第4話  堤 佑介Ⅰの1

                                              2018年8月25日(土)




暑さにやられたのか、昨日から賃貸担当の山下が休んでしまったので、代わりを務めなくてはならなかった。


シーズンオフのため、若手も順繰りに休暇を取っている。たまたまシフトの調整がうまく行かず、山下しかいなかったのだ。その山下もダウンというわけで私が代役。


土曜日なので混むかと思ったが、そんなに忙殺されたというわけでもなかった。それでも最後の客を案内し終わったのは7時近くになっていただろうか。


閉店間際に入ってきた若いカップルが、プリントアウトしたネット情報を差し出して、ここを内見したいと言った。車で七、八分ほどかかる高台の場所だった。


シートに記入してもらっている間に、車と部屋のキーを取りに奥に戻った。


「どうぞ。いま車をつけますので、申し訳ありませんがソファでお待ちいただけますか」


接客や案内はもうずいぶんやっていない。失礼に当たらなかったかと、ちょっと気になる。


そこそこインテリっぽい、感じのいいカップルだと思った。男女とも30前後といったところか。


エンジンを発進させながら、さりげなく聞いてみた。


「お住み替えですか」


「はい、今までのところが狭くてあんまり環境もよくないもんですから」


女のほうがきびきびした調子で答えた。


「けやきが丘はおなじみなんですか」


「いえ、初めて来てみたんです。人気のエリアですから」


「そうなんですよね。最近も駅前に大規模マンションができましたが、建設当初から完売でした」


「物価とか、やっぱり高いですか」


「そうですね。沿線の他の駅よりは多少」


「フユーソーが多いんだな」


今度は男が、独り言のようにつぶやいた。何となく心配そうだ。


目的の物件は、オーナーが高齢になって、便利な駅近のマンションに移ったため空き家となった戸建てである。当分は売らずに賃貸するのだという。




二人は相当微に入り細を穿って調べていた。質問も多かった。特に女の方が。


駅から距離はあるが、バスの便は多いし、昔から住宅街として有名な地区である。築二十五年ほど経っているが、けっこう値が張る。


帰りの車中で二人が話し始めた。


「いいところね。私は気に入ったわ」


「うん。だけど問題は家賃だね」


男の声は遠慮がちだった。


「センターに帰ってから、ほかの物件もいろいろご紹介できますよ」と私。


ところがそれには耳を貸さず、二人の話し合いは、だんだん言い合いになっていった。


「がんばればなんとかなるわよ」


「そう簡単に言うなよ。君は安定しているかもしれないけど、僕はいつ派遣切りに合うかわからないんだぜ」


「それはあなた次第よ。もしそうなったら、もっと条件のいい勤め先、努力して探せばいいじゃない」


「僕の甲斐性のせいにするのか。そう簡単じゃないことは派遣になってみればわかる」


男の口調は半ば自嘲気味だった。


「だから就活んとき、ちゃんと正規を目指せばよかったのよ」


「あんときは芝居に打ち込んでたんだ。前にも話しただろ。いまさら古い話を持ち出すなよ」


帰ってからやればいいのに、こういうところはやっぱり若いな。私的事情を外の社員に聞かせるのはまずいですよ。


センターに戻る車に乗り込んだ時、「お買い求めのほうはお考えになっていないんですか」と持ちかけようと思っていたのだが、その言葉を出す機会を失った。


そういえば、3年前に労働者派遣法が改正されて、すべての職業に関して、3年経てば使用者側から一方的に派遣社員を解雇できることになった。ずいぶん労働者に対して過酷な法改正だなと、当時思ったものだった。今の政権は何を考えているんだろう。


女のほうは、「安定している」と言われていたから、大企業か公務員だろうか。とにかく、昨今の若い男女のご多分に漏れず、女のほうが気丈でしっかりしていて、男のほうが気弱で頼りなく見えた。


大学に勤めている友人の篠原が言っていたが、最近は女子学生の方がずっと成績がよくて、日本語も満足に書けない男子学生が多いそうだ。


しかし、と、このハリキリ女性に言ってやりたかった。


政府はいつだったか、「すべての女性が輝く社会」とか言っていたけれど、あれは女性を低賃金で労働市場に駆り出す誘い文句に過ぎない。


労働現場はそんなに甘くないよ。子どもでもできればきっとあなたにもいろんな問題が降りかかってきて、疲れを感じるようになる。それは個人の努力で簡単に解決する問題じゃないんですよ。


他の物件の資料も何枚か渡し、おススメ物件について簡単に説明したが、結局「検討してみます」ということになって、カップルは帰っていった。


あの二人はたぶんここには越してこないな。


長年の勘のようなものがそう思わせた。


考えてみれば彼らの世代は、幼いころから不景気しか知らないのだ。ちょっとかわいそうだった。


私が結婚したころは、すでにバブルははじけていたが、まだその悪影響は普通の市民生活の場面には響いていず、中古市場は活気を帯びていた。若者にこんなに希望を持たせない世の中になるとは想像すらしなかった。


しかしそれはこちらの見方で、彼ら自身はいまの社会環境が当たり前だと思っているのかもしれない。就職も売り手市場だと言われているし、一部の業界では人手不足が叫ばれているし。

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