第二夜

第5話 綾織琴


「転校生の紹介をします」



 高二の七月十四日のホームルームは、担任のその一言から始まった。


 こんな微妙な時期に? と思ったが、まあ、家庭の事情があるのだろう。たいして気にすべきことではない。


「それじゃあ、おいで」


 担任はぶっきらぼうに、廊下の方に向かって手招きする。教室の扉が静かに開き、緊張しているのか、たどたどしい足取りで一人の女子生徒が入ってくる。黒板の前で立ち止まった彼女は、


「綾織琴です。よろしくお願いします」


 と、少し震えた声で挨拶をし、頭を下げる。第一印象は、整った顔で、勉強はあまりできなさそうな子。そんな感じだった。それ以上は何も思わなかった。そのときはまだ、転校生がやってきたという少しイレギュラーなイベントという認識だったのだ。


 転校生効果により、琴は一週間足らずでクラスに馴染んだ。カースト上位のグループに迎えられ楽しそうにしている。まあ、あれじゃ俺とは全く関わらないだろうな。関わる気もないけど。


 このあとは文化祭での出し物を決めるクラス会議が行われる。うちのクラスはステージ発表をする、というのは既に決定しているから、今日はその内容決めだ。面倒くさい。何でもいいじゃないか。


「それじゃあ、始めるよー」


 と、爽やかな笑顔で前田まえだが黒板の前まで出てくる。前田の笑顔を見ると、ああ、高校にいる奴らはこいつの本性知らないんだよなー、と思ってしまう。いっそのこと、大暴露してやろうかと思ったが、それはそれで面倒ごとに巻き込まれそうで嫌だ。


「時間短縮のため、今回は俺と副委員長と文化祭委員で演目を決めてきました」


 それを聞いた、女王様(俺が勝手にそう呼んでいるだけ)が、「えー」といきなり発する。


「変なのにしてないよねー?」

「大丈夫だよ。みんなが楽しめるのにしてるから」


 副委員長がチョークを手に取り、黒板に四つの文字を書く。


「『七夕物語』の劇をやりたいと思います」


 すると、サッカー部のうるさい奴が、


「まじかよ、古臭くね? しかも時期がおかしい。本番は八月末だろ?」

「確かに、季節は少し外れるんだけど。内容のわかりやすさとか、時間とかを考えると、オーソドックスなのが妥当かなって思ってね。まあ、内容もみんなでアレンジして八月仕様にすればいいんじゃないかな」

「おー! さっすが前田委員長。ちゃんと考えてる!」

「やっぱ前田にはかなわねえな」


 と、上位カースト男子たちが前田に賞賛の声を送る。


「で、配役なんだけど、まず彦星やりたい人いる?」


 先程とは打って変わって、教室が静まり返る。なぜ普段騒ぐ奴らは、こういうときには盛り上がらないのだろうか、といつも思う。裏方の準備はうるさいくらいに盛り上がるくせに、ステージには出たがらないよな。


「誰もいないなら、俺やるよ?」


 前田はクラスの様子を見て、ひとり手を上げる。まったくこいつは……。


 前田が立候補すると、一気に拍手が上がる。「前田なら適任だ」とか「お前しかいない」とか。金魚の糞だな。ザ・取り巻き。だけど、あいつらはあいつらで楽しいのかもしれない。俺には無理だ。


「じゃあ、俺で決定で」


 次は織姫、と前田は役決めを進めていく。


 すると、琴を取り囲む女子の方がなんだか騒がしくなり、彼女らの会話が聞こえてくる。


「琴ちゃん、やってみなよ可愛いし」

「そうだよ。前田彦星にお似合い!」


 琴も満更ではなさそうだった。


「えー、そう? じゃあ、私がやる!」


 ただの馬鹿なのか、表に出るのが好きなのかわからなかったが、俺が生きている世界とは違うそっち側の人間なんだな、と思った。正直あんな人は苦手だ。


 俺は小道具係に落ち着き、学校内も完璧に文化祭準備ムードで溢れていた。


 買い出しを頼まれた俺は、百円ショップの袋を抱えて教室に戻る。しかし、そこには誰もいない。黒板をよく見ると、犬飼君へ、というメッセージがある。体育館で練習をしているので、そちらへ来てください、だそうだ。


 いや、待てよ? これはサボる絶好のチャンスではないか。目的のものが最寄りの百円ショップになくて、もっと遠くの店まで行っていたということにしよう。だから、体育館に行くのは三十分くらい後にしよう。名案だ。俺は椅子を三つ取り出して、それらを並べ、上に寝転がる。少々固いが仮眠には十分だ。そのまま俺は眠りについた。


 しかし、やはり寝心地が悪いせいか、すぐに目が覚めてしまう。目を開けると、琴が俺の顔を覗き込んでいた。


「うわああっ」


 驚きのあまりみっともない声を上げてしまい、そのまま椅子のベッドから落ちる。椅子の脚だけの高さとはいえど、衝撃が俺の腰を痛めつけた。


「痛った……」


 腰を擦りながら体を起こすと、表情を変えないまま琴が立っていた。


「犬飼君、だっけ。何してるの」

「別に。少しサボってただけ。そっちこそ、ヒロインなのに何しに来たんだよ。練習はどうしたんだ?」


 俺が尋ねると、琴は彼女の机の上にある羽衣を手に取った。


「忘れ物。あと、少しサボろうと思って」


 その発言に俺はちょっとだけ親近感が湧いた。こんな奴にも一人でサボろうなんて気があるんだな。


「それで教室に来てみたら、なんか犬飼君が椅子を何個も引っ張り出してたから見てた」

「え?」


 俺は耳を疑う。


「最初からずっと見てたの?」

「うん」

「何もせずにずっと?」

「うん」

「何分くらい?」

「十分くらいかな」

「なんで?」

「寝顔が面白かったから」

「おい、それどういう意味だよ」


 そのとき、琴が我慢しきれない、というように笑い出した。ついさっきまで真顔だったのに、なんなんだこの人は。


「いやあ、犬飼君って面白いね」

「は?」

「ねえ、もう少しサボらない?」


 そう言って琴は俺の手を取って、教室から連れ出す。


「どこ行くんだよ」

「外」


 俺たちはそのまま玄関を通り抜け、校門を飛び出した。


 この感覚は何だろう。


 学校を出てサボるなんて初めてのことじゃないのに、いつもと景色が違って見える。町の色が違う。空気の匂いが違う。


 俺は先行する琴を追い越して、今度は俺が手を引っ張った。


「え、ちょっと?」

「行くぞ。いいサボりスポットがある」


 その場所は俺が月に一度くらいに訪れる場所で、通学路を少し外れたところにある。学校からもあまり遠くない。


 蝉の合唱を浴びながら、俺たちは夏空の下を走り抜けた。


「こっちだ」


 小さな山の入り口である鳥居の前に辿り着き、二人で頂上へと続く階段を二人で見上げる。


「ちょっと頂上まで登らないといけないけど、体力に自信は?」


 そう訊くと、琴は自分の胸を拳で叩いた。


「底なし。大丈夫」

「よしゃ」


 それが合図となって、二人は同時に長い階段を駆け上がった。琴は体力に自信があると言っていたが、さすがだった。ほんの数秒で一番上までたどり着いてしまった。俺と同時に到着。すご過ぎる。


「綾織……速いな。何か運動してたのか」

「うーん、まあしてたと言えばしてたね。よく走ってた」


 ということは、前の学校では陸上部だったのだろうか。まあ、若干濁したあたり、この学校に来る前のことは話したくないのかもしれない。言及する必要はないだろう。今は彼女にあの景色を見せたい。


「で、犬飼君が言ってたのはここ? 何もなくない?」

「ここじゃないけど、ここも何もないわけじゃないだろ」


 木々に囲まれたこの広場は中央に古びてもう使われていない社がある。いや、まあそれだけなんだけど。


「こっちに来てくれ」


 俺は琴を連れて、その社に向かう。


「え、まさかこの古いやつ?」

「んなわけないだろ。いいから来いよ。後悔はさせないから」


 そう言って、社の裏に回ると、そこには腰の高さまでのフェンスがある。俺はいつものようにそれを乗り越え、琴の方に手を差し出した。


「ありがとう」


 柔らかい手が俺の手を包む。なぜか緩んでしまう頬を引き締めながら琴を誘導し、木々を掻き分けて進むと、突然視界が開けた。


「ここだ」

「わあ! 綺麗!」


 ここからは町が一望できるのだ。視界の半分から下には住宅街が広がり、上には青い空が広がっている。


「ここに来ると、心が落ち着くんだよ」

「犬飼君の秘密の場所なんだね」

「そうだ」


 そうは言ったが、今日はあまり心が落ち着かない。むしろ高ぶっているのだが。


 隣で伸びをする彼女に目を向けると、その高ぶりは増す。


 いや、まさかな。


 彼女に連れ出されて、世界に色がついたように見えた。普段なら自分から話さないタイプなのに。ましてや琴はまだ秘密の場所を教えたくなるような人じゃな

いのに。なぜだろう。俺は彼女が醸し出す不思議な魅力の虜になっていた。


 ああ、これはもう間違いないのかもしれない。多分、好きだ。たった数分しか話していないのに、俺はもう彼女の横顔から目を離せなかった。


「なあ」

「ん? どうしたの」


 勇気を振り絞って訊いてみる。


「LINE、教えてくれないかな」


 琴は一度瞬きをすると、教室にいたときのように突然笑い出した。


「やっぱり、犬飼君面白いなあ! 何? ナンパ?」

「いや、そういうわけじゃ」

「冗談だよ。LINE、交換しよ。その代わり」


 一歩近寄ってきた彼女は目を輝かせながら言った。


「犬飼君じゃなくて、昴介って呼ばせて。そして私のことも綾織じゃなくて琴って呼んで。いい?」


 マジか。名前呼びか。


 俺が動揺しながらも、大きな声で答える。


「もちろん!」

「じゃあ、契約成立ね!」


 そう言って琴はスカートのポケットからスマートフォンを取り出した。

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