第27話 国見久子3

 国見久子の席があった所には、後ろの席の生徒が座っているのか、それとも前の席の生徒が下がってきたのかと、彼女は疑った。そうではなかった。前の席と後ろの席の間隔が席一つ分、そこだけ不自然に離れていた。それだけ見ても、席が一つ無くなっているのは明らかだった。むさ苦しい髪の先生は既に教卓の前へ、生徒の様子を観察するように立っていた。


「おい、どうした? 国見、早く席に着きなさい」

 先生は、遅れて教室に入ってきた国見久子を見つけて、声を掛けた。怒っているというふうでもなかった。

「あのー」

 国見久子は、上目遣いに小さな声を出した。それでも、静かな教室にはよく響いて、離れた所にいる先生にも聞こえた。

「どうした? 国見」

「先生。私の席が、ありません」

 彼女の声は、消え入りそうだった。

「無い? 無いとは、どういうことだ。そんなはずはなかろう」

 教卓に手を突いた先生は、少しも彼女の言葉を信じていなかった。最初から先生が正しく、彼女が勘違いしているといった口振りだ。


「でも私の席、そこなんです」

 国見久子は、先生に何もない所を数回、指差して見せた。何もない所を指差すのは、滑稽だった。

「そこに席はないけどな。うむ。だが、それは国見の勘違いじゃないのか?」

「いいえ、昨日はちゃんとありました」

 彼女は、口籠もった。自信が無かったわけではない。ただ先生の断定的な言葉に、少し気後れしたからだった。


 先生は、ゆっくりと教室を見渡した。廊下側から二列目の四番目の席で、目を留めた。そこには、誰も座っていなかった。

「空いている席に座りなさい」

「でも、そこ。宇野さんの席です」

「宇野の席? 問題ない。宇野は、今日は欠席だ」

 最近、風邪が流行っている。その日の欠席は、宇野美月一人だった。宇野美月の席だけ、ほつんと空いていた。明日は、宇野美月は学校に来るだろうか。

「でも……」

「早く座りなさい。よし、それではホームルーム始めるぞ」

 先生は、国見久子を急かすように言った。 


 他人の席に座って受ける授業は、椅子の上に軟らかいボールを置いて座っているようなものだった。腰が浮き上がって、落ち着かなかった。国見久子は当たり前のように使っていた、自分の机と椅子が恋しかった。席の場所が変わったのだから、そこから眺める教室の景色も、昨日までとはまるで違って見えた。彼女は、私これからどうなるのだろうと不安が募った。


 国見久子が宇野美月の席に座っていたからといって、その日の授業にも、生徒にも何ら影響を及ぼすことはなかった。落ち着かないのは、彼女ただ一人だけだった。


 先生が、国見久子のことを宇野美月と間違えてしまうこともなかったし、宇野美月はいないのだから、その逆もなかった。それでも、教室の席は全て埋まっていたから、宇野美月が出席扱いにされてしまったくらいのことは起こっただろう。


「なあ、国見。困ったことになったな」

「でも、きっと大丈夫だよ。悪いことなんて、いつまでも続くわけがない」


 授業が終わるたびにおどおどして、国見久子は鞄を持って沢田貴子の席に行った。沢田貴子は笑顔で、彼女を迎えてくれた。それが、温かい陽気が差すように感じられた。

「久子、大丈夫?」

 沢田貴子は、国見久子を迎え入れるように言った。他の生徒は誰も、彼女のことを気にしていなかった。教室は、いつもと何も変わらない。

「何か落ち着かなくって」

「それは、自分の席じゃないからだよ」

「宇野さんの席を勝手に使っているみたいで、後ろめたいの」

「気を使い過ぎよ。先生が言ったのだから、誰も宇野さんに言ったりしないよ」

 おそらく沢田貴子の言ったことは、本当だろう。

「そうだろうか?」

「そうよ。そうに決まっている」


「それにしても私の机と椅子、どこに行ったんだろう?」

「私が来た時には、もう無かったよ」

 沢田貴子は、柔らかく首を傾げた。沢田貴子が分からないのだから、どの生徒より遅れてきた国見久子に分かるはずがなかった。自分のいない所で、何か事件が起こっているのは、彼女の不安を誘った。

「ああ。その時には、もう先生が来ていたよ。私、割と早く学校に来るから、びっくりしたの」

 沢田貴子の声は、その時の気持ちを反映しているかのように抑揚が付いていた。

「先生、何してたの?」

 国見久子は重い鞄を床に置いて、前のめりに沢田貴子に迫った。沢田貴子は、ちょっと頭を捻った。思い出すように、天井を見上げた。日中でも教室の隅々を照らすように、蛍光灯が明るく輝いていた。


「何していたかな? そうだ、そうだ。机の周りを行ったり来たり歩き回っていたよ」

「それって、私の席があった周りなの?」

「そうだね。そう、そうかもしれない」

 沢田貴子は、小気味よく頷いた。

「先生、何してたんだろう?」

「さあ、分かんないけど。私、先生じゃないから」

 国見久子は、自分一人では解決できない問題を抱えてしまったように思った。授業にも集中できなかった。明日には、宇野美月も登校してくるだろう。彼女の席は、どこに行ってしまったのか。彼女は教室を見回した。教室には、こんなにたくさんの席があるのに、なぜ彼女の席だけないのか不思議であった。


「国見は、先生の疑っているのか?」

「幾ら何でも、そんな暇なことしないだろう」

「まあ、一番怪しいと言えばそうだな」

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