6. Past and Present

 文化と芸能の街、ウエストエンド。

 その一角に、ロンドンの中心のひとつとされる場所がある。それが、ウェストミンスターにある、レスター・スクウェアだ。正方形の形をした広場がスクウェアと呼ばれる所以だが、その周辺一帯も含めてこの名で呼ばれることもある。


 ロンドンの中心部と呼ばれるのは、この場所を中心とした東西南北にそれぞれ、コヴェント・ガーデン、ピカデリー・サーカス、トラファルガー広場、ケンブリッジ・サーカスといった名所がずらりと軒を連ねていることにある。近くにはヨーロッパ最大級の中華街まで存在し、歩行者専用であるこの広場は常に人の往来が激しいことでも有名だ。


 人混みにうんざりする気持ちを抑えながら、アーロンはレスター・スクウェアを中心に、商売道具である一眼レフカメラを首から引っ提げて歩きまわっていた。屋台で買ったホットドッグを片手に、テレビで見るような有名人や俳優が現れやすいレストランや劇場をまわり張りこんでみたものの、結局大した成果は得られなかった。


 ゴシップ担当はこれだから面倒だ。一応会社に属しているとはいえ、そこらのパパラッチと大して変わらない。

 ひとつネタを仕入れればしばらく安泰だが、その蓄えがなくなると上司からひどくせっつかれる。フリーのほうが気楽なのだろうとは思うが、フリーでやっていけるほどのコミュニケーション能力も人脈もない。ネイサンのような男なら、あれこれ頭を悩ませることなく、なんでもそつなくこなしてしまうのだろうが。


 余計なことを考えながらぼんやりとカメラを構えていると、さっき見た白昼夢が嫌でも脳裏に滲んできた。


 夢の中の彼女は、決まって元気な姿で現れる。

 そして、胸に孔の開いた姿で愛を囁きながら、人の形を保てなくなって崩壊していく。視界が暗闇で閉ざされ、耐えられない息苦しさの中で目を覚ます。


 何度、おなじような夢を見てきたかわからない。それなのに、いつも夢の中の自分は夢だということに気づかない。彼女の胸に孔が開き、絶叫した瞬間に現実を悟る。

 おなじことの繰り返し。

 彼女がもうこの世にいないことは、誰よりも認識しているにもかかわらず。

 甘い夢に騙されるたびに、夢に縋ろうとしていた自分に苛立ちを覚え、そのたびに、怨嗟の念が澱のように溜まっていくのを感じていた。


 あの夢のことを考える。

 改めてそれがとてつもなく無為なことに思え、アーロンは振り払うように頭を振った。

 仕事に意識だけでも向けるため、被写体がないにもかかわらずカメラを覗きこむ。

 レンズ越しに見た街の喧騒は、がくの中に入った絵を見ているようで、自分だけが世界から弾きだされているような気がした。


 仕事という名目で、仕方なく苦手な人混みの中心までやってきて、結局なんの収穫も得られずに終わった。徒労のあとはなにもやる気がなくなる。特大ネタを持って帰らねばまずいことになるという、切羽詰まった状況に置かれているとわかっていても、だ。


 これで肩越しに浮かぶ黒い本ザミュエルがいつもの調子で弁舌を振りまわしていたなら自棄やけになっていたこと間違いないが、幸いそういうことはなかった。人が多い場所になると人間観察に没頭してしまうようで、おもしろそうなものを見つけてはアーロンから離れたところをふらふらと浮遊してひとり遊んでいる。

 ザミュエルが見つけるものが文芸部の記事になればまだ連れ歩く意味もあるというものだが、人間の醜悪な感情を活動の源にしているようなあの本が目をつけるものなど犬の餌にもならない。


 食べ終わったホットドッグの紙袋を丸めて道端のゴミ箱に投げ入れ、カメラをウエストポーチに片付ける。


(切り札を出すしかないか)


 決断してからは早かった。

 バイクにまたがり、フリート・ストリートにあるザ・タラリアまで戻る。

 おっかなびっくりではなく、堂々と帰社したことが功を奏したのか、忙しそうにしている編集長は戻ってきたアーロンに大きな反応を示さなかった。


 アーロンは自分のデスクの引きだしから、記事用のテンプレートと一枚の写真を取りだした。アッシュブラウンの髪とハシバミ色の瞳をした、ドレス姿の美しい女性が写っている写真だ。


 出版に関わっている部署のひとつである文化芸能部は、取材や編集などさまざまな仕事に従事する人間が集まっている。そのため、皆の勤労ペースは十人十色だ。ほとんど内勤で終わる人もいれば、アーロンのように外勤に多くの時間を割く人もいる。外で仕事をしていればそれでいいというなら楽なのだが、いくら取材が主だった仕事とはいえ、草稿くらいは書かないと話にならない。気は進まないが、今日中に草稿を書き終えなければ窓際すらも追いやられるだろう。


 定時を過ぎると、仕事の早い同僚から順番に退勤しはじめる。

 ロンドン市民がアフタヌーンティーで一息ついている頃はまだ外にいたため仕方ないが、周りが仕事を終え帰宅しはじめる中、記事を書く作業がはじまったばかりという状況は、もともと毛ほどもないやる気をさらに削いだ。ひとり、またひとりとフロアから人が姿を消す中、黒い本がつまらなそうに悪態をつく。ガッ、とデスクの引き出しを開け威嚇すると、昨晩の折檻を思いだしたのかおとなしくなった。


 いつのまにか天井の照明は落とされ、文芸部のフロアは暗がりが広がっていた。その隅で一席だけ、卓上ライトに照らされぼんやりと浮かびあがっているデスクがある。


 ボキボキと背中を鳴らしながら、アーロンは眉間を揉んだ。


 ずっと椅子に座っていると、身体の節々が悲鳴をあげはじめる。もともと、外を走りまわる仕事が多く、報告書や始末書を書く作業が極めて苦手だったアーロンは、おとなしくデスクワークをこなせる性質たちではなかった。文章を書くのが得意な人と比べると、記事を作る速度も格段に遅い。書くべき内容は決まっているのに、それを形にするのに時間がかかってしまう。


 いつまで経っても慣れない作業に四苦八苦しているアーロンの耳に、カツカツと軽快な足音が届いた。思わず、音のする方向へ顔をあげる。


 フロアの奥から、スラリとした長身の人物が顔を覗かせた。先端が青色の髪を側頭部に流したサイドモヒカンと、濃い青のアイシャドウ、藍色の口紅が目を引く色黒の人物だ。おまけに黒に近いほど濃い藍色のサテン生地のワイシャツに、竜胆のような薄い青紫のヒール、ネイルまで空色のマニキュアが施されている。パンツだけは生成りのスキニーデニムだったが、ほとんど青一色だ。


「まだ残ってたのね」


 その人物は、呆れたようにほほえんで、艶のある藍色の唇を揺らした。暗がりでもわかるほどきめの細かい健康的な黒肌は、どれだけこまめで丁寧なケアがされているのか想像もつかない。


「部長」


 今日も青か、と思いながら、アーロンは小さく頭を下げた。


 社会部や文化芸能部など、出版に関する部署は編集や取材など様々な仕事に従事する人間が集まっている。タラリアにおいては、それら全てをまとめあげるトップが部長であり、その下に編集長、取材室長などの役職が存在する。

 アーロンの目の前に現れたこの人は、弱冠三十代で室長の座にのぼりつめた人物で、現在は取材室長も兼任している逸材だ。


「部長も残業か」

「えぇ、ちょっと昼間の会議が紛糾してね。ほかの仕事が遅れて、こんな時間になっちゃったわ」

「はぁ、そうなのか。大変だな」

「大変よ。いつもなら当たり障りのないことを言ってるだけだけどね。それで、あなたは? こんな時間まで残ってるなんて、珍しいじゃない」


 そう言って、部長は対面のデスクに腰掛けた。アーロンのデスクを覗きこみ、手もとにある写真と書いている記事に目を通す。


「あら、またネルの記事? 本当に大好きね」

「べつに好きで書いてるんじゃねぇ」

「あなたの生計はあのが立てているみたいなものでしょう。きちんと埋め合わせしておきなさいよ」


 私のフォローにも限界があるんだから、と部長は口を尖らせた。そして〝そういえば〟と声をあげる。


「最近あなたが来てくれないって嘆いてたわよ。彼が」

「頼みごとか?」

「それは知らないけれど。たまには普通のお客さんとして来てほしいんじゃないかしら」


 少しは顔を出してあげなさい、と部長はひらりと手を振って、フロアの奥にある部長室へ引っこんでいった。


「そういうタイプの人には見えねぇけどなぁ……」


 残されたアーロンはそうひとりごちて、改めて手もとに目を落とした。


 なんとか雑誌用の記事が形になったのは、二十時を過ぎたころだった。

 口うるさい編集長のデスクに草稿を放り投げて、帰宅の準備をはじめる。あとは編集の仕事だ。あさっての発売日には間に合うだろう。

 気が抜けると、疲れと空腹が一気に押し寄せてきた。悪魔の唸り声のような音が腹から響く。椅子にかけていた臙脂のレザージャケットを羽織って、さっさと文芸部のフロアをあとにした。


 タワーハムレッツ区内の、ラットクリフにあるアパートに帰ってきたのは、二十二時をまわったころだった。職場近くの大衆酒場パブで遅めの夕食を摂り、多めに注文して余ったぶんは明日の朝食用に持って帰ってきた。

 気だるさで重い身体を引きずって、アパートの自室に戻る。鍵を開け、扉を引く。そのまま自室に立ち入ったアーロンの目が点になった。


「な、なっ……!」


 床に散乱していたはずの衣類は消え失せ、酒瓶であふれていたテーブルはなにひとつ物が置かれておらず、ゴミ置き場と化しているキッチンにまとめていたゴミ袋の山も綺麗に片付けられていた。


 まるで新居。


 ネズミの巣窟にでもなっていそうだった今朝の部屋とは雲泥の差。

 慌てて部屋を飛びだし、扉の部屋番号を確認する。間違いなく自分の部屋だ。そもそも鍵を開けて入った。間違っているはずがない。


「あんのクソババァぁあああ!!」


 咆哮ひとつ轟かせて、アーロンはアパートの階段を駆けあがった。目指すは最上階にある、管理人の部屋。


「おいババア開けろ!」


 ノックというより殴打の勢いでドアを叩き、恫喝同然の言葉を張りあげる。周囲の迷惑など一切考慮していない行動だったが、そのおかげか、すぐにひとりの老婆がドアを開け出てきた。


「なんだい騒々しい。あたしゃもう寝るところなんだよ!」

「テメェ、また勝手に俺の部屋入りやがったな!」

「きったない部屋を無償で掃除してあげたんだ、礼は言われても怒鳴られる筋合いはないね! それともなんだい、後払いでもしてくれるのかい!? そうじゃないなら失せな! まったく、家賃割り増しにしてやりたいくらいだよ!」


 そう、部屋があり得ないほどの変貌を遂げたのは、これがはじめてではなかった。はじめてのときは、まず警察を呼んだくらいだ。騒ぎに顔を覗かせた大家の老婆が立ち入ったと打ち明け、盗られたものもなかったことから事件にはならなかった過去があった。


「だから頼んでねぇって言ってるだろうが!」

「あんな部屋で生活してたら病気になっちまうよ! それにあのままじゃ部屋が腐る! そんな部屋誰も入居してくれないよ! そうなったらどう責任とってくれるんだい! 入られたくないなら自分でちゃんと掃除しな!」


 バタンッ!


 アーロンの怒声に少しも怯まず、老婆は言うだけ言って扉を閉めた。

 廊下には、呆然とたたずむアーロンだけが残される。しかしすぐに我に返り、悪態をつきながら自室に戻った。


 部屋に立ち入りその内装が目に入った瞬間、ビクリと身を震わせた。

 自分の部屋だと思えない。

 そういえば前も、しばらく居心地の悪さに苛まれながら生活したことを思いだす。そして、この部屋が世界一美しかった日々のことも。


『あのバーサン、本当に元気だな。慰めてやるぜアーロン、あれを言い負かすのはオレでも骨が折れそうだ』


 くるくると部屋をまわりながら、ザミュエルが口をひらいた。後ろをついてきてはいなかったはずだが、この様子だと階下までふたりの怒声が響いていたらしい。沸騰した反動か、アーロンには言い返す気力も残っていなかった。


「だぁクソ、テキトーにしまいやがって」


 ハサミ、爪切り、買い置きのタバコの箱に予備のライター。

 小物の配置が全て変わっていたせいで、終始アーロンは部屋の中をうろついてばかりだった。失くしてしまいそうな雑な場所に置いてあっても、家主にとっては記憶している配置だったりするものだ。それが全て変わってしまっているとなると、ややこしいことこのうえない。仕事は家に持ちこまない主義のため、失くして困るようなものは特にないが、これでは気が休まらなかった。


 窓際にまとめて放置され葉にホコリが積もっていた観葉植物も掃除と水やりをしてもらったらしく、心なしかいきいきと葉を伸ばしているように見える。

 アーロンに植物を育てる趣味はない。これは、過去の幸せの遺物だ。自らがいたずらに時を過ごし朽ちていく中、この部屋だけが幸せだった過去に立ち返ったようだった。


 だが、それは虚像だ。

 見かけだけ綺麗になっても、幸福はすでにこの部屋から失われている。


 眉間に力がこもる。

 無意識に奥歯を噛む。

 過去からも、現在からも弾きだされているような妙な感覚に陥った。

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