだ。


「美蘭、彼を僕の水牢へお招きして。 その足ですぐに行ってきて欲しい場所がある。 とっても急ぎだから、単独だ。 それとも静音を出そうか?」


 試すようなその声に、美蘭は口先を尖らせて、胸の前で腕を組んだ。

「たきつけなくたって大丈夫だ! だいたい、静音を出すつもりなんてないくせに!」

 貴一はその様子にくくくと笑って、ご名答と美蘭の肩を軽くたたいた。

「動くことにしたと伝えて来て」

 美蘭の表情に緊張が走った。

 美蘭があわてて、貴一の顔をみあげてその真意を探ろうとしているのがわかった。

 彼はそれ以上は何も言わずに、ゆっくりとうなずいた。

 そして、こちらへと視線をうつして、俺の鼻先に指をむけてからにっこりと笑んだ。

「良いかい? 喧嘩の肩代わりは僕がする。 だから、僕が良いと言うまで、すべてを封じられた虜囚らしくしておくんだよ? 慮囚ライフもそれほど悪くはないはずだから」

 そう言って、貴一はその場からあっという間に姿を消してしまった。

 俺達を捕えろと命を出したのはトップである一心という体裁を貴一は崩しはしなかったが、すべてをそのまま飲み込む気はない様子だった。

 捕縛より後に、公介も泰介も俺達の関与などありえないとそろって口にしてくれたとも時生から聞いたが、その時生も結果、俺達と同列の扱いとなってしまった。

 三人そろって懲罰牢の中に居て、両腕には封術枷がはめられており、唯人同然とされた。

 時生はごつごつとしたむき出しの岩の上で胡坐をかいたまま、じっと目を閉じたままだ。

 海へと通じる崖の下をくりぬかれたようにできている水牢は奥まっているとはいえ、潮風が吹き込んでくる。極寒の世界でなかったことが何よりの幸運だ。多少の水しぶきは避けきれないが、たいして体温を奪われることもない。

 灯りなどなく、暗闇だけが支配する。そんな世界だったのに、こっそりと美蘭が行燈を準備してくれたから、互いの顔を見る程度のことはできた。

 あれから三日間、ずっとここでぼんやりとしている。

 公介と過ごした毎日がもう懐かしい。

 疲れた、もう動きたくないとあれだけ思っていたのに、いざ取り上げられてしまうと寂しいなんて変な感じがする。

「新、無理をするな」

 やっぱり隠し通せるものではないかと苦笑いする。縫合されたとはいえ背中にある刀傷がじくじくと痛み、じっとしているだけでも簡単に汗がにじむ。そんな俺に真規が横になれと膝を枕に貸してくれた。座っているよりはいくらか傷の痛みはましだ。だが、痛みは簡単にはおさまらない。若宮直人がいかに本気で俺を狙ったのかがわかる。公介がいなければ俺の身体は真っ二つも良いところだった。


「新、口開けて」


 真規が胸元からごそごそとして取り出した小さな飴玉みたいなものを俺の口に押し込んできた。甘酸っぱいそれは口の中へ入れるとラムネのように緩やかに崩れていった。すると、嘘みたいに痛みが和らいでいく。

 これは何と聞こうとしたが、真規が視線をあわそうとしないからやめた。

 真規に殺されるのなら、それはそれで諦めがつくと思っていたから、答えたくないのならそれも良いと言及しなかった。

 無音の空間でも、波音が心地良い。

 音階をとるとどうなるかななんて、真規と時々話しながらうとうとする。

 でも、三人とも言葉数は少ない。最後は小さなため息だけが飛び交って終わりだ。


「ひふみ よいむなや こともちろらね


 しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか


 うおえ にさりへて のますあせゑほれけん」


 ゆっくり、ゆっくりと一言たりとも違わずに口にする。

 言の葉の音は優雅に声とする。

 言霊は美しくあれば、その言葉に続く未来はきっと穏やかなものとなる。 

 俺の初めての師匠である公介はそう言って教えてくれた。


「公介さんに教えてもらったの? 綺麗な音がならんでる」


 真規がくすりと笑った。俺はそれにうんとうなずき、さらに続ける。

 繰り返し、繰り返し、ゆっくりと丁寧にひふみ祝詞を口にしていく内に、眠気が襲ってきた。真規が背を撫でてくれている手のあたたかさを感じながら、あの時、貴一が耳元でつぶやいてくれた言葉を思い出していた。

 彼は『必ず成す』と力強くそう言ってくれた。

 宗像貴一は俺の敵じゃない。むしろ、俺が従っていくべき男だ。

 彼のそばに居る時、俺はちゃんと呼吸ができる。これはもう本能に刻まれた機能のようなものだと悟った。俺は彼のそばにいることが魂の約定なのだろう。

 それに、貴一は好きだ。

 貴一は柔らかい。だけど、鋭い。そして、彼はおそらく天を揺るがすほどの聡い手をとり動く。ゆえに、彼が今のこの状況を覆そうとしないには理由がある。

 どんな考えがあってか等、俺が推し量れるものではないけれど、待てと言われたのなら、それが全てで良い。

「この牢屋はさ、思ったより、辛くないよな」

 瞼を閉じたままでつぶやいた俺に、真規が大ため息だ。

「どれだけポジティブなわけ?」

 捕らえられていながら何を言ってるんだというような真規の声に、俺は笑った。

「だってさ、寝心地だけは最悪だけど、灯りもあるし、食事ももらえる。 虜囚ライフもそこそこに悪くない。 だってさ、俺のこの枷、機能してないしな。 稽古もやり放題だ」

 えっと時生と真規が声をそろえて、こちらを見た気配がした。

 嘘だなと時生と真規が深く息を吐いてぼやいた。

「嘘じゃないよ。 ほら、見てて」

 そっと瞼を持ち上げて、指先をじっとみつめた。

 人差し指の先に靄でできた繭玉を浮かべることができた。

 あれだけ半径5メートルの壁を超えることができなかったのにと苦笑いだ。

 連行される道の先で待っていた公介が通り過ぎる瞬間に、そっと俺に耳打ちしてくれたことを思い出した。

『もうとっくにできているぞ』

 その意味がわからなかったけれど、これだ。

 まるで公介に魔法をかけられたみたいだ。

「ねぇ、新君。 君は数か月経っている体感だっただろうけれど、あの稽古場の時間の流れは外界とは違う。 今、何月かわかる?」

 時生がこちらに目をやって、小首を傾げている。

 何を聞かれているのかわからなくて、俺が今度は首を傾げた。

「まだ8月だってこと、わかっているかい?」

 時生がくすくすと笑って言った。

 俺も真規も唖然とするしかない。

「あの地下で半年近く過ごしただろうけれど、外ではたったの5日しか経っていない。 君たちの髪は伸びたよね。 でも、外では5日だ」

 はっとして髪をさわると肩口近くまで伸びている。そうだ、公介が伸びたなと組紐をくれたのはいつだったろう。無精ひげも剃れと言われたことがある。

「嘘だ! 半年は経ってるはずだ!」

 俺は思わず声を上げてしまった。理解が完全に追いつかないのだから仕方がない。

「嘘じゃないよ、わずかに5日経っただけ。 現に寒くないだろう? 本当に半年経っているなら今は真冬も良いところだ。 これが宗像の魔法だよ。 静が君達を僕に託した理由はこれだよ」

 時生がふわりと柔らかく笑った。

「黄泉使いの寿命は人間の数倍はあるし、僕たちはいくらでもこうして強化を図れる環境にある。 だからこそ、厳しい縛りが身に刻まれている。 縛りを破れば穢れが降りかかる。 魂が削がれるんだ」

「でも、貴一さんはあの若宮直人に手を出せたじゃないか……」

「良い質問だね。 実はこの縛りの約定の外にいることが赦された黄泉使いが存在する。 それが紅、白、黒の名を持っている3人だ。 紅は志貴、白は美蘭の父親、黒は貴一。 色の号を持つ千年王は俯瞰して世界を見るのが本来の役目。 でも、その役目すら放棄しても赦される例外中の例外の王が一人だけいる。 君はそれが誰を指すかもう知ってるね。 すべてが天の采配ってことだ」

 俺は宗像に来てすぐの頃、『与えるべきを知ってる男が君を導ける師を選ぶ』と時生に言われたことがある。それは泰介のことかと思っていたけれど、違っていたらしい。

「もしかして俺を公介さんの所へ行かせてくれた人って……」

「そういうことだ。 勿論、錬成の責任者である泰介さんも賛成してくれたからでもあるけれどね」

 天の采配、時生の言うように、今起きていることの全てが神の計画の内にあるのなら、聞いてみたいことがあった。

「しぃちゃんには……いつ逢えますか?」

 わかりやすいほどに時生の顔が凍り付いた。

 本当は聞くまでもなく、俺は知っているのだ。

 もはやそう簡単には逢えないはずだ。

 俺が『俺』だと認識した段階で、手の平から零れ落ちるものがある。

「やっぱり逢えるわけないか……」 

 高階静は俺の叔父などではない。

 彼が『あの時』に俺を救ってくれた『逆側』の人間だ。

 兄も父もおそらく彼の配下で『逆側』の人間だ。

 桂もそうだろう。

 そして、認めたくないが若宮直人もそうだ。

 頬を伝いおちてくる涙を腕でおさえこんだ。

 身を斬られるより痛い。

 貴一といられるのは俺にとって大切なことだ。でも、静がいなければ俺はしんどい。しんどいんだ。 

 時生は何も答えなかった。

 真規がゆっくりと俺にむかって手を伸ばして、頭を抱きしめてくれた。

「今はまだ僕一人だけなんだ」

 真規の声が震えていた。真規は何度も何度も僕がいるからと繰り返し言ってくれる。


「そうとも限らないだろう? 常識ってのはすぐに形を変える」


 足音が聞こえて、ゆっくりと腕をずらすと、海側から誰かが歩いてくる。

 

「味方が命を奪おうとして、敵がそれを防いだ。 そんなこともある世の中なんだ。 天盤の支配者だって、明日、誰が成り代わるかわからない。 僕がこうして歩いて、新に逢いに来ることだってできちゃう。 何が起こるかわからないから、面白いのだろう?」


 背格好は俺と変わらない。

 品の良い優し気なたれ目の少年がこちらを見ている。

 柔らかな巻き毛に線の細い肢体。

 全身白装束だが、それがやけに美しい。

 高階恒、俺の兄だ。


「恒!」


 彼はにっこりと笑んで、うんと一つうなずいた。

「僕が一番に駆け付ける手はずだったのだけど、遅れてしまった」

「体の具合は?」

「この通りだ。 心配いらない。 そもそも、封印を解けば問題なかったのだけれど、解いてはいけない理由があった。 ごめんね、新がずっと悩んでいたのはわかっていたのに言えなかった」

 なるほど怪我が治らないなんてことは口実だったのかと俺は体中の力がぬけてしまった。何十年も背負ってきた重荷があっけなく取り去られてみると、急激な安堵と緊張の糸が切れた音がした。

 身体の力が抜けきった俺は恒が元気に歩いている姿を見られたのがただうれしくて、自然と笑みがこぼれた。

「ちょっとちょっと! 敵と認識しなくてよいのかしら? ほら、見てよ。 僕、白装束よ?」

 ニコニコの星の人は変わっていない。

 すぐそばに膝をついてくれて、俺の頬に手を伸ばしてくれる。

 この手のどこが敵だと言うのかわからない。

「恒が敵なら、俺、諦めて死ねるわ」

 なんだそれはと恒がくったくなく笑った。

「突然のご訪問の挨拶が遅れたな」

 時生の方へと振り返って、恒がっゆったりとした動作で頭を下げた。


「約束を果たしてくださったこと、感謝いたします。 僕の主からの伝言です」


 時生はうんと小さく頷いてから、こちらこそと頭を下げた。


「そちらが先に約束を果たしてくださった。 ようやくお返しできた」


 恒はにこりと笑んで、もう一度、大きくうなずいた。

 

「約定のすべてがこれで最終になります。 僕の主は頭を悩ませているようですが、貴方はどうされるのですか?」


 恒の質問に、時生が渋い表情を浮かべ、目を伏せた。


「僕も頭を悩ませているところだよ。 八百長もここまで来たらさすがに天は赦さないみたいで、実のところ、僕はもう選定者ではない。 さらには、君の主と約定をたてたものもこちらにはもういない」


 だからと、時生は急いで静にと恒に手紙を差し出した。


「新しい月の主はそれほどに難しい方ですか?」


 時生は難しいというよりも、『本物』だとつぶやいた。

 そのつぶやきが恒の纏っている空気を一気に凍り付かせた。

 だから、静に急いでこれをと時生は恒を急かした。


「新、頼むから今は何も成してくれるなよ」


 急に振り返った恒が別人に見えて、その目が怖いとはじめて思いった。

 俺は無意識に身構えている自分に気が付き、次いで、『同じ側ではない』ということが何を意味するのかを思い知った。

 魂に刻まれている優先順位が、すべてを狂わせる。

 殺気だ。恒はこちらへ殺気を向けている。

 目をそらしてはいけない。これがリアルだ。

 その瞬間、真規が俺を覆うようにかぶさり、洞窟中を爆風が吹き荒れた。

 洞窟の壁が崩れ落ち、飛び散った硬質な礫がこちらに向かってくる。

 真規が背中でそれを受け止めてくれているのがわかり、俺は真規の名を呼ぶが、真規は絶対に動かないと怒鳴り、そのままで耐えている。


「う~ん、時生さんは現行犯逮捕だね」


 逃げ隠れしないでおくれよと軽やかな男性の声が聞こえて、俺達へむけられていたはずの向かい風に逆風が吹く。それも圧倒的な威力を持った逆風だ。

 岩の礫が一斉に俺達ではなく、海側へ、恒へと向かっていく。

 頭もとに誰かが降り立った足音が聞こえ、柔らかな花の香がした。

 真規がゆっくりと身体を起こして、声の方へと深く頭を下げている。

 わずかなあかりでもそれが黒と白の長羽織だとわかった。

 ふわりと温かで柔らかな風が俺を包み込み、ここが安全地帯となったことを身体の奥深くにある核のようなところに知らせてくれた。


「逃がしたか。 連絡役と僕もしっかり接触したかったのに、残念だよ」


 宗像貴一はゆっくりとしゃがみ込むと、俺の顔を覗き込んだ。よし、無事だねとにこりと笑ってから、俺の額を指先ではじいた。

「新、自分から物事をややこしくするのはやめような。 好きは好きで良いし、信じたいものはそのままで良い。 誰かを痛めつけるような慣例も常識もどうだって良い。 僕はね、何より予定調和っていうのが嫌いなんだ。 さて、どうして欲しい? 僕は頭から尻尾の先まで丸飲みするのも悪くないと思うけれど?」

「何を飲み込むの?」

「常に味方だけが正しいということもないだろうし、白黒つけるのだけが勝負じゃないからね。 まぁ、僕の存在に気づき、襲ってくる強気の連中を飲み込むのはお腹壊しちゃいそうだけどね」

 よいしょっと立ち上がった貴一はパチンと指を鳴らした。


「時生さんの処遇は貴方にお任せします。 どうぞ、ご自由に」


 小さな風が巻き起こり、その場に現れたのは志貴と一心だ。

 一心があきれ顔で時生に近づくと、後ろ手に両腕を縛り上げた。


「こうなるとわかっていてやったんだろう?」


 時生は困ったように笑って、だって仕方ないじゃないかと言った。

 どんだけ阿呆なのかとつぶやいた一心に時生がふっと笑った。


「これが万葉の残した最後の約定だった。 古い約定は果たしきって手放すのが良いのはわかっている。 だが、万葉の防御壁はゼロになり、これで真に丸裸だ」


 時生の口からこぼれた『万葉』という名前に貴一が眉をひそめた。


「貴一、君も存分に知っていると思うけれど、宗像万葉は悪魔の優れ者でね。 悪なのに、善だ。 裁こうとしても、裁かせない。 僕らが廃した宗像最凶の男は、死しても尚、残党狩りをしなくちゃならいほどの崇拝者を抱えている。 その万葉と肩を並べるほどの輩が静だ。 静は若宮直人の飼い主でもある。 万葉と静の間で交わされた不可侵の約定こそが黄泉には手を出さないというものだった。 つまり、この第11番目の天盤への支配権を放棄してくれていたというわけだ。 だが、約定を整えた万葉はもういない。 意味がわかるね?」


「アイツの言葉通りってわけか。 宗像は滅びるぞ、か……」


 険しい表情をしたと思ったのに、貴一はにいっと笑みを浮かべた。

 落ち込むつもりはないよと彼はさてどうするかねと小首を傾げている。


「それがどうしたって言うんです? 互いに取引をして、優しくしあって、誰も死なずに済んでいましたか? いいや、死にました。 それも大勢が死んで、苦しみ抜いて壊れた者もいた。 それが正解? いやいやいや、ないない!」


 貴一は両手を腰に当てた。

 ふうっと息をはいて、みんな馬鹿なのかと大声をあげた。


「天盤は11あるそうですね。 至上の天盤は神の領域で触れられない。 ゆえに、10ある天盤が競い合いの場となる。 太陽紋が掲げられているのが8つもあるのに、月紋を掲げているのはわずかに2つ。 至上の天盤に掲げられている紋は数の上で優位である紋が選択されているから、太陽は9つも掲げていることになる。 しかも、わずか2つしかないのに、月はもう一つの紋すら落とした可能性があるときた!」


 そうですよねと貴一が時生のそばにまで足をすすめて笑った。 


「圧倒的な支配を太陽に譲るかわり、月は手が出せる至高の天盤と最下層の天盤を制するという嫌がらせのような選択をした。 どんな取引をして、互いの仲間をどう納得させたのかはわからないけれど! 真の意味での泥仕合を避けてうまくやってきたのでしょうが、天は気づきはじめる。 徐々に選定者の入れ替えが行われ、意志の統一が図れないように突き崩されはじめ、さらに賢い両者は考える。 気づかれたのなら、さらに裏をつけと動くが、支配天盤を入れ替えてまで耐え凌ぐはずがうまくいかない。 特異となる存在が意図せずして彼らの道を阻んだからね」


 僕と君だよと、貴一は俺を指さしてつぶやいた。

 

「僕は意図せずして再生の場である最下層の天盤のすべてをひっくり返してしまえるし、君は本能で至高の天盤の主を入れ替えてしまう。 殊に問題となったのは僕らは太陽にでも、月にでもなれてしまうし、どちらにもならないという選択もできてしまうんだから、邪魔でしかない! というのが、つい最近、得た知識という奴です」


 貴一がふっと笑って見せて、もう一度、時生の方へ振り返った。


「時生さん、本音では、僕にあのまま眠っていてほしかったのでは?」


 時生が勘弁してくれよとつぶやいたが、その目が笑っていなかった。


「おじい様はね、あなたをマークしておけと僕に言いました。 目覚めてすぐの僕に、一番初めに言ったことがそれです」


 油断も隙もないなと時生は苦笑いして、正しいと思うよと付け加えた。


「君のおじい様である宗像泰介と僕、宗像万葉の3名は月の選定者。 高階静、若宮直人が太陽の選定者。 はじまりの黄泉使いの中にこれだけの選定者を抱えれば、問題が起きないはずがない。 泰介は選定者を自ら降りてしまうし、万葉と直人は似た者同士でしかないから二人とも勝ち切ることしか思い描かない。 その上、手の内を知り尽くした者同士が競い合いをするのだから、泥仕合にしかならないことはわかりきっていた。 だから、僕と静が何とかするしかなかった」


 性格的に万葉と直人が手を組むことなどない。だから、静と裏で手を組んだのだと目を伏せた。


「強制参加の天盤争奪だ。 敗れたならその天盤での生存権はない。 見事なまでに首を取られる。 それぞれの天盤にそれぞれの肉体をもつが、斬られる肉体の痛みは本体に必ず届く。 本体がどの天盤に居るかは同士であれ不明だ」


「じゃあ、天盤を抑えている数分、肉体があるということなら、圧倒的に太陽の方が優位ともいえるってことだね。 月は2つの内どちらかをたたけば本物ってことだものね」


 貴一がふむむと腕を組んでうなり、ふと気が付いたようにぼやいた。


「万葉がもう一人いるってこともありうる?」


 すると時生がいいやと首を振った。

 万葉は君が本体を薙ぎ払ったからもういないと言った。

 へぇとどこか信じていないような雰囲気で貴一が俺の元へと戻ってきた。


「僕はとりあえず、万葉がいる前提で動く。 互いに配置された新たなる選定者が誰かは興味はないし、僕が誰かと無理に徒党を組む必要もないですしね。 だって、僕、そこそこに強いので、ここはいっそのこと、好き勝手してみようと思います!」


 ではと、俺の腕をつかみ立たせると、真規に目配せをした。

 何が起こるのかと身構えた俺の視界は暗転した。


『競い合う理由が今一つ要領を得ないので、とりあえず、僕は気に入った奴らと外遊します。 宗像のことで僕が握っていた部門の処理は両親と雅、悠貴に一任しています。 宗像において彼らが決めたことに僕は従う。 彼らの意志が僕の意志ということです。 さて、時生さん、貴方は貴方の役割をひたすらに果たしてください。 僕がいなければなだれ込んできますよ~、冥府の変態ども』


 貴一の声がふわふわして聞こえる。

 情報量が多すぎて、俺の頭はパンクしそうだ。

 身体がふわりと浮いて、誰かに抱き上げられたのだけはわかった。


『月は天盤を選ばない』


 第3勢力となるよと貴一がすぐそばでつぶやいて、俺の意識は完全におちた。


  


  

 




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