第4話 異能という隠し種

「ようやく、お目覚めかい?」


 ほっとしたような真規の声がした。

 目を開けると、うねりを上げる海原が眼下にあった。

 本当の本当にこれが現実なのか。どうしたら、普通の人間が空中に浮いていられるというのだ、と俺は眩暈を感じた。

 風が体のまわりに絡み合うように巻きつき、三人の空中浮遊を支えてくれている。


「あれを見て」


 真規の指す方向へ目をやる。

 波間に見え隠れする大きな黒い翼の残骸。竜の背を思わせるような大蛇の胴の切れ端。ふいに鼻を突く異臭まじりの潮風が、すぐ横を通り過ぎた。反射的に眉をひそめ、眼下の獣の遺体から流れ出るどす黒い流れをみつめた。海面には魚の死骸が無数に浮かんでいる。もう目をそらすことが出来なかった。


「ありえん・・・・・・」


 この言葉は、今の俺の胸の内をわかりやすく表現出来る言葉だった。

 これが紛れもない現実だと認めざるを得ない証拠があった。

 痛覚だ。左上腕に鈍痛がする。

 だらりとたらしたままの腕からは、鮮血が滴り落ち、傷口には紫暗色の鱗のようなものが深々とつき刺さっていた。

 俺はそれを抜き捨て、激痛に唇をかんだ。

 抜き捨てた鱗は落下し、黒い海に飲みこまれた。

 横に目をやると真規の口の端から血がにじんでいるだけでなく、右のこめかみから頬にかけて、血が流れ出している。

「新、じっとしてて」

 真規は自分のネクタイを手際よく外すと、それで傷口をきつくしばっってくれた。

「桂、お前も血がでてるぞ?」

 俺は彼女の額にある傷を指差した。

「新の大量出血にくらべたら私のは問題ない。 ねぇ、新、この状況に至るまで何か覚えてることある?」

「いいや、全く何も覚えていない」

「実は私も何も覚えてない。 真規ちゃんも同じだって」

 3人が3人とも満身創痍な上、全く記憶がないという突発的健忘症に陥っていた。 

 救いようがないとは、まさにこのことだと脱力せざるをえなかった。

「真規、お前も血流れっぱなしやで?」

 俺は真規の前髪を指ですくい上げ、傷口を覗き込んだ。

「たいしたことは無いよ」

「動くなよ。 何か刺さってる」

 俺は小さなこげ茶色の刺を躊躇することなく抜き取った。

 真規はその作業にわずかに顔をしかめ、小さくうめき声をあげた。

「取れた」

「ありがと。 違和感はこれだったのか・・・・・・」

 真規は手渡された棘をいぶかしげに見つめた。

「で、何がどうなったら、こんな勝者の構図ができあがんの?」

「ファンタジー的見解を述べるとするとミラクルなるものが起きたみたいだね」

 真規もさすがに渋い表情で目を伏せる。

 敵は塵か生ゴミ状態で海面を漂っている。

 そして、こうして自分が生きていることからしても、真規の発言に間違いは無さそうだが、どうにも腑に落ちなかった。

 深すぎるため息をついて、俺は目を手で覆った。

 俺の頭の中を駆け巡っているのは封印したはずの忌まわしい記憶だけだ。

 桂は俺が何に落ち込んでいるのかを悟っているに違いない。ぎゃいぎゃいとうるさいはずの桂が何も話さないのがその証拠だ。


「ESPって信じる?」


 真規の唐突な質問だった。真規のすぐ横にいた桂の表情が一気に翳った。

 俺は一も二もなく目を伏せるしかない。

「真規ちゃん、突然、何を言い出すの?」

 桂の言葉がいつになくとげとげしいものとなっていた。まるで、俺をかばうように彼女は真規を睨んでいた。

「ただの質問だよ、桂ちゃん」

 真規の困ったような表情は、いつか鏡の中に俺が見た自分の顔と同じものだった。

 それは独特の疎外感にさいなまれる瞬間の顔だと俺は知っている。

 他人とどこか違うだけで否定される痛みは記憶の奥底に封じ込めたはずなのに、俺の感情を激しく揺さぶる。


「ESP、extrasensory perception。 超感覚的知覚。 既知の感覚受容器を通さずに外界の情報をとらえるとされる現象。 テレパシー・透視・予知などをさす言葉。 例えば、こんな類も入ると思う?」


 真規は天に向かって手を差し伸べた。すると、空は滴を落としはじめた。

 最初は一滴ずつ。やがて、それは無数に連鎖し、白銀の糸を紡ぐ。

 頭上に広がる空に雲などない。まさに晴天、そのものだ。

 雨が降っているのはほんの一部、真規の頭上だけ。

 これを見せ付けられてはどんなマジックもかなうはずがない。

 種のないマジックが、眼前で繰り広げられることを直視する覚悟がまだ足りなかった。俺が目をそらしていることに気がついた真規は雨を瞬時に止めた。

「これを見ても、桂ちゃんは全く驚かないんだね?」

 真規は俺にではなく桂に目を向けた。

「私は知らん」

 彼女は肯定も否定もしない。

「学習済みって感じだね。 桂ちゃん、何を知ってるの?」

「私は知らん」

 桂は俺の表情をチラリと横目で見てから、明後日の方を向いてしまった。

 俺は何も応えることができない。

 心の一部が悲鳴を上げ、著しく俺の記憶をかき乱す。うつむき加減の俺はこぼしそうになった溜息を飲み込む。今は真規とまともに向き合えそうになかった。

「新、できるよね?」

 真規の問いに、俺は短く答えた。

「使わん」

 出来るか、出来ないか、と訊かれたら、俺は出来ると答えるしかない。 

 真規と似通った性質を確かに持っている。

 俺は震えている自分の両腕を眺めた。まだ、怖い。悔しくて仕方がないほどに怖い。情けないと唇の色が変わるほど噛むしかない。

 俺にはまだ克服することの出来ていない傷がある。

 桂が俺の手を握ってくれる。もう良いんだというような昔からの慣れた動作だが、今日は一段と握る力が強い。

「俺は使わん。 もう使わん。 あれはコントロールできんから。 真規みたいに器用にはできん。 もう聞かないでくれ。 ごめん」

 自分の手で自分を拒絶するほどの痛みを知っている俺は、真規に謝る事しか出来なかった。

「何で謝るの? 僕は出来るかと訊いた。 君は使わないと答えた。 それだけの事だろう? もう、忘れてくれ。 僕が悪かった」

 真規が困ったように笑った。たいしたことではない。そんな風に彼は笑い飛ばしてくれた。

「僕たちは俄然肉体派ではない、ただの音楽家だよ。 それで良いじゃないか」

 さらに真規は言葉を続けた。俺を追い詰めないようにと細心の注意を払ってくれている声色だ。真規はいつだってこうだ。

「君は音楽が大好きな、ただのチェリストだよね?」

「俺はただ父さんにやれといわれてはじめたチェロを惰性で続けてるだけで・・・・・・」

 何でそんなことを口にしたのかは自分でもよくわからなかった。

「そうなんだ。 でも、センスがあったのだから、別に良いじゃない?」

 真規は背伸びをしながら、事も無げに言った。

「何が悪いの? 僕は水芸、君は風芸。 オプショナル機能があっただけのこと。 ただそれだけのことだよ」

「風だって、何でわかった?」

「君の周りはいつだって柔らかな空気がまとわりついている。 まるで、君を包み込み、守るように。 幼馴染なんだよ? 当然、知ってるさ」

 俺は思わず、真規の顔を凝視した。

「わからない? 僕がどうしてあそこで君を待っていたのか。 勝機があるとすれば、君の特殊能力にすがる他ない。 逃げている最中でさえ、火災の煙は僕達を避けた。 火の粉でさえも降りかかってこなかった。 視界にすら入ってこない。 正確には君に近づけなかったのだと思うよ」

 俺は彼に言われて初めて気がついた。

 ビルの中は黒煙が充満していてもおかしくない状況だった。壮絶な火災の渦中にあって、その情景をたったの一度も目にしなかった。やはり、自分の特異さを認めなくてはならないのだろうかときつく唇をかんだ。 

「そんなこと、もう本当にどうでも良い」

 桂は真規の言葉をさえぎった。

「桂ちゃん、本当にどうでも良いことなのかな? 新は特別じゃない。 僕や君だってそうだろう?」

 真規の目が鋭くにらみつけ、罰悪そうに桂が顔をそらした。

「隠し事はなしにしよう。 幼馴染の僕が知らないことを、桂ちゃんが知ってるのは正直、ちょっと、いや、かなりイラっとする」

 真規が俺の服の中にいた小次郎の鼻先をちょいちょいと指先でつついている。

「恒が大怪我をして今も療養中なのは知ってるよな?」

 真規がうんとうなずいた。

 恒とは俺の一つ違いの兄の名前だ。

 小さい時から何でもできてしまう兄が大好きで、一緒にいるだけで楽しくて仕方がなかった。その兄を長期療養に追い込んでしまったのはこの俺なのだ。

「恒のは新のせいじゃない!」

 桂が急に口をはさんだ。そうだったよな。こいつもすぐそばに居て、あれを見てしまった。

「新がまだ苦しんでるなんて知ったら、恒が悲しむよ!」

 色が変わるほどに唇をかんで、桂がぽろりと涙をこぼす。

「恒は新のことが大好きなんだから!」

「そんなことはわかってんだよ! 恒は俺を止めようとして、ああなった。 真規、これで十分か?」

 俺がチェロをはじめた理由は一つだ。恒ができなくなったから、それだけだ。

 そもそもチェロをしていたのは高階恒、俺の兄だ。

 俺は10歳のあの日までフルートしか手にしてこなかった。

 あの日、父がこう言った。

 指先の自由が効かなくなった恒のチェロをお前が弾いてやれと。

 父は俺を責めなかった。そのかわりに、チェロを差し出してきたのだ。

 10歳の俺には十分すぎる罰だった。

 もうそこからは地獄でしかなかい日々だ。

 ベッドの上にいる兄は俺を一切責めない。自分ができなくなったのに不満をぶつけてくることもない。ただ兄はニコニコして俺のチェロが好きだと言う。だから、俺はそれにこたえるためにひたすらにチェロを弾いた。そして、今に至る。

「俺のこれは誰も幸せにしない。 だから、父さんの知り合いの精神科医みたいな人に強制催眠みたいな暗示をかけてもらって、闇に葬ったはずだった」

 人生において二度目の発動はないはずだった。

 恒にも二度とこんなことは起こさないって約束したのにと凹むしかない。

 

「どうして話してくれなかった? 新も新だけど、恒も恒だよ。 僕に内緒だなんて。 まぁ、いくら何でもその場にいた桂ちゃんにならまだしも幼馴染であっても話せる内容ではないか。 さらに言うならさ、空中できくお話しでもなかったかもね」


 真規が苦笑いして、俺達の足元を指さした。

 確かに、この状況で話し合いをしている場合ではない。

 透明な何かが足場を作っていて、それがどれほどの長さ維持できるのかもわからない。

「新の本能に救われて、僕らは落下を免れているからね」

 真規が足元を指さして、苦笑いしている。


「ねぇ、新。 その不幸にするらしい力とやらで今回3人はおそらく生還できるわけで、とりあえず、しーちゃんところに戻ってみない?」


 そうは言っても、どうすべきかわからない。

 俺が二の足を踏んでいると真規がはははと軽やかに笑った。


「簡単さ。 陸に着地する。 それからしーちゃんのところへ戻り、傷口の応急処置。 あっ、シャワーもね。 やってみよう! 海の上ってのは僕にとってはイジメに近いからね」


 無自覚に使ったものを意識して使うとなると別物だ。

 何よりも俺自身が意図して使うことに怯えている以上、簡単な話ではない。

 実に情けない動きが空中で繰り広げられはじめていた。

 まるで新米宇宙飛行士の訓練のように一歩踏み出し、景色が反転、体勢を立て直しては、反転する。

 滑稽すぎる繰り返しに疲れた頃、足元にアスファルトの道が見えた。

 10mほどあった高度をゆっくりと下げていく。

 さらに神経をはりつめ、集中する。まずは9mに三人はゆっくりと挑む。

 8m、7m、6m、5m、4m、3m。

 後少しだと気がはやる俺は体勢を崩しかけた。

 2m、1m。

 靴の裏に硬質の感触が届いた。


「何とかなった……」


 言葉を吐きながら、猛スピードでうちつづけている鼓動を鎮めようと俺は躍起になった。海浜公園の海端にある柵に背を預けて、三人そろって空を見上げた。

 曇り一つない蒼い空。

 不思議と愉快な気分になった。知らず知らずに笑みがこぼれる。

 どちらからともなく、お疲れ様、とねぎらいの言葉が漏れた。

 隣り合わせに座っていた真規と俺は、唐突にハイタッチした。この行動に意味はない。だけど、幼馴染とはこんなものだ。


「僕等はちょっと変わってはいるけれど異端ってわけじゃない。 世界を滅ぼしてやるぞだなんてどこかの変わった新興宗教の教祖になるわけでもない。 普通に息をしているだけの人間なのだから、当たり前のことをすれば良いだけだよ、新」


 真規が綺麗に笑った。

 海外の空港で、こいつと並んで立っていると、カップルかと聞かれることが多い。

 身長差で俺が彼女と間違われるのだ。外国の方からみたら、日本人はひどく童顔にみえるらしく、真規に君の彼女は何歳と質問してくる始末だ。

 180㎝後半ある真規がバイオリンケースを持っている麗しき彼氏扱いで、その横に170㎝の俺が彼女扱いでチェロのケースを持って立つ絵面にはマネージャーは金の匂いしかせんと笑うのだ。


「真規は取材ラッシュは済んだのか?」


 真規はふうっと息を吐いて、グッドサインを出した。

 バイオリンをしていなければ、俳優やらモデルやらが舞い込んできてもおかしくない容姿だから、日本のメディアが彼を放置するわけがない。


「新が断った分まで全部流れてきたんだから、何かおごってくれよ?」


 知ってやがったのかと俺が眉をよせると、真規が片眉だけ持ち上げてこちらを見ている。

 真規のマネージャーもまた、同じあの守銭奴なのだ。俺が捨てた仕事は必ずと言っても良いほどに真規で補おうとすることはわかっていた。

 何をたかられても、こればっかりは致し方ないので、俺はわかったよと答えるだけだ。

 俺の様子に満足したのか、真規がすぐ隣で声を上げて笑った。

 俺は手でわずかに日陰を作りながら苦笑する。


「昔から、新は陽が落ちた後の月明かりの方が好きだよね。 太陽は嫌い?」


 真規はごろりと両手を広げたまま寝転んだ。


「太陽は苦手だ。 俺は根暗だからな」


 俺はその横で頬を撫でる風にゆっくりと目を閉じた。

 小次郎が胸元から顔を出して、ひょいっと肩の上にあがった。

 俺は小次郎のぬれた毛並みを指でなでながら、何故か無性に恒に会いたくなった。




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