「……疲れた」

 華々しいイントロに起こされて出る言葉がそれだった。「疲れの取れないあなたへ」をキャッチコピーに多くの錠剤が売られているが、その需要はこうして生み出されるらしい。

 毎日朝の七時から夜の六時まで働く。休憩は一時間半とされているが、一時間休むのが精一杯。休日は週に二日と無い。

 こんなので、どうやって疲れを取れと言うのだ。

 こんな状態で、どうやって「個人の幸せ」を実現しろと言うのだ。本当に馬鹿馬鹿しい。

 理想と現実が食い違い過ぎている。

 今日も出勤だった。

「おはようございます」

「オハヨウゴザイマス」

 作業所に入ると、臨時で雇われている中国人留学生と挨拶を交わした。

 お国の評判は悪く言われる一方だが、専門学校の留学生である彼女らは、慣れない言語下でよく働いてくれている。

 鮮魚部や惣菜部では既に技能実習生が働いているが、いよいよ青果部も、外国人労働者を雇わなくてはいけなくなったというわけだ。

 聞くところによると、小売業をはじめ、製造業や介護サービス等の各分野において、外国人労働者は大活躍しているらしい。ブルーカラーと呼ばれ軽視されがちな、誰かがやって当たり前の労働は、もはや彼ら彼女ら無しでは回らない。

 しかし、その待遇が相当酷い会社もあるらしく、技能実習生の供給がいつまで続くのかを考えると不安になる。

 だが、問題意識を持って行動したところで、力が無ければ、結局無意味なのかもしれない。俺は、彼女らに十分な金を与えてやれない。

 俺はいつも通り、カット台車にカゴを積み重ねて売場へと向かった。

「おい加藤!あいつはまだ来んのか⁉︎」

 スイングドアを開けると、嫌な怒声が耳に飛び込んできた。あの人の言う「あいつ」とはいったい誰のことなのか。

 嫌な予感しかしなかった。

「渡、これはどういうことや?」

 俺が挨拶するより早く、竹村バイヤーが俺を問い糺してきた。熟達者として、素人の俺に文句があるのだろう。尤も、それは俺も同じだった。

 一応挨拶でもしようと思った矢先、商品が床に撒き散らされているのを目撃したのだから。

「俺じゃありませんよ。こんなに散らかしたの」

「違うわいやアホンダラ!なんでこんなに腐ったもんが出てくるのかを聞いとるんや!」

 俺のおとぼけも、怒っている竹村バイヤーには通用しなかった。ならば何と言おうかと考えていると、バイヤーは更にごねた。

「まったく、腐り物は多い上に陳列はガタガタ。その上プライスカードも貼られてない。こんな無能見たことないわ」

「は?感情任せに商品を散らかす人に言われたくないんですけど」

 気づいた時にはもう手遅れだった。

 いや、もっと言ってやれば良かったと後悔した。勝手な送り込みのせいでこちらが疲弊していることを恨み節で説教すれば、幾らか気が晴れたものを。

 俺はバイヤーに殴られた。

 殴られるのは随分久しぶりだった。

 最後に殴られたのは中学二年の時。部活の顧問によるものだ。後になって、愛だとか教育だとか色々な言い訳を聞いたが、それが単なる腹癒せであることは自明だった。それでも、俺も俺の親も特に問題にはしなかった。その一方で「こんな大人にはなりたくない」と、あの時の俺は心底思ったのだった。

 そして今、俺は似たような大人と対峙している。

そも、感情を制御しきれず他人に当たる低脳を大人と呼べるのだろうか。いや、呼べるわけがない。大人ではなく敵。俺の人生を害する敵に他ならない。

 体の血液が勢いよく循環し、頭が真っ白になるのが分かった。

「この野郎!」

 頭にすっかり血が上った俺は、バイヤーに掴みかかった。次にすることは決まっている。殴られたら殴り返すのだ。

「やめろ渡君!」

 俺はバイヤーの顔に一発お見舞いしようとしたが、加藤さんに羽交い締めにされてしまった。それでも殴ろうと力を振り絞るが、もう一歩のところで手が届かない。

 それを良いことに、バイヤーの暴言が更に極まった。

「いくら大卒やからって、お前みたいな奴雇う価値もないわ!このただ飯ぐらいめ!」

「言い過ぎですよ竹村さん。人にはそれぞれ存在する意味ってもんがあるでしょ」

 加藤さんだけでは俺達二人を抑えきれず、桜戸さんまでが制止に入ってきた。

「あ?誰に存在意義があるって?あるわけねえだろそんなもん」

 バイヤーは桜戸さんを睨みながら、ニヒルな笑みを浮かべ、言ってはならないことを吐き捨てた。

 それを聞いて、俺たち三人は唖然としてバイヤーを見た。驚きのあまり誰も言葉を発せられず、先程まで喧騒としていた売場は、瞬く間に静まり返った。

「……何かあった?」

 騒ぎを聞きつけたのか、店長がやってきていた。

 それで俺たちの硬直は解けて「何でもないです」と誤魔化し合った。

 無問題を装う自分に辟易とする。他の三人と同じように、俺にも「問題を問題にしてはならない」というプログラムがセットされていて、それに逆らうことができないのだ。

 本当に情けない。

 俺が我が身を憂いている間に、店長が何故かとりあえず納得して、その場は収まった。

「じゃあ渡君、ちゃんと売場片付けといてね。開店までに整えておかないとダメだよ」

 去り際のバイヤーに優しく責任を擦りつけられて、殴られた頬が軋むように痛んだ。

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