【前編 / 01】 二人目のファウスト ─── 01
18歳未満のファウスト・前編
──三島凪の契約──
知識は俺を裏切らない。
たとえば俺がどれだけ空虚な人間でも、世界がいかに無色透明でも、未来の存在が実感できなくても、人々の眼差しが俺の上だけをいつも、黙って通り過ぎていくのだとしても。
知識は事実だ。現実だ。半透明な理念や感情とは、存在の濃度が違う。霞がかった水みたいな世界の中で、知識の持つ圧倒的な〝本当〟だけが、俺をこの場に留めてくれる。薄ぼんやりした身体の中に、知識を詰め込んでいる間だけ、息ができる気がしていた。
タブレットの電子書籍、ページをめくる手を止める。たちまち世界が曖昧になる。薄曇りの、半透明な、よくわからないぼやけた認識の中に取り残される。それが嫌で、俺はふたたびページをめくった。
今日の選書はゲーテの戯曲だ。知を希求し続けた男が、悪魔に魂を売る話らしい。今はまだ序盤も序盤、老いた男が絶望の末に自死を決意するあたりだ。いくら叡智をこの身に詰め込んでも、結局なにもわからないと悲嘆する男を文字の上に眺め、俺は小さく息をついた。
この男はきっと、まだ本当の叡智を知らないのだろう。知識は人を裏切らない。圧倒的な現実として、ただそこにある。半透明であいまいな俺の姿を、錨となって世界に留めてくれる。いずれこいつもそれを知るに違いない。
そう思ったとき、がたっ、と手元――机が揺れた。はっと顔を上げる。集中が途切れ、遠かったざわめきが、どっ、と一気に戻ってくる。五月の朝、二年の教室。
ずれてしまった眼鏡を直した。目の前に複数の背中。
「あ、ごめんな三島」
うっかり尻をぶつけたらしい。クラスの誰かが言う。名前は覚えていない。正直顔も判然としない。俺はぼんやりとそいつを見上げ、ただうなずいた。若干の沈黙。
俺が口を開かないとわかったらしい。彼は少し冷めた目で俺を見て、すぐ他の男子との会話に戻った。
朝のホームルーム前、教室にはあちこちにグループが散見され、楽しげな声で溢れている。よくそんなに喋ることがあるなと思う。また読書に戻ろうとすると、がらり、とドアが開く音がした。時間か。
先生がのそのそ教室に入ってくる。その後ろに、見覚えのない大柄な男がひとり。俺はかすかに眉を持ち上げた。
同じ制服、同じネクタイ、まったく同じ学年章。そういえば、昨日か一昨日か、転校生が来ると言っていた気がする。それがこいつらしい。
クラスメイトたちがばらばらと席につきはじめた。興味深げな視線が教卓に集中する。いっそ不躾なほどの眼差しを、転校生は気にした風もなかった。
〝雄〟っぽい男、というのが第一印象。
短く整えられた髪。やや太めの眉、切れ長の目。実直そうな鼻筋と男らしい口元。清潔感と野性味が絶妙なバランスで共存していて、言ってしまえば顔がいい。さらに背まで高い。骨格も身体つきもかなりしっかりしていて、胸板もきちんと厚みがあった。
制服はきっちりカタログ通りの着こなしなのに、だからこそだろうか、妙に雄らしいというか、男っぽい雰囲気がある。案の定、女子がそわそわしはじめていた。
(あー……俺とは正反対の人種)
淡々とそれだけを思う。明かりを落としたタブレットの上で、爪の先をとんとん鳴らした。先生がホワイトボードに文字を書き付ける。『宗像達也』。それが彼の名前のようだ。名前まで男らしい。
先生の促しで、転校生――宗像が自己紹介をはじめる。
「はじめまして。宗像達也です。今日からこのクラスに転入になりました。かなりの進学校だと聞いているので、正直ちょっと身構えてます。わからないことがあったら――」
(うわ。顔だけじゃなく、声までいいのかよ)
低くかすれた、耳障りのいい声。当たり障りのない台詞、そのほとんどを聞き流し、俺はうっすら目を伏せた。先生の目を盗み、ちらとタブレットを点灯する。表示された日付は五月の半ば過ぎだった。
(この学校に、中間考査前日の転入か。かわいそうに)
ほとんど無感動にそれだけを思うと、俺は電子書籍の続きを起動した。
男っぽい転校生の声が、教室に低く響いている。辺りに漂う、どことなく浮足立った気配。ホームルームはまだ当分、終わる気配はなさそうだった。
────【前編 / 01】 二人目のファウスト────
そつのない自己紹介と簡単な質疑応答を終え、転校生、宗像は教卓を離れた。用意された席に向かう。大股の足取りが俺の隣を通り過ぎていった。視線はもちろん交わらない。当たり前だ。俺みたいな成績以外なにもない人間、誰も気に留めない。
ちら、と振り返る。大柄の体躯が、がたりと椅子に座ったところだった。切れ長の、実直な視線が教卓のほうを向く。そんな何気ない佇まいにもどことなく存在感があって、幸運にも転校生の近くに座す生徒たちは、誰も彼もがそわそわしていた。
まるで全身の体毛が彼のほうを向いているみたいだ、と思う。みんな視線だけは前を向いているくせに、意識は全身全霊でこの、新しく物珍しい男へと向かっている。本当、俺とは大違いだ。
ただ座っているだけで集団の耳目を集める男と、誰にも気付かれない俺。いつものことだ。それで何かを思うような時期なんて、とうに過ぎ去ってしまった。
誰の目も俺を映さない、それは当たり前のことだ。だって俺にはなにもない。頭だけは教室の誰より秀でた自信があるけれど、首から下は存在しないのと同じだ。
その、首から上の出来だけは、物心ついたときから、誰からも褒められた。小学生の頃からずっと、「凪、あなたはM高校に行ってU大学に行くのよ。それがあなたの未来のためなの」と言い聞かせられてきた。
U大は言わずと知れた旧帝トップの大学で、M高校は遠距離にある超名門校だ。母は俺をそこに入れるために必死だった。できることはなんでもやった。それこそ本当に、なんでも。
でも、M高受験の日、根を詰めすぎた俺はインフルエンザに罹ってしまった。かろうじて別室受験は認められたものの、全力を出すことなどできず、試験は不合格。十五年の人生努力の結末は、実にあっけないものだった。
それ以来、母は俺を諦めてしまった。首から上も含めて、完全に。
母の視界に、俺はもう映らない。父はもともと、俺にも母にも興味がない。友人もいない。部活すら入っていない。家の中でも、学校でも、俺はほとんど透明に等しかった。誰に見留められることもなく、ただ淡々と勉学を重ねるだけの日々。
それでも良かった。だって知識は俺を裏切らない。たとえ家族から俺が見えなくなっても、誰の目にも俺が映らなくても。胸の底に詰め込んだ知識だけが、不安定な足元を確かにしてくれる。なにもない俺を、少しでも満たされたような気にさせてくれる。それで十分だ。
ホームルームは終わろうとしていた。俺は読みかけのゲーテをタブレットごと鞄にしまい、教科書と参考書を机に並べた。M高ほどではないにしても、ここはかなりの進学校だ。入学以来譲らなかった学年トップを維持するためにも、明日の試験対策をしなければ。
ついでのように、周囲の気配に耳をかすかにそばだてる。背後では、ね、試験範囲わかる、と宗像にささやきかける女子の声。さっそく熱心なことだ。
おそらくは悲惨な結果を残すであろう哀れな転校生に一瞬だけ思いを馳せ、俺は参考書を開いた。マーカーまみれのくたびれた紙面が、淡々と俺を見上げた。
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