〓〓郷生存ガイドブック

ふわうき

名食い風


 これは、私が体験した話である。


 ある晴れた日のことだ。

 その日、〓〓郷は春だった。この厄介な土地は日によって、否、時として数刻の間に季節が変わりうるが、少なくともその瞬間は、春の陽気に包まれていた。


 私は〓〓郷で世話になっている某某なにがしくれがしと連れ立って歩いていた。行く手には雪が積もったようにたんぽぽの群生地が広がっている。


「某某よ。あのたんぽぽに危険はないのか?」

「ええ。あれはただの綺麗な綿毛です。風が吹いて舞い上がるといっそう、ね。お気に入りの場所なんです」


 某某はただでさえ糸のような目をさらに細めて微笑んだ。花鳥風月を慈しむ心は〓〓郷でも共通しているらしい。前方からこちらに向かってくる見知らぬ男も、足を止めて柔らかな白に見入っているようだ。

 そのとき、涼しげな風が頬を撫でた。

 そよ風だ。たんぽぽの綿毛がふわりと広がるほどではない。残念ながら、某某の語る美しい光景を形成するにはいささか弱すぎる。


 ただ、今日、私はこの風を待っていた。私に視線を向ける某某に一つ頷く。心配は不要だ。私はまだ覚えている。


「そこのあんた!」


 風が止んだ静寂を切り裂いて、男の声がした。前方にいた彼だ。何やら慌てた様子で私のもとまで駆けてくる。その急ぎようは、道にはみ出したたんぽぽを踏み荒すほど。綿毛は無残に散った。

 近づくに連れ、男の顔がよく見えるようになった。その表情は歪んでいる。唇をわなわなと震わせており、ひどく怯えきっているようだ。


「俺の名前を知らないか?」


 答えるより先に、男は青ざめた顔で続ける。


「わか、わからないんだ。自分の名前が、思い出せない……」

「何を言っているんだね。あなたは、名無しの権兵衛さんじゃないか。その筋骨隆々な身体は有名だよ」

「名無しの、権兵衛?」


 男は噛みしめるように、何度もその名前を口にした。次第に、顔色が変わる。汗はみるみるうちに引いていた。名無しの権兵衛。そう口に出す度に活力が生まれるとでも言うのだろうか。

 やがて、男——改め名無しの権兵衛は、爽やかに白い歯を見せて豪快な笑顔を浮かべた。


「恩に着る! あんたも何か困ったことがあったら、この名無しの権兵衛を頼ってくれよな!」

「あ、あぁ。覚えておくよ」


 名無しの権兵衛にもはや不安や恐れはないようだった。力強く私の肩を叩くと、最後に花畑を一瞥してから去っていく。やめたまえ、私の身体は硝子細工のように繊細なのだ。


「これでよかったのだろうか」


 彼の姿が見えなくなった頃には、肩の痛みも引いていた。私はなおも微笑をたたえて花畑を眺める某某に尋ねた。


「名食い風に名前を奪われた者には、すぐに適当な人名を与えましょう。正確である必要はありません。もちろん本名を教えてあげれば解決なんですが、知らないことのほうが多いですから」

「とはいえ、咄嗟に浮かんだものだった。あまりにも適当が過ぎたが」

「名前を失うよりはずっといいですよ」

「誰も教えてくれなかったらどうなる?」

「あぁなります」


 某某が指差す先には、たんぽぽの花畑が広がっている。


「……花畑だが」

「あなたの名前はたんぽぽではありませんよ。ひまわりです」


 返事のかわりとばかりに、某某は綿毛の根元を掴み、息を吹きかけるようにささやいた。

 すると、たんぽぽの茎がぐにゃりと曲がったかと思うと、ぐんぐん天に向かって伸び出した。同時に真っ白だった綿毛が黄色く染まり、瞬きの間に日輪のような輝きを見せた。たんぽぽは今、ひまわりと化した。


「いいえ、やはり、猫でした」


 すかさず某某の声。優しい声色だが、その優しさが誰に向けられているかはわからない。

 〓〓郷にて摩訶不思議な出来事に慣れてしまった私だ。ひまわりが猫に変わったとしても、驚き取り乱すほどではない。そういうものかと自分を納得させた。


「このように、名前を食べられ、自分が何者かわからなくなった者は、外から教えられるそれに従います。その者が認識できれば、大抵、何にでも」

「まさか、ここにある花すべてが?」

「この地では、名前とはとても大切で、そして同じくらい意味がないものですから」


 某某の答えは婉曲的だったが、つまりはそういうことだった。


「元の人間には戻れないのか?」

「本当の名前を教えてあげれば助かりますよ。あなたの名前は……昼二木みつさんですよ」


 某某はどこか名残惜しむように間を置いてから、おそらく本名と思われる名前を猫に伝えた。

 もはや繰り返し説明するまでもない。猫は女性に変わった。もっとも、当の本人にとっては大事件だ。彼女は何が起きたのかわからないようだった。


 なお、錯乱に近い精神状態の彼女をどのように落ち着かせたかは、ここでは省くこととする。

 あくまでも、これは生存ガイドブック執筆のための体験を記しているだけ。極力、不要な描写は残さないようにしている。逆に言えば、記している内容は重要であるということだ。例えば、名無しの権兵衛が綿毛を踏んだことでさえも。


「名食い風についてはご理解いただけましたか? 他にも何かを食べてしまう風は確認されていますが、多いのは名食い風ですね」

「ありがとう。さっそく、書き残しておくとしよう。これは生存ガイドブックに載せるべき危険な魅だ」


 私は懐から手記を取り出し、ボールペンを走らせた。



【魅名】

 名食い風

【概要】

 その者の名前をさらっていく風。吹かれたが最後、名前は忘却の彼方に葬られる。やがて自分が何者であるかもわからなくなり、誰かから「あなたは〇〇だ」と教えられたものに盲目的に変身するという。

 なお、「〇〇食い風」と呼称される同類が複数存在する模様。

【対処法】

 名前を食べられた者に対し、即座に人名を伝えること、すなわち人間であることを教えることで被害を軽減できる。本名を知っていればそれが一番だが、最悪、人名と認識できるようなものであれば何でも構わない(名無しの権兵衛は危うかったか)。

 一人で出歩くことは避け、常に互いに名前を知る誰かと行動をともにするとよい。

 また、手のひらなど目につく場所に、自分の名前を書いておくことも有効かもしれないが、未検証である。



 そこまで書いて、私は今一度たんぽぽ畑に目を向けた。変わらずそよ風に揺れている。雲ひとつない青空に、草原に広がる白い花畑が映える。


「……某某、ここにいる人間だった花たちの名前をすべて知っているのか?」

「ええ」

「戻さないのか?」

「お気に入りの場所なんですよ、ここ」


 私はそれ以上何も言わなかった。某某は友好的な協力者だ。某某のおかげで、私も今日まで生き抜くことができている。機嫌を損ねる真似はしたくない。


 諦めて私が手記に自分の名前を走らせようとしたそのとき、風が吹いた。

 ページがめくれ、手が止まる。


「ところで」


 某某に向き直る。


「私は誰だったか?」

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