大人には大人の事情があって。それはどうしても譲れないものだったりする。

 さすがに何日も連続で姫蘭の家にお邪魔するわけにはいかない。正直、量さんと顔を合わせるのは気まずさを感じる部分があるが、二人と話して固まった決意を伝えるべきだ。


 重い足取りを引きずるように見慣れたマンションの前に立つ。

 深く息を吸ってエレベーターを待つ。予想よりも早く上まで登り切ったかと思うと、玄関の前で一人の男性が立っていた。いうまでもなく量さんだ。逆光で顔は見えない。


「……」

「量さん。いろいろとすみませんでした!!」


 彼の前に立って頭を下げる。けれど何も言ってくれない。無言のまま玄関の扉を開けると中に入るように促された。


「どこにいってた?」

「姫蘭の家に泊まりました。高校の友達の光も一緒に。」


 テーブルに座ると開口一番聞かれた。一応、外泊することは白鯨さんを通じて伝わっているはずだ。それでも、私の口から聞きたかったのだろう。


「悠は、なぜ自分のために頑張るのかと聞いたな。」


 分からなかったからだ。私のような非合理な女のために動くだけの合理的な理由が考えられない。『大人』と『子ども』の違いを教わらなかった私には、彼の言う理由が理解できなかったからだ。


「俺は、君のためならいくらでも自分を犠牲にできる。どれだけ辛くても、悠が家で待っててくれるだけで、それだけで十分なんだ。君が教えてくれた愛情を、君からの愛情を感じられれば。」

「私の愛情が、何の役に立つんですか!?」


 どうしてこの人は、非合理を許容するのか。私を受け入れようとするのか。

 なぜ?なぜ?どうして?


「私は、理由がないなんてことが納得できないんです。非合理で動く人を知らなかったから。」


 私の知っている大人は全員が合理的で、理性的で、あの人父親この人量さんもそうであるはずだった。けれど、変わってしまった。私が変えてしまった。


 そんなこと許されるはずもない。


「私なんかのために傷つかないでください。貴方がつらそうな顔をしていると、私も辛い……。」


 この人がストレスに押しつぶされそうで、どうしようもないとき。私は彼のそばにいてあげられない。そのことがたまらなく苦しくて。


「悠に、何かしてほしい訳じゃないんだよ。俺は、君と一緒に暮らしたいんだ。」

「どうして……?」

「悠のそばにいると、知らない景色が見えて。見ようとしなかった世界が見えるんだ。全部悠がくれた物なんだ。だから、今度は俺が返す番なんだ。いつか必ず……。」


 私の手を取って握りしめる。男らしいゴツゴツとした手なのに、暖かくて優しい。

 まっすぐ私を見る目は、曇り一つない純粋な眼。私を大切だという純真な気持ちを向けられる。それは、誰にも教わったことがない初めての感情。

 知らない感情を向けられているはずなのに、なぜか嫌じゃない。


 怖くない。


「でも、量さんが傷つくのは嫌です。だから、そのための方法を考えてきました。……聞いてもらえますか?」

「ああ、もちろん。君の話を聞かせてほしい。」


 私は今まで考えてきたことをぶちまける。

 量さんは、私の言うことを口を挟むことなく最後まで黙って聞いていた。子供の戯言と一蹴することなく。最後まで、真摯に。


「どう……ですか?」

「たしかに、俺はフリーでも食べていけると思う。それは間違いない。」


 納得したように頷くが、どこか引っ掛かりを感じているようだ。

 腕を組んで背を後ろに預けると、かすかに唸り声をあげた。「悪くない考えだ……。」と呟いているが、どうしても受け入れられない点があるらしい。


「俺が会社という立場に拘っているのはな、給料の話だけじゃないんだ。」

「というと?」

「何かあって、俺が働けなくなったとき、会社勤めであればそれなりに保証が出るから、ぎりぎり暮らしていける。けど、フリーだとその辺りの管理は全部自分でやることになるから、いろいろと厳しい部分が出てきちゃうんだ。」


「まぁ、知らないのも無理はないか。」と仕方なさげに呟くが、私は悔しさで唇を噛む。

 社会を知らない子供が口を出していい話ではなかったのだ。いくら非合理を飲み込むとは言え、ハナから成り立っていない合理にかまける人ではない。


 この話はなかったことになるだろう。そう予感していると、不意に量さんのスマホが震えた。

「白鯨……!?こんな時になんだよ。」


『もしもし、我である。今頃泉殿と話をしている頃だろうと思って掛けた。』

「ああ、まさしく真っ最中だよ。何の用だ?」


 量さんは、少し私を一瞥しておそらくかかわりのある話だろうと判断したのか、スピーカーモードに切り替える。

『税金の事とか、社会保障のことで悩んでるのだろう?我もそうだった。』

「あ、やっぱりそうなんですね。」


 私が相談した時には、すでに考えていたのだろう。だからこそ、タイミングを見計らって電話をかけてきたのだ。


『我、実はな。正確なフリーランスで働いてるわけではないんでござるよ。一応、名目上は帝泉グループのエンジニアなんでござる。出社はしないけど。』

「そんなのアリなのか!?」


 帝泉グループと言えば、私の父が社長を務めていた会社であり、大量のパスタを送り付けてきた不思議な会社である。ニュースで見た限りだと、次期社長争いによって経営が安定していないと聞いた。


『あくまで形式的な社員契約でござるから、経営難のあおりは受けなかったでござるが、ちょっと仕事が増えたかなーって感じござるね。まぁそれは置いといて……』


『量殿が嫌でなければ、我と同じ形で就職というのも考えてほしいでござる。歩合制なので給料は安定しないが、最低限の保証はあるでござるから。』


 電話の向こうで姫蘭の声が響く。どうやら、白鯨さんを呼んでいるようで、彼は通話を切ってしまった。ふと、量さんの顔を見てみれば、今までにないぐらいニヤリと笑っていた。


「悠。君の提案、飲み込むことにするよ。」


……to be continued

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