第45話 上杉神子1(うえすぎかみこ)

 自分にとって何でもない物が、時に誰かには、とても価値のある物に成り得ることがある。それは、誰かが決めたわけではない。誰にも予測が付かないことだ。それでも、自分の物が有り難がられるのは悪い気がしないと思う時がある。あるいは、甚だ迷惑することもあるだろう。でも、それは自分の力では、どうすることもできないんだ。そういう時の自分は、無力で仕方がない。世の中の価値なんて、誰かが決めているということよりも、いつの間にか決まってしまうことの方が多いからだと思っている。

「なあ、上杉。その置物、高そうだな」

「何だ。それ、偽物なのか。本物かと思って、手のひらに汗かいてしまったよ」


 上杉神子は休み時間の終わりに、必ず彼女のノートを回収した。回収しなければならないことに、少しうんざりしていた。誰にノートを貸したのか、全て把握していた。代わりのノートは無かったから、自然とそうなった。どうしてみんなが、彼女のノートを借りたがるのかは知っていた。それは馬鹿馬鹿しい迷信だと思っていた。が、みんな彼女のノート欲しさに大抵は下手に出る。神様のような扱いをする。それが、彼女には愉快ではなかった。そのノートがなければ、誰もそんな事はしないだろう。ただの優等生として、彼女のことを蔑むかもしれなかった。


 最初にノートを貸した、生徒は覚えている。ほんの親切心からだった。勉学の不得意な影山伸夫を、同情したのかもしれない。あるいは同情ではなかったかもしれない。ただ影山伸夫とは、席が隣だった。

「上杉さん、悪いんだけど。さっきの授業のノート見せてくれない。俺ちょっと、書き写せなくて」

「えっ、数学のノート。いいけど。はい、どうぞ」

「ありがとう。わお、上杉さんのノートって凄いね。これ、どうやっているの。まるで参考書みたい。綺麗にまとめてある」

 影山伸夫は目を白黒させ、大袈裟に感嘆の声を上げた。それが現実には存在しない、魔法のノートでも見つけたみたいな顔をした。影山伸夫の視線は、ノートと上杉神子の顔を行ったり来たりしていた。彼女も褒められて満更ではなかった。幾ら彼女が勉強をしても、これほど褒められることはなかった。勉強するのは当然のことで、誰かに気に入られるためしているのではなかった。


「そんなの大したことないよ。みんなやっている事だと思うよ」

 上杉神子は、平然と言った。嘘はついてはいなかった。

「嘘だろ。そうは思えないけど。だって俺、先生の書いた黒板の文字、写すだけで精一杯だから」

 影山伸夫は苦笑いして、頭をかいた。野球部らしい丸刈りの頭だ。


 上杉神子のノートは、勉強に後ろ向きな影山伸夫の背中を押した。勉強のコツを掴むように、それから勉強に興味を持つように押したのだ。それは彼女が、思いも寄らないことだった。影山伸夫は、熱心に彼女のノートに目を走らせていた。これほど面白い物はないという好奇な目をしていた。彼女は珍しい気分になって、じっとその様子を見ていた。それほど自分のノートに価値がある、とは思っていなかった。


 影山伸夫は、なかなかノートを返してくれなかった。返してくれたのは、休み時間の終わりを知らせる予鈴がなってからだった。

「上杉さん、ありがとう。助かったよ」

 影山伸夫はどこか誇らしい顔で、上杉神子にノートを手渡した。心配していた彼女であったが、感謝されるのは悪い気分ではなかった。ページをぱらぱらめくって異常がないか確かめた。ちょっと他人に対して神経質になるのは、彼女の悪い癖だった。


「上杉。流石勉強ができるだけあって、ノートも綺麗にまとめてあるな」

「そんな事あるだろう」

「別に買い被っているわけじゃないよ」


 上杉神子が異変に気付いたのは、午前の授業が終わり昼休みを迎えた時だった。

「上杉さん、ちょっとノート見せてくれない」

 普段しゃべったことのない女子生徒三人が、彼女の席を囲むように立っていた。彼女は、とっさにノートを掴んだ。今更、机の中に隠すこともできない。

「えっ、私のノート。どのノート?」

「どのノートでもいいんだけど。そうだね。数学のノート見せて」


 数学は、一時間目にあった授業だった。しかもそれは、影山伸夫に貸したノートだ。女子生徒の一人が催促する手をもう差し出している。

「でも、どうして?」

 断る都合のいい理由が見つからない。上杉神子は、諦めたように女子生徒の一人にノートを手渡しながら尋ねた。警戒する気持ちが、彼女を躊躇い勝ちにさせた。

「上杉さんのノートが、凄いて聞いたからだよ」

 女子生徒は、自慢話みたいに言った。

「凄いって、どういう事?」

「上杉さんのね、ノートを見れば、苦手な教科でもよく分かるっていう話だよ」

「まさか、そんな事ないでしょ。ちょっと信じられない」

 上杉神子は苦笑いした。そんな事が、あるはずがないと疑念を抱いた。彼女にも苦手な教科はあった。それは、どうする事もできなかった。生徒が思い思いの場所で、昼食を食べ始めた。談笑する明るい声も聞こえた。

「だから、試してみるのよ。私たちが上杉さんのノートを見て、成績が上がれば立証できるでしょ」

 女子生徒が口元を上げて、ずるそうに笑った。ちょっと意地悪な目をしていた。


「へえー。それにしても、上杉さんのノートよくまとめてあるね。読みやすいし、重要なところも分かりやすい」

 女子生徒三人は、上杉神子のノートを代わる代わる見て驚いた。それが尊い物のように扱った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る