第24話

 どちゃり、と人形が落下してくる三度目の音を聞き、考える前に彼の元へと一心不乱に走り出す。


 芽生えた危機感は、もはや取り繕う余裕をも与えてくれなかった。

 ただ必死で劇場を駆け抜け、ニールに届く位置までくると思い切り腕を伸ばす。


 青い瞳を細めた男は己の手を掴むと強く引き、自らの胸で抱きとめる。

 耳元で安堵の吐息の後、小さく「良かった」と聞こえた。


 安心するような体温。彼の心臓が早く打ち付けられていることがわかった。同時に深く落ち着いたマリンノートの香りが鼻孔に届く。

 彼の胸に顔を埋めて香りを吸い込み、ヒオリはようやくあの吐き気を催すにおいの植物を忘れられた。


「ニールさん!どうして!どうしてその女を助けるの!!わたしの方が正しいでしょう!?」


 背後でリリアン女史が上げた金切り声に、はっと体を強張らせる。

 彼女を肩越しに確認すべく振り返ろうとした、その前にニールは眉をつり上げて「行きましょう」と耳元で囁いた。


「待って、ニールさん!ヴェロニカ女史は!?」

「既に姿を消しました。逃げたのか、それとも目覚めたのか」


 言ってニールはヒオリの手を取ったまま、甘ったるい香りで満たされた劇場を抜け出した。

 改めて肩越しに振り返ると、温室の時のように植物の蔦がうねうねとこちらへ向かって伸びてきている。


 いや、温室の時よりも蔦は太く、葉は巨大になっているようにも見える。

 それが何を意味するのかわからずとも恐ろしく、ヒオリは顔を歪めながら視線を逸らした。

 狭い劇場の中から、いまだにリリアンが癇癪をおこす声は響いてくる。


 それが耳障りだったのかちっと下品に舌打ったニールが、鋭い眼差しで小さく唇を動かした。


「【πτέρυξ(プテリュクス)】!」


 ぽつりと彼が呟いた言葉の意味をヒオリが理解する前に、体を浮遊感が支配する。

 何だ?と思った瞬間、足が廊下から浮き、二人は空を高速で移動していた。


 まるでニールに羽根が生えているかのようである。

 呆然としているうちにリリアンの声は背後に遠くなり、青年は扉の開いていた部屋の一つへともぐりこんだ。


 そこはヒオリが先ほどヴェロニカと邂逅した部屋である。

 子供用の机が中央に置いてあり、壁に貼られているのは恐らく桃色の壁紙で、窓には薄いレースのカーテン。

 あの時は冷静ではなかったのでよくよく観察してみると、どうやらここは小さな教室のようだった。


 机が向いている方向には黒板があり、教壇が置いてある。

 ただ、普通の教室ではないようだ。机は一つしかないし、勉学を励む場所としては内装が愛らしすぎる。


 しかし愛らしくとも静かすぎれば不気味なだけだ。

 考えているうちに、体はゆっくりと地面に下ろされる。とりあえずは逃げ切ったらしいと、安堵感が全身を包んだ。


「ヒオリ殿……」


 にわかに名前を呼ばれ、ヒオリは繋がれたままの手の先にいる男を振り返る。

 先ほどまであれほど鬼気迫る表情で己の手を引いていたニールは、妙に頼りなさそうな顔をしていた。


 眉をたれ下げてきゅっと唇を引き結んだ彼は、まるで帰り道のわからない迷子のようだ。

 おずおずとニールは視線を逸らし、繋いだままの手を放そうとした。が、ヒオリはそれを許さず、ぎゅっと握って引き留める。


 ぴくり、と怯えたように彼の体が僅かに動いた。


「ニールさん……貴方は、魔術師なのね」


 呟いたつもりの問いかけは、思いのほか暗い部屋に反響した。

 ぴたりと動きを止めたニールはしばらく黙り込んだ後、やがて「はい」と小さく頷く。


「さっき使った『力の言葉』は炎の魔法?それから飛行魔法なの?」

「……はい。その通りです。実はあれはごく簡単な魔法なんですよ。まあ、私はそれほど得意ではないんですが」


 自慢にも聞こえるその言葉を発した彼の唇にはしかし、皮肉っぽい笑みが浮かんでいた。

 こんな力を持つ自分が気に入らない、そう言っているかのように見え、僅かに目を細めながら問い続ける。


「私に香水を渡したのは、このためなの?あれが私を見つけるための目印になったの?」

「……いいえ。貴女に香水を渡したのは、夢を見させないためです。あれは深い睡眠に入りやすい魔法がかかっていて、予防になると思ったのですが」


 静かに首を横に振るニールに、ヒオリはため息をつく。

 床に就いたときこの夢に入らなかったのは香水のせいだったのかと納得していると、ニールはぽつりぽつりと語った。


「気づいておられましたか?貴女はこの夢とリンクしている。恐らく、ヴェロニカ殿も」

「まだ確信は持てないけど、恐らく植物の根のせいだと思うの。温室の植物の根を体内に吸収すると、この夢に共感してしまう可能性があるわ」


 己の見解を話すとニールはなるほどと頷いてうつむく。

 彼の長いまつげを見つめながら、ヒオリは一拍置いて訊ねた。


「新しく配属されてきた魔法博士っていうのは嘘だったの?何が目的でこの研究所に……?」

「魔法博士の資格は持っていますよ。配属も嘘じゃない。ですが……」


 そこで一旦ニールは言葉を切って、真っ直ぐにヒオリを見た。


「私は魔法協会ディアトン国支部所属の魔術師なのです。上に命じられ、このディアトン国立魔法研究所で行われている不正について調査しに来ました」


 曇りない深い青の瞳を、ヒオリはしばしじっと見つめた。


§


 嘘を言っているようには見えない。あの胡散臭い、感情を押し隠すような笑みを浮かべているわけでもない。


 彼の言うことは真実なのだろうと感じながら同時に、納得もしていた。

 この研究所も所属している魔法協会には、過去の魔法を扱うことの出来る魔術師たちも所属しているという噂を聞いたことがある。


 眉唾な都市伝説だと自分も笑っていたが、どうやらそれは間違いだったらしい。

 魔術師は過去には確かに存在した者たちなのだし、先ほどのリリアン女史の例もある。


 なるほどと頷いた後彼の目を見据えて、沸いた疑問を返す。


「不正と言うのはクロード所長とリリアン女史のこと?それとも、この夢のこと?」

「……彼らにも関係あることなのですが、私の目的はヴィクトル前所長です。先日、この研究所の関係者からその情報が持ち込まれたのです」


 魔法協会上部曰く、不正の内容は不明瞭ながら前所長に関することで、無視の出来ない相手からの情報らしかった。

 だからまずここで何が行われているかを調べるために、ニールが斥候として送られてきたというわけだ。


「ここに何かの魔法……しかも強いものがかけられていることはすぐにわかりました。だから私はその魔法を探った。そうしてリリアン殿の夢の世界にたどり着いたのです」

「やっぱり、ここは魔法で出来た世界なのね」


 確認するとニールは頷き、「夢を操り、自由な世界を作るのは非常に強い魔法です」と続けた。

 

「私はまずこの世界を調べることにしました。どうやらここがリリアン殿の作り出した世界だとわかった時、貴女が現れて」

「ああ、あの日のことね……」


 初めて出会った夜のことを思い出して頭をかくヒオリに、ニールは唇にほのかな笑みを浮かべる。

 何かを隠すものではない、心のまま浮かび上がって来たかのような柔らかい笑みであった。


「貴女を巻き込みたくは無かった。この魔法は危険なものだとわかっていましたから」

「……まあ、確かに。さっきのあれは、流石に命の危険を感じたわ」


 魔法協会の人間なら、博士とは言え一般人を巻き込みたくなかろう。

 しかも彼自身の調査の足手まといになる可能性もある。


 己の存在はさぞ鬱陶しかっただろうなと苦笑しながらニールを見るが、彼は柔らかい笑みを浮かべたまま呟くように言った。


「貴女が無事で良かった。巻き込みたくない一心で何も話しませんでしたが、打ち明けるべきでしたね。そうしたら怖い思いをさせることも無かったのに……」

「……いいえ、そう言うわけにはいかないでしょう。貴方にも立場があるんだし」


 面食らってヒオリが首を傾げると、ニールは笑みを深めた。

 深い海のような彼の瞳を見つめていると、何ともむず痒いような、気恥ずかしいような気持ちになる。


 この空気を甘受しているのがとてもたまらなくて、ヒオリは視線を逸らした。

 同時に、いまだに彼と手を繋いでいたことに気付き、慌ててほどく。


 何故だか名残惜しそうに自分の手を見つめているニールを横目で見ながら、「そういえば」と話題を変えた。


「さっきの劇場で、リリアン女史はヴィクトル前所長に脳を改造されて魔法の力を得たのだと知ったんだけど……そんなことはあり得るの?」


 この質問にニールは笑みを消すと大きく目を見開き、そしてあごに手を当てて何かを考え始める。

 しばらく彼はそのままの体勢だったが、やがて自分の考えを整理するようにぽつりぽつりと語り始めた。


「二十数年前、魔法協会では魔術師を現代によみがえらせる計画が行われたことがありました。過去の力を使い、更なる発展を目指そうと」

「よみがえらせる?過去の文献でも漁ったのかしら?」

「もちろんそれもありました。ですが彼らが一番力を入れたのは、魔法を扱える人材の確保です」


 人材。

 その言葉にまじまじとニールを見ると、彼は苦笑して「ええ」と頷く。


「私はその計画で集められた人材の一人です。遠い血筋に魔術師がいたらしいのですが」

「ああ、なるほど。過去に魔術師がいればその子孫も才能があるのではと考えたわけなのね」

「ええ。そして概ね彼らの予想は間違ってはいませんでした。しかし、それでも数が少なすぎたのです」


 眉間にしわを寄せながら「数?」と問うと、ニールは説明を続ける。


「魔術師の家系を調べるのに苦労しましたし、しかも子孫の中にも魔法を扱える者と扱えない者がいた。幸運なことに私は魔法の才能があったようでしたが」

「……まあ、そりゃあそうね。簡単にはいかないでしょう」


 ヒオリは肩を竦めながら納得した。


 過去の魔術師が書き残した魔法の指南書は数あるが、それを実行できたと言う声は聴かない。

 魔法には卓越した頭脳と特殊な才能が必要だと言われており、たとえ子孫にその可能性があったとしても一般人より僅かに高いレベルだろう。


 そこで一旦ニールは何かを思うように言葉を切り、ふと目をつむった。

 小さく吐息をもらして再び話し始めたその口調は、酷く重々しかった。


「計画は難航しました。しかしここでとある魔法脳医学の博士がある実験を行いたいと申し出たのです」


 魔法脳医学、と言う言葉にヒオリの心臓がどくりと跳ねた。

 表情を強張らせてニールを凝視すると、彼は真剣な面持ちで伏せていた目を開けて続ける。


「それは魔術師の子孫の脳を改造し、人工的に魔術師を作り出すという危険な実験でした……」


 予想はしていたものの、いざ言われるとひやりとしたものが背中を伝う。

 自然とヒオリは、拳を強く握りしめていた。

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