第21話 小谷真心1(こたにまごころ)

 臆病な自分に驚くなんて、日常茶飯事だ。ちょっとした叫び声や大きな物音に、必要以上にびくびくしてしまうことがある。臆病なのは自分なのだ。それは、十分に分かっている。それでいて、びくびくするから誰かが面白がって、自分のことを故意に驚かせようとしていると、つい思ってしまうことがある。


 誰だって苦手なことに対して、臆病になりがちだ。授業中に先生に当てられた時なんか、みんなの前でドキドキすることだってある。小テストや学期末試験の前は、両手にじっとりと嫌な汗を掻いてしまうことだってある。怯えたって震えたっていいじゃないか。臆病なことは、少しも悪いことじゃない。誰よりも感情が豊かな証拠なんだ。その分、きっと喜びや感動に敏感なはずだ。

「なあ、小谷。お前、お化けって信じるか?」

「まだ何も言ってないだろ。そんな顔するな。お前が、苦手なのは分かった。もうそういう話はしないから」


 小谷真心は、平均的な女子生徒に比べれば大柄な方だった。体は大柄だったが、気は小さかった。ダイエット中の弁当箱も小さかった。授業中など先生に当てられると、教室のみんなに聞こえないくらい小さな声で発言した。答えが正しいか、間違っているかは問題にならなかった。彼女の場合、まず声が小さいことが、問題なのだ。彼女の声が小さいと、先生はお手本のように声を張って、ゆっくりと大きくしゃべった。意地悪でやっているのではないにしても、意地悪に聞こえてしまう。それだから、彼女は余計に萎縮してしまう。声も小さくなった。


「聞こえません」

 教室の生徒の中から、小谷真心を咎めるような無表情な声が上がった。くすくす笑いながら、男子生徒が彼女を「声小さすぎ」とからかった。これは、明らかに意地悪でやっているのだ。男子生徒なら、女子生徒にちょっかいを出したいと思っている。


「分からないのか?」

 小谷真心の発言は、いつも先生にそう取られる。聞こえない発言は、分からないと同等に扱われる。先生は眉根を寄せると、右手を下げた。もういいから座りなさい、と促した。意地悪の手本は、先生だった。男子生徒とも女子生徒とも区別の付かない笑い声が、彼女が着席した教室に起こった。小さな笑い声だが、彼女の心をちくちく刺すほどの鋭い笑い声だった。他人の気持ちを考えない無責任な声だ。


 小谷真心は、泣きたい気持ちで教科書を見詰めた。何かしていないと心が折れそうになった。答えが分からないわけではない。声がちょっと小さいだけだと、べそをかくように囁いた。その言葉が、彼女の気持ちを逆撫でるように、頭の中で何度も繰り返される。彼女の思考は、そこで立ち止まっていても、授業は勝手に進んでいく。


 気が付けば、書き切れないほど黒板は数式で埋まっていた。教科書は分からない所まで進んでいた。小谷真心は焦って、できるだけ黒板の文字をノートに書き写そうとした。授業内容に付いて行けてないのだから、そうするしかなかった。溜め息が出そうになって、慌てて呑み込んだ。声は小さくても、溜め息は先生に聞こえそうだった。


「なあ、小谷。お前が声が小さいのは生まれつきだろ。気にすることなんてないよ」

「みんな前で先生に当てられて、緊張することは、誰にでもあることさ」

「ぼくだって、授業中に当てられれば緊張するだろ」

「全然そうは見えないって、どういうことだよ」


 詰まらない授業だった。答えは分かっていた。声が小さいだけだ。小谷真心は、自分の存在を否定されたように思えた。それは、この授業に参加してないのと等しい。彼女は、自分の席に大人しく座っているのが、馬鹿みたいだと思って居た堪れなくなった。だからといって、席を立って廊下に飛び出す勇気もなかった。彼女は、ただ教科書を睨んで、ノートを取るしかできなかった。それしかできない気の弱い、ただの女の子だった。


 授業の終わりを知らせる予鈴が、小谷真心を救った。先生は最後に何か告げて、教室を慌ただしく出ていた。彼女には聞こえなかった。聞いてなかったのだ。ふと気づけば、沈んだ気持ちの小谷真奈を励ましに、友達の佐野真奈が彼女の席にやって来ていた。休み時間になると、必ずと言っていいほど、彼女の所に来てくれる。彼女の傾き掛けた心を、黙っていても支えてくれる。


「また当てられちゃったね。先生も分かっているなら、わざわざ当てなきゃいいのに、意地悪だよね」

 佐野真奈は、小谷真心と反対に声はよく通るが、体は小柄だった。小柄な分、ちょこまかと体がよく動く。性格も思い立ったらすぐの人だ。

「気にすることないよ。あいつ、わざと真心が困ることやっているんだ。意地悪な奴」

「それより、今日カラオケに行かない?」


 彼女たちの一日は、あっという間に過ぎた。授業中は少し長く感じる時もあったが、体が活発に動いている分、過ぎてしまえば、目まぐるしい早さで時間が経過するように思えた。休み時間は、友達とふざけ合って、退屈な授業には居眠りしている生徒もいた。生徒たちの昼休みの始まりは、いわゆる購買前の戦場になった。嫌なことも多少はあったが、至って平和な日常だった。


「小谷は、佐野とよくカラオケに行くのか?」

「ぼくは、小谷と違って歌うのは苦手だからな」

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