第10話

 正面に座る頭領。藤間薫。この人と対面するのも何度目になるだろう。一度目は何も知らなかった。二度目は、この世界に恐怖を感じた後だった。そして三度目。今日は、彼に質問があってここにいる。自ら望んでこの人の前に来るのは初めてだった。


「先日は相談役の我が父が失礼したようだね」


 若き頭領はそう口にする。

 当人である藤間紋一郎はここにはいない。存分に疑問を晴らせということなのか、彼自身思惑があってのことなのか、誠二にはわからない。でも、紋一郎と薫は別の考えで動いていることはわかった。薫の目が誠実であったから。紋一郎の利用しようという目ではない。


「木原真一のこと、誠二くん父と綾香からどこまで聞いたのかな。私に話せることは君に伝えよう。それが、現世に残された真一の家族に対して、私たちからできることだから」


 どこまでも真摯な態度に、やはりこの人は信頼できる人だと思った。


「俺は……、兄のことをもっと知りたいです。兄が行方不明になってから、今日までどうやって過ごしてきたのか。今、何をしているのか。ずっと知りたいと思っていました」


 空白の十年間。家族が傷を癒やすのにかかった時間。見つからない人間を求める、出口のない迷路。見えた光に影があったとしても。

綾香は、真一との思い出を語ってくれたが、その間誠二は違和感を持っていた。彼女は決して今の真一の状況を伝えようとはしなかった。


 しなかったのではなく、できなかったのだとしたら?


 背中を冷たい手が撫でるような感覚をずっと持っていた。それが現実なのだとしたら?

 それでも知りたい。


「その目は……。いや、言うまでもないんだね」


 薫は頭を振った。そうしてまた口を開く。


「本当はここで、こう言おうと思っていたんだ。『君は、見たくない現実を見るかもしれない。今なら引き返すことができるよ』って。でも、それは君の気持ちをくみ取れていない言葉だったね。真一について、全部話すよ。それが誠二くんの求めていない答えでも」


 薫はそう言うと、困ったように笑った。


「君たちは似ているね。真一に彼の体質のことを話したとき、真一も同じ表情をしたんだ。懐かしいよ」

「現世に帰れない原因、ですよね」

「うん、そう。最初から話そうか。綾香には話せないこともあったろうから。十年前の話だ。そして、今のことも」


 頭領の顔をして、かっちりと正座していた薫は、足を崩して胡座をかいた。長い話になる、と前置きして。


「十年前、真一は現世で行方不明になり、ハザマに落ちてきた。そこまでは、少し前の君の状況と同じだね。でも、真一が違っていたのは、彼が直接ハザマに落ちたのではなく、もう一つ別の世界『常夜』に落ちたことだ」


 誠二は最初の頃に聞いた、三つの世界のことを思い出した。現世、常夜、そしてその間にあるハザマ。


「常夜……」

「常夜の世界は、文字通りの夜の世界、そして、魔物が身を潜める世界だ。常夜に落ちた者は、人間ではなくなる」

「どういうことですか?」


「常夜は人の住める世界ではないんだよ。人が踏みいればたちまち魔物に食われるか、『夜』に浸食されて、魔物に近い存在になってしまう。そういう怖いところだ」

「じゃあ兄は……」

「でも彼は幸運なことに、ある体質を持っていた。我々は、その体質の者のことを『夜呼者(やこもの)』と呼んでいる。夜呼者は常夜の環境に常人以上に耐性があり、少しなら常夜の環境下で活動ができるけれど、魔物に狙われやすい。だから、夜を呼ぶと書いて『夜呼者』。複雑になるが、真一は、現世から一度常夜に落ち、ハザマにやってきたんだ」


「それがどうして、現世に帰れないことになるんでしょう」

「言っただろう? 常夜に踏み入れた者は、夜に浸食されて魔物に近い存在になると。常夜に耐性があった真一は魔物にこそならなかったが、その本来の体質である魔物を引き寄せる特性は、強化されてしまった。現世に帰れば、彼は現世と常夜をつなぐ存在になりかねない」


「そんな」

「だから現世には帰れない。いくら周りが願っても、本人が願っても。双方の世界にとって、とても危険なことだから」


 思わず顔をしかめてしまう。

 それを薫は見ていたが、自分が痛いところでもあるかのように、くしゃっと顔を歪めた。


「あいつはいつも帰りたがってたよ。口には出さないけど、にはわかるんだ」


 ここにいるときの兄は、どのような表情をしていたんだろう。

 会いたい。


「今は、どうしているんでしょう」


 薫は頭を振る。


「ここにはいない。その話もしないとね。さて、どこから話したものか」


 薫は一度立ち上がると、右側の壁に手をかけ、横に引いた。壁だと思っていたそこは引き戸になっていて、猫の額ほどの小さな中庭に面していた。

 薄暗かった室内に自然の光が入る。


「ハザマに落ちて、帰れないとわかって、真一は自分のできることを探し始めたよ。できることは何でも試していたんじゃないかな。そのうち、術にも興味を示して、これが意外と才能があったようで、めきめき上達して。いつの間にか、俺たちにとってなくてはならない存在になった」


 舞い込む少し肌寒い風が頬を撫でる。

 聞けば、バランサーの使う術は、簡単なものであれば誰にでも使えるようになるのだそうだ。必要なのは、本人の才能と、努力。


「でもやっぱりどこかで寂しさはあったんだろうね。一匹の式を作り出した」


 誠二のぐっと握りこんだ手の甲に、柔らかくて温かい感触がした。

 ぽん太だ。愛嬌のある小さな狸が、眉を下げて誠二を見上げていた。左手で頭を撫でると、きゅっと目を瞑る仕草がかわいらしい。


 そうか、この式は兄の。

 薫がうなずく。


 不意に気付いてしまった。ぽん太はあのときなんと言っていたっけ。案内してくれた弓道場で、さみしそうな顔をして。誠二は『戻ってくるといいね』と、そう声をかけたはずだ。


「そして約半年前、強力な魔物に取り込まれ、真一は行方不明になった」


 そうだ。

 ようやくつかめた兄の所在は、霞に巻かれるようにつかめなくなった。

 心臓がどくどくとうるさいくらい鳴っている。耳の近くにあるみたいに。

 反して、指先は冷たくなる。

 強ばる左手を、ぽん太がそっと温めた。


「でも真一はまだ生きている。それを彼の式であるぽん太が証明している。俺たちはまだ、希望を捨ててないよ」

「そう、ですよね」


 式は術者自身が消すか、死なない限り消えない。ぽん太がこうしてここにいる限り、兄はどこかで生きているということだ。


「あの、兄さんを取り込んだ魔物というのは……」

「誠二くんを襲った魔物を覚えているかい?」


 覚えていないはずがない。結界を切り裂いて、侵入してきた魔物を、今も脳裏に思い浮かべることができる。

 薫はうなずいた。

 あの魔物こそが、真一を取り込んだ魔物であると、そう口にする代わりに。

 いつか、薫はあの魔物とは因縁があると言っていた。それはそういう意味かと、ようやく理解する。そして、自分にとっても。誠二を襲った魔物というだけでなく、兄を取り込んだ魔物であったのだと。


 部屋に落ちた沈黙は、午後の木漏れ日に消えていく。中庭を見ていた薫が、顔をこちらに向けた。


「俺たちは必ず真一を取り戻す」


 強い意志の籠もった瞳に、誠二は圧倒された。自分にそこまでの意思はあるだろうか。誠二は血のつながった兄弟だが、彼らは違う。違うけれど、十年で培った仲間意識はとても強い。綾香も真一のことを、もう一人の兄のように思っていると言っていた。

 誠二の知らない時間がそこにあることに、みぞおちがぎゅっとなる。


 うらやましい。


 でも、兄に会いたいのは自分も同じだと思った。彼らの絆が共にいた時間なら、誠二と真一の絆は、兄弟であることだ。

 兄を探した十年間。手がかりすらなかったことを思えば、希望はあると思った。


「誠二くんを危険な目には、合わせないよ。真一は、俺たちの手で……」

「俺も、役に立てませんか?」


 誠二は、薫の言葉を遮ってそういった。

 薫が目を丸くする。


「俺だって、兄さんに帰ってきてほしい」

「それは……」

「あなたがたが、兄さんを思うように、俺もずっと兄さんを探してたんです」

「俺は真一の弟に、危険なことはさせられない。そう、真一と約束した」

「魔物は確かに怖いです。でも、兄さんを取り戻したい心も本物です。もう一度会いたい。そのために、できることをしたい。俺を『囮』に使ってください」


 薫は、顔を歪めた。そう来るとは思ってなかったという顔だ。


「父の提案にのる、と? 父はおそらく君の安全を考慮に入れていないよ? 戦えない君を守る方法も考えているわけではない」

「しかし、それでも利があるから協力を持ちかけてきたんだと思うんです」

「それはこちらの利点であって、誠二くんのじゃない」

「囮になることで、俺も兄に会うという願いを叶えられます」

「……少し、考えさせてくれ」


 薫はそう言って、誠二の退出を促した。

 引き戸に手を伸ばしながら、誠二は薫の方を振り返る。


「あの、一つだけ聞いてもいいですか」

「どうしたの?」

「どうしてちゃんと答えてくれたんですか」

「ちゃんとって?」

「都合よくごまかすこともできましたよね」

「そうだね」

 薫は苦笑して視線を落とす。

「俺がそうしたかったから、かな」



 *


 薫は、約束と自分の感情との間で揺れているのを自覚していた。まさか誠二から、囮に使ってくれという言葉が出るとは思わなかった。


 でも、その原因になんとなく心当たりはある。

 父である藤間紋一郎だ。


 あの厄介な父親は、結果を出すために多少の犠牲ならいとわない。人を駒のように見立て、自軍の犠牲を最小限にしながらも、勝ち筋を見つけたら判断を曲げない。そういう人だ。使命のために自分に厳しく責務を課し、それを実行し続ける。


 だから頭領としては一流だ。

 そんな父親が、どうして若い薫に頭領の立場を譲ったのかは、薫の最大の謎だ。

 薫はため息をついた。


 でも結局、薫も頭領としての自分を捨てきれない。友との約束を抱えながらも、頭は冷静に『誠二を囮にすればどのような作戦が立てられるか』を組み立て始めている。魔物をおびき寄せる方法、弱らせるにはどうすればいいか、今の戦力で最大限発揮できる力はどれくらいか。真一を安全に救い出すには、どのような方法をとるのが確実か。その後の魔物の討伐方法、時間。作戦実行の場所、バランサーの位置取り。

 まずは今の魔物の力を予測して……と考え始めたところで、薫はその思考を一旦ストップした。


 関係のない人間を巻き込むのか?

 だが、魔物の討伐は必要だ。

 誠二くんは、真一の弟だぞ。

 でも、彼の決意は見て取れた。

 親友との約束を破るつもりか。


 破りたくはない、それでも取り戻したい。真一を取り戻すことは、夜呼者から力を得ようとしている魔物をこれ以上強力にしないためにも必要だ。これは、バランサーとしても必要な決断だ。


 心に浮かんで消えていく考えは、まるで言い訳のようだ。たぶん、どれだけ考えても自分の行動をただ一つの方向へ導こうとしている。

 結局、薫は真一を救いたいのだ。


 魔物を討伐する目的も、その延長線上に過ぎない。

 すべての答えを出し尽くしたころ、薫は大きく深呼吸した。


「やってやるさ」

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