第16話 忘崎迷2

 豊田弘樹は忘崎迷の所に来ると、しゃべることが仕事みたいに、よくしゃべった。大した話題ではなかった。いつも話すのは、学校生活の細々としたことだった。宿題あったとか、授業中どうだったとか、昨日のテレビを見たとか、時には自分の失敗談を面白おかしく話した。


 が、豊田弘樹は不満は言っても、決して誰かの悪口は言わなかった。だから、話は興味なくても、忘崎迷は苦痛ではなかった。豊田弘樹は話し方が上手い方ではなかったから、話は苦痛ではなかったが、退屈だった。彼女は、豊田弘樹が必死に話し続けている間でも、心をどこかに置いてきたみたいに、ぼんやりとすることがあった。ときどきどこへ置いてきたのか、探すのに苦労することがあった。


 そんな時、忘崎迷はポケットの中から一つの飴を取り出して、包み紙を摘んでひねって出てきた水色の飴を、口に含んだ。炭酸がはじけて舌先を刺激した。すーとした新しい気分になれた。この飴を最初にくれたのは、誰だっただろうと考える。その時の飴の味は覚えていても、誰だったのかは、どうしても思い出せない。


 豊田弘樹に飴を上げると、すぐに噛み砕いて食べてしまう。もっとゆっくり舐めて欲しかった。


「忘崎、お前は飴を舐めるように、ゆっくりと物事を考えるな。他人とは比べものにならないくらい、じっくりと」

「別に、それが悪いと言っているんじゃないよ」

「お前には、お前のペースがあるからな。それでいいんだ」


 忘崎迷は、好きでもない人と付き合うべきではないと言う結論に至るまで、一週間掛かった。


 月曜日から付き合い始めて、金曜日が過ぎた。一週間交際してみて、忘崎迷はある決断に迫られた。豊田弘樹が近づくたびに、友達がよそよそしく感じた。少ない友達だったから、それが耐えられなくなった。


 友達を失うわけにはいかないと、忘崎迷は思った。別れの決定的な切っ掛けは、豊田弘樹の良くない噂を耳にしたことだった。噂を流したのは、隣のクラスの女子生徒だった。豊田弘樹には、他にも付き合っている人がいる。それに、何人もの女の子に告白していたという話だ。裏切られたというより、ほっとした。これで、別れる理由ができたと思った。


 友達にさよならを言うのは、引っ越しをするときだけだ。喧嘩なら、何も言わずに会わなくなってしまうこともあるだろう。だが恋人は違っている。ある決断を迫られる。


 忘崎迷は生徒の少なくなった放課後、友達に手伝ってもらって、豊田弘樹と別れることにした。そういう時の友達は優秀だった。


「迷が、あんたと別れたいって言っているの」

 忘崎迷の友達は、何の躊躇いもなく豊田弘樹に言った。豊田弘樹は、ちょっと面食らった表情を浮かべた。突然の雨に降られた不意打ちだった。

「本当なのか、迷。どうしてないんだ?」

「あんたが他の女の子にも、ちょっかい出しているからだよ。それに、あんたと一緒にいても楽しくないって」

 豊田弘樹は、予期していなかった展開に非常に狼狽えた。


 忘崎迷は友達に任せるまま、頷くだけだった。全てが事実ではなかったとしても、豊田弘樹は反論の余地がなかった。それに振られるのには、慣れていた。彼は付き合ってからのことより、どうやって付き合えるのかということばかり考えていたからだ。


「分かったよ。このまま付き合うのが迷惑なんだろ」


 豊田弘樹が、運命を信じているとは思えないが、あっさり別れを受け入れてくれた。忘崎迷は肩の荷が下りたような心地になった。彼女の自由を少なからず、束縛していたのだと気づいた。それが取り除かれたことは素直に嬉しかった。それでもかすり傷程度に胸が傷んだのは、豊田弘樹の感情が感染したからなのか。彼女が得られた物があるとすれば、恋愛を終わらせることで、背伸びしたくらいには、一つ大人に成長したように思えたことだ。


 忘崎迷と豊田弘樹の交際は、一週間で終わってしまった。その日、帰宅の途中で忘崎迷は道に迷った。一方通行の道路標識を見上げた時、忘崎迷の知らない町が目の前に広がっていた。


「忘崎、どうしたんだぼんやりして?」

「豊田弘樹と別れたのか。ようやく決心が付いたんだな」

「それは仕方ないよ。お前が悪いわけじゃない」

「時にはそういう事もあるんだ」


 いつものように、何となく考え事をしていた。いつもとは少し違っていたかもしれない。考え事をしながら歩くのは、忘崎迷の悪い癖だった。彼女は、知らない道を気にせず歩いた。道はどこまでも続いていたし、その先の先まで、歩いていける勇気があった。赤い郵便ポストや店先の自動販売機、飛び出し注意の立て掛けの看板、どれを取っても彼女の知らない物のはずなのに、なぜだか懐かしい景色に思えた。


 この先を行った所に川があって、小さな橋が架かっていると自然に分かった。忘崎迷は、少し足を早めた。彼女の思った通り川岸に出た。小さな橋も架かっていた。景色が開けて、胸が熱くなる思いがした。


 忘崎迷は穏やかな流れの川を見下ろしながら、ポケットから飴を一つ取って口に放り込んだ。舌先でサイダーのように泡がはじけた。疲労した体が癒されていく。頬を膨らませ、口の中で飴を転がしながら、どうしたものかと考えた。


 口の中の飴は、忘崎迷の記憶にある、あの時と同じ味だった。


 たまたま通り掛かった人に、バス停の場所を教えてもらった。バス停の標識を見て、隣町まで来ていることを知って呆れた。幼い頃、迷子になって寂しくなった時と、同じ場所を見つけたような気分になった。忘崎迷は、バスに乗って帰ることにした。

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