宵夜鍋

 世の中が、好い具合に冷えてきた。


 僕は、夏の生まれだが、汗かきの暑がりであるせいか、夏はどうも苦手である。

 近年、夏場に大きな水害や、台風の被害があるのも、どうも、夏を好きになれない一因かも知れない。子供の頃や、若い頃は、それなりに夏も好きだったように思うのだが。


 冬は、僕にとっては、非常に過ごしやすい季節である。僕が住んでいる関東地方の平野部は、豪雪や水道管の凍結などに悩まされることもないので、夏場のように大雨や台風におびえる気遣いもなく、実に安穏としている。また、冬はクリスマスや正月を始め、街に愉しげな雰囲気があふれている。

 子供の頃を振返ると、僕が生まれ育った九州の山間部では、冬場に雪が積もることが毎年何度かあった。雪が積もると言っても、そこはそれ九州なので、豪雪地帯とは比べるべくもなく、せいぜい三十センチから多くても五十センチ程が関の山。

 それでも、大人にとっては、車にチェーンを装備しなければならなかったりして、それなりに厄介なことも多かったようだが、子供にしてみれば、そり遊びも出来るし、雪だるまや雪合戦など、色々と面白いことが待ち構えていた。

 そういう楽しかった記憶もあり、いまでも雪がちらつくのを見ると、何やら嬉しい気持ちになる。まあ、僕の住まいのあたりに雪が積もることはめったにないのだけれども。

 ただ、近年は温暖化の影響か、僕の田舎にも以前ほど雪が降ることは無いようである。


 ところで、冬の楽しみと言えば、食にもある。

 冬ならではの海の幸、秋から冬に旬を迎える野菜や果物。

 そして、冬は何と言っても鍋物。


 今日は、その鍋物の中でも特に宵夜鍋じょうやなべを取り上げたい。

 「常夜鍋」とも書く。こう書くのは、何でも毎晩食べたい鍋なるいらしいが、真偽のほどは知らない。

 一方、「宵夜鍋」という字は、魯山人が用いたものであるらしい。

 僕の手許に『魯山人味道』があり、「鍋料理の話」というのが載っているが、その中には宵夜鍋への言及はない。

 しかしウェブで調べると、魯山人と宵夜鍋についていろいろとヒットする。それらを見ると、宵の口から夜が更けるまで食べても美味しいので宵夜鍋だとか、中国から伝わった鍋料理で宵夜は夜食の意味があるとか、色々な薀蓄が並んでいるのだが、いかんせん、どれを見てもその原典が何であるのかが判然としない。

 ご存じの方があれば、ご教示願いたい。

 それから、向田邦子も常夜鍋が好きだったらしい。そのエッセイ集『夜中の薔薇』には、豚鍋として常夜鍋のことが書かれているらしいが、残念ながら、こちらも僕は読んだことがない。


 ただ、吾が家の宵夜鍋は、大分この二人に影響を受けているのは間違いない。いずれも原典を知らず、又聞きの又聞きによる影響ではあるにせよ。


 吾が家のレシピはこうである。

 具材は、豚肉と菠薐草ほうれんそうのみ。それ以外に、水及び同量の酒、だし用の昆布。

 豚肉は、向田邦子によるとロース肉のごく薄切りらしいが、何、廉価のこま切れで構わない。その方が、財布にも、しみったれた心臓にも優しいこと請け合いである。

 一方、菠薐草は、慎重に選ぶ必要がある。何となれば、この鍋の真骨頂は、酒や昆布や豚の風味をまとった菠薐草にこそ存するからである。

 菠薐草は、すべからく、寒冷地育ちで、しかも縮葉ちぢみばの新鮮なるを選択すべし。これに尽きる。ここをないがしろにしては、真の宵夜鍋に相まみえることは到底叶わぬので、どうかそのつもりで真剣に菠薐草に向き合っていただきたい。


 では、調理しよう。


 まず、土鍋に水と酒を半分ずつ入れ、鍋の底に昆布を敷き、火にかける。決して煮立たせてはならぬので、火加減には十分な注意が肝要。

 いささか沸々ふつふつとなる気配がしてきたら、昆布を鍋から除け、まずは適量の豚肉のみを入れる。あくが出る程に沸き立たせてはならぬ。万が一、あくが出てしまったら、丁寧にすくい取るがよかろう。

 さて、そろそろ肉の色が変わってきたであろう。その肉を箸の先で優しくつまんで、たれにちょんと漬け口に運ぶべし。僕は猫舌なので、たれに漬けた後、口をひょっとこように尖らせて、二、三度息を吹きかけたりもする。しかるに、いかに猫舌のじんであったとしても、たれにびちゃびちゃと漬けて冷ましてはならぬので、そこは御用心いただきたい。

 このたれは、向田式であり、生醤油きじょうゆに新鮮な檸檬レモンの汁を搾り入れたもの。これのみ。これをしのぐたれはこの世に存在しない。


 肉を食べ終えたなら、次は菠薐草ほうれんそうに湯浴みしていただく。

 しんなりとしたら、これもたれにちょんと漬けて。

 どうです。実に芳醇なる味わいでしょう。菠薐草選びを真剣に行うべき理由が、お解りになるでしょう。

 家人などは、この種の菠薐草は、湯掻ゆがいて何もつけずに食べるのが一番などと典雅なることを仰せである。悲しいかな俗人たる僕は、そこまでの雅趣を感得できる舌を持ち合わせてはおらぬ。

 それでも、この種の菠薐草が、他のものに比べて格段に美味なることは解し得る。

 こうした縮葉ちぢみばの菠薐草は、寒冷な気候が必須なのであろう、冬でなければお目に掛ることができない。調べてみたところ、葉が縮むのは品種の相違ではなく、栽培法によるものらしい。寒気に晒された露地での栽培が、この美味しい野菜を育てるのだそうな。

 そういう意味でも、冬の到来というものは、実に嬉しいものである。


 いけない。長広舌ちょうこうぜつろうしていては、鍋の中が煮え過ぎてしまう。

 さて、菠薐草を平らげると、今度は又豚。豚の次は菠薐草。しんなりしたところすなわちこれを喰らい、尽きれば豚、たまにビール――これを繰返すのみ。


 なるほど、宵から夜まで食っても飽きない。毎晩食っても飽きない。


 宵夜鍋の三昧境に到達するには、このストイシズムが大事である。寄せ鍋のように、あれこれ欲張ってはならない。

 シンプルに。清貧に。それこそが豊饒を生み出すのである。


 なお、そうは言いつつも、先日はつい日和ってしまい、宵夜鍋にラム肉やら椎茸を加え、あまつさえ、途中からは肉と野菜を交互に煮るのも面倒くさいと止しにして、一緒くたに煮込んで食ったのだが、やはり三昧境とはいかなかった。


 まあ、人生、常に高みを維持できるとは限らない。


 要は程度の問題であって、高潔清廉の士を貫き通すのも骨が折れる。たまに少々堕落するぐらいが吾人ごじんには丁度好いようである。




                         <了>






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