第31話

 ヴィクトルが秘密裏に設置していたのは、自分専用の研究室である。

 魔法医学に関する一通りの実験道具と一緒に、レントゲンなどの治療道具もそろえている。


 己が所長を退いてから入れ替えていないため多少古いものが多いが、緊急処置として使うには問題ない。

 手早くそれらの動作が問題ないこと確認し、消毒してから機器台の上に並べていく。


 己の後ろで鼻をすすっているリリアンを肩越しに見つめて、部屋の隅にある診察台を指さした。


「リリアン、ここに寝そべりなさい。応急処置くらいは出来るだろう」

「うう、ひぐっ……」

「早く!」


 思わず怒鳴りつけると、びくりと体を震わせながらもリリアンは診察台に歩み寄って横になる。

 その時、彼女の白衣のすそからあの植物の葉がはらりと舞い落ち、ヴィクトルは片眉を跳ね上げた。


「まだ、出ているのか。リリアン、これは……ん!?」


 白衣を羽織り、ゴム手袋をした瞬間、鼻孔に甘い香りが届き瞠目する。

 これはリリアンの夢の植物の香りだ。


 はっと寝そべる彼女を見つめると、白衣の袖のすそからするりと伸びた緑色の蔦が目に入る。

 間違いなく人体の一部ではないそれは、リリアンの夢の植物だ。それが伸びるたびに、香りは強くきつく、吐き気を催すほど醜悪なものになってくる。


 同時に不気味な緑色は見る間にリリアンの皮膚を伝い、体を覆っていく。血の気の失せた体がどんどん覆われていく様は異様であった。

 しかし一番ひどいのは顏、いや、頭であった。いつの間にかほどけた彼女の髪の毛が、青々とした蔦と葉に変わってきている。

 ヴィクトルが呆然としているうちに蔦は伸びていき、もう床につきそうだった。


「ここまで具現化してしまったか……!」


 酷い臭いと加速する焦りは、ヴィクトルの額に浮かぶ汗になる。

 臭いを嗅がないよう口で呼吸をし、増えていく蔦をかきわけ、リリアンの顔を露出させた……が、彼女はもう意識が無い様子だった。


 固く目を閉じ、苦しそうに胸を上下させている。眉間にはしわが寄せられ、頬はまだ涙で濡れていた。


(……彼女の魔法を抑え込むしかないな)


 スーツのポケットからピルケースを取り出して、筒状のそれをふたを開けて傾ける。

 慌てていたためケースからぽろりぽろりと二、三粒落下してしまったが、手に残った緑色の錠剤を口に運んだ。

 水を用意する時間は無い。飲み込むとのどに詰まる痛みがあったが、胃の中に落ちていく感覚がしてようやく落ち着いた。


 瞬間───感じていた頭痛が消えうせ、体が軽くなる。

 風前の灯火だった活力が、体にみなぎっていくようだった。


 深く長く呼吸して意識を集中させたあと、眠ったままのリリアンの顔に手をかざして『力の言葉』を紡ぐ。


「……【θεραπείαセラピア】」


 癒しを意味する言葉が放たれるのと同時に、リリアンから植物が伸びる速度がわずかに遅くなる。

 苦しそうだった呼吸も穏やかになったような気がしたが、それでも彼女の姿が戻ったわけではない。

 ヴィクトルは顔を険しくして、「畜生」と静かに呟いた。


(傷が深いのか?いや、私なら抑えられるはずだ。この薬があれば……)


 今一度癒しを意味する『力の言葉』を口にするが、力が吸われるように抜けていくだけでリリアンに変わりはない。

 額に浮かんだ汗をぬぐって、ヴィクトルは白衣のポケットに入れたままになっていたピルケースを取り出した。


 取り出し口に直接口をつけて仰ぎ、中に入っている錠剤を全て飲み込みかみ砕く。

 独特のえぐみが口腔いっぱいに広がった刹那、体が燃えるように熱くなる。

 胃の中をぐるりとかき回されたような感覚があったが気にする余裕もなく、ヴィクトルは三度目の癒しの言葉を力いっぱい紡いだ。


「【|θεραπεία(セラピア)】!!!」


 一瞬、目の前が真っ暗になる。

 風船から空気が抜けていくように力が無くなったが、それでも気力だけで持ち直した。

 無様なうめき声をあげたままヴィクトルが魔法をかけ続けていくと、足の先を這いずっていた蔦の動きがぴたりと止まった。


「収まったか?」


 息を吐いて魔法を止めると、ちかちかち点滅する視界が次第に平常に戻っていく。

 ベッドで眠るリリアンは安らかな寝息を立てていた。

 白衣のすそから伸びていた植物は枯れて落ち皮膚は健康な色に、髪の毛はプラチナブロンドに戻っている。

 

 ───成功した。


 安堵すると途端に力が抜け、その場でがくりと膝をつく。

 荒い自分の呼吸音が部屋の中に響く中、ヴィクトルは口元に歪んだ笑みを浮かべた。


「お前はまだ生きていて貰わなければ困るのだ、リリアン。お前の存在こそが魔法学会を発展させる……」


 これで魔法協会の調査員の到着には間に合うだろう。

 しばらくリリアンはここで寝かせて休ませていれば、彼女の魔法も復活するはずだ。そうでなくては困る。


 薄く笑いながら息を整え、ふらふらと立ち上がった。……瞬間だった。

 にわかに柔らかな花の香りが鼻孔に届き、体が跳ねる。リリアンの香りではない。嫌な予感を感じてヴィクトルが振り返ると、重厚な扉がいつの間にか開いていた。


 その扉の前に立っていた人物を見たとき、顔が奇妙に強張る。

 何故だ?奴らは罪を認めたはずなのに……愕然としながら凝視する。

 しかし間違いなくそこにいるのは、薬品部門アロマ研究室のヒオリと、道具部門部長ヴェロニカ。そして彼女らに付き従うように立つ美容部門香水研究室のニールだった。


「ヴィクトル前所長、ここでいったい何をしていたんですか?」


 花の香りをまとったヒオリが険しい顔をし、刺すような視線でヴィクトルを睨んでいる。

 出入口に立つ三人に、逃げ道が塞がったことを実感した。


§


 ───酷い臭いがする。とヒオリは顔を歪めそうになった。

 甘く濃厚で、えぐみと吐き気すら感じる、夢で嗅いだあの香りである。自分たちが袖口につけている自作のアロマのおかげで僅かに中和されているが、それでもまだ強い。


 その香りの中で額に脂汗を浮かべた初老の紳士が、蒼白な顔で自分たちを見つめている。


 所長室に入った時に見つけた隠し扉の奥である。秘密の研究室の中に充満する香りの源は、恐らく彼の背後で診察台に寝ているリリアン女史だろう。


 ニールはこのえぐみのある香りに気付いていないようだが、ヴェロニカ女史は己と同時に顔を歪めていた。

 あの植物を長く体に取り込んだ人間は、リリアン女史の魔法の香りを嗅ぎつけられるようになってしまうのかもしれない。


 しかしこれほど酷い臭いを感じていても、流石ヴェロニカは強い。

 彼女は怯むことなく研究室の中に一歩足を踏み入れ、朗らかな様子で再度ヴィクトルに質問する。


「ごきげんよう、お義父様。もう一度お尋ねしますが、ここで何をなさっていますの?」


 ヴィクトルの顔がまた少し青くなり、ヒオリ、ニール、そしてヴェロニカの顔を交互に見つめる。

 窮地に立たされていることはわかって、必死で頭を働かせているのだろう。


 老紳士は取り繕うように額の汗をぬぐい、すっと表情を落ち着かせた。

 まだ誤魔化せると思ったのか唇に笑みの形を作って、三人の動作を注視しながら話しかけてくる。


「私はリリアンくんを介抱していただけだよ。ここは現役の時に作った研究室でね。治療するには最適なんだ」

「医務室の方が近くありませんでしたか?わざわざ所長室に来る方がリリアン女史にとって負担でしょう」

「彼女が他人に会うのを嫌がってね。刺激を与えない方がいいと思ったんだ」


 ヒオリに問われ、ヴィクトルはちらりと肩越しに診察台で眠るリリアンを振り返る。

 恐怖で気絶でもしてしまったのか彼女は深い寝息を立てており、そう簡単に目覚めそうにない。ヴィクトルはリリアンが、妙なことを言い出さないかどうかを心配しているようだ。


 だが彼女がまだ眠りの中にいることを確信し、老紳士は今度はこちらの番とばかりに顔を険しくしてヴェロニカ、そしてヒオリを睨む。


「しかしそれよりも何故君たちがここにいるんだね?ヴェロニカくんたちは罪を認めたのだろう?勝手に出歩くことを許されていると思っているのか?」

「貴方の隙を作るためですよ、ヴィクトル前所長殿。邪魔者が消え、魔術協会の調査が入ると知りれば、貴方は行動するだろうと考えていたのです」


 優雅に答えたのはニールであった。

 ヴィクトルが瞠目する。彼はリリアンの魔法に操られている演技をしていたから、反抗するような態度を取られて驚いたのだろう。


 言葉の意味を飲み込めず呆然とする彼をよそに、ニールは研究室の中に入り、何かを拾うために屈んだ。


「秘密のファイルにアクセスしてくださることを期待していたのですが……。それ以上の収穫がありましたね」


 立ち上がったニールの長く綺麗な指につままれていたのは、薄い緑色をした錠剤だった。

 それを見て、ヴィクトルの表情が強張る。これが深く追及されたくない、彼のウィークポイントのようだ。


「先ほど貴方が研究所のデータベースにアクセスしたとき、ハッキングさせて貰いました。ファイルは全てこちらで保存しています」

「なっ……!」

「私たちは全て知っています。この錠剤のことも、貴方がリリアン殿にした所業も」


 唐突に、ニールから放たれる空気が冷える。

 深い海を思わせる瞳が、鋭い刃のように細まっていた。

 彼自身の怒りを肌で感じ、ヒオリはその言葉を受け継ぐように口を開く。


「ヴィクトル前所長。この錠剤は……魔術師でない人間が魔法を使うことの出来る薬なのですね」

「ぐう……っ」


 呻くヴィクトルの目が泳いだ。

 言い訳を探しているのだろうが、彼が言葉を紡ぐ前に畳みかける。


「そしてこの薬の材料は……魔術師。正確にはリリアンさんが生み出す夢の植物から作られているんですね」


 きっぱりと言い切るヒオリの前で、ヴィクトルの顔色は青から土色気に変化した。

 肯定は無くとも、その表情が図星だと言うことを告げている。

 嘲笑うかのような笑みを唇に浮かべたヴェロニカが、小首を傾げながら彼に言った。


「お義父様がリリアンさんを自由にさせ、クロード様をたしなめなかった理由がこれでわかりましたわ。リリアンさんに夢の植物を生み出させるためでしたのね」


 酷いお方。と呟いたヴェロニカの声は謳うようだったが、嫌悪と侮蔑がありありと滲んでいるのがわかった。

 それがスイッチになったのか、ヴィクトルがぎろりと彼女を睨む。

 彼にもうハイソサエティ香る老紳士の面影はない。追い詰められ、醜い研究欲をむき出しにした研究者がそこにいた。


「き、貴様らに何がわかる!!これがあれば魔法学会の発展は間違いないのだぞ!!この薬さえあれば誰もが魔法を使えるようになる!夢の時代が復活する!!!」


 三人を怒鳴りつけてヴィクトルは、ぎろりといまだに眠っている哀れなリリアンを睨みつける。

 ヒオリもまた彼女を見て目を細め、過去の行いや言動、かけられた迷惑はともかくとしてその哀れな境遇に同情した。

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