平和に必要なものは愛情である。あとは炭酸水。炭酸水があればたいてい何とかなる。

「なんでお前はこんなくだらないミスをするんだ!!」


 バン!!と紙の束がデスクに叩きつけられ、怒鳴る上司のつばが飛び散る。思わず不快感に顔をゆがめると、そのことがまた彼の神経を逆なでして「おい!!聞いてんのか!!」と罵声を浴びせる。


 いつの間にか鞍井が納期を短縮しており、俺に伝えていなかったために先方との取引が破断寸前になったという状況だ。勿論原因は鞍井であるが、この部長にそんな話は通じないし、言ったところでうまくごまかされた俺が怒られるだけだろう。


「大変申し訳ございませんでした。自分の確認不足です。」

「その確認不足のせいで帝泉のおこぼれ逃してたら世話ねえんだよ!!」


 そのおこぼれを必死にかき集めているせいで、社員の負担が大きくなっていることはつゆほども知らないであろう専務が後ろからやってきた。


「やあ、鈴木君。」

「せ、専務!!」


 チラリと一瞥した後、改めて専務にも頭を下げる。俺の安いプライドが傷つく程度いまさら気にするまでもない。

「とりあえず、彼のことはこちらで指導するから。通常業務に戻ってくれたまえ。」

「はい!かしこまりました。」


 専務の後ろについて行き、専務室に入っていく。

 部屋の中央に置かれたテーブルには金のプレートに名前が書かれており、専務は高級そうな革のソファに背を預けた。


「君、名前はなんだったかな?」

「虹村です。」


 名乗っては見たものの、そっぽを向いており、まるで興味が無さそうだ。


「虹村くん、これがなんだか分かるかね?」


 穏やかな目付きとは裏腹に、胸ポケットから出したのは『退職願』と書かれた封筒。


「おおっと。受け取らなくていい。これは私が持っていることにするからね。分かってると思うけど、会社の不利益になるような発言は慎むようにね?」


 そこで初めて合点がいった。

 俺は今、ミスを責められている訳では無いのだ。ミスの原因が社長の息子鞍井譲三にあることを口止めされているのだろう。

 そんなことをちまちま吹聴して回るような愚か者でも暇人でもない。そういい返してやりたかったが、悠の顔が浮かんで思いとどまる。あの子を引き受けている以上、俺は大人でなくてはならないのだ。


 専務室から出てデスクに戻ると、すぐに数人の社員がこちらを見てはこそこそと話し始める。陰山が何か言いたげにこちらを見ているが、「やめておけ」と目で忠告しておく。ただでさえ彼も端のデスクに追いやられて立場が危ういのだ。


『俺、納得いかないんですけど!!』


 仕事用のメールにメッセージが届く。差出人は陰山であり、仕事用のデータも添付されている。気遣いはありがたいが俺にとっては慣れていることだし、いまさら何とも思わない。

 まあ、さすがに専務に呼び出されたというのは初めてだが。


 ため息をつきながら通常業務に戻る。ボブカットの派遣の女の子と給湯室に消える鞍井を見ても、何の感情もわかなかった。


「お疲れ様です。」

「ああ、お疲れ。今日は災難だったなぁ。」

「まあ、それなりに…。」


 帰り際に営業から戻ってきた花寺とすれ違う。すでに社内で噂になっているようで、缶コーヒーを投げてよこしてきた。あいにく気分じゃなかったので蓋を開けなかった。

 エレベーターを待っていると、小走りで陰山が寄ってきて肩を叩いた。


「先輩、お疲れ様です。飲みに行きませんか?」

「お疲れ。悪いけど、今日は無理かな。」


 本当は、平気なふりをしてるだけ。

 とっくの昔に心は限界だった。それを必死にごまかして、大人の振りをして、けど、悠の前ではやりきれない。大人でなくてはならないという合理をぶっ壊してくる彼女。


 無性に、あの娘に会いたかった。


「た、ただいま!!」

「量さん!!走ってきたんですか!?」


 肩で息をしながら、膝に手を着いて俯く。

 ここ最近まともな運動をしていない引きこもりエンジニアには厳しいランニングだった。


「なんとなく、悠に会いたくなって!!」

「そうなんですか?別に走って帰ってこなくても、会えるのに?」


 まっすぐと俺を見つめる瞳は引き込まれそうなほど美しく、けれど、その幼げな顔が愛おしくてたまらない。


「ごめん、その前に…飲み物……。」

「あ、大丈夫ですか!!」


 自分の体力の無さが恨めしかった。


……to be continued

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