第5話

 サラダとパスタ、ドリンクが乗ったプレートを手に、その男……ニールはヒオリを見つめている。


 長いまつ毛の下から覗く海のような瞳は、何処までも穏やかだ。

 しかし同時に底知れない何かを感じてしまうのは、己が彼を警戒してしまうためか。

 気のせいではなく背筋がぞくりと冷えたことを自覚して、ヒオリはどうするべきかと逡巡する。


 内心に吹き上がるのは戸惑いと疑心だ。

 彼と話すのはためらいがある。この男は何処か秘密めいた空気をまとっていて、隙が無い。


 そう思う反面、好奇心が疼くのもまた本心だった。

 他愛ない世間話がてら、胸に宿った疑問を解決するにはいい機会なのかもしれない───。


 不審に思われないほどの間にヒオリは結論付けて、口元に柔和な笑みを浮かべながら「どうぞ」と頷いた。


「どうですか?こちらの研究所にはなじめそうですか?」

「そうですね、まだ半日ですが。なかなか楽しそうなところだと思いましたよ」


 にっこりと微笑みながら己の向かいに腰掛けた青年は、ヒオリに頷いて答える。

 どうやら質問されることを鬱陶しいとは思わない性質のようだ。


 積もり積もっていた疑問を頭の中で高速で整理し、なるべく世間話に近い形で問いかける。


「ニールさんはどのような研究をなさっているのでしょう。すみません、美容品は専門外なもので」

「主に香水の調香ですね。気分を高めたり体臭を消したり……一部の効能は貴女のアロマに近いかもしれません」

「私の開発したアロマをご存じなんですか?」


 首を傾げて問いかけ、ヒオリは目を瞬かせる。

 ディアトン魔法研究所に限らず、この国には魔法アロマの調香をしている博士は数多い。

 例え似ている分野の研究をしているからといえ、どのアロマをどの博士が作っているかなど知る人間がどれほどいるだろうか?


 不思議そうな顔をする己にニールはくすりと小さく笑み、頷く。


「こちらが開発したアロマのファンなのですよ。特に貴女のブレンドは私に合うようで」

「……それは、ありがたいことですが」


 魔法の濃度、そしてハーブの配合は確かに自分が決めているが、世間に回っているのは工場で量産されたものだ。

 商品を気に入ってくれたとしても、それを開発した博士を調べることなどまれであろう。


(他に、何か理由があるのかしら?)


 ニールの深い青の目を見つめながら、ヒオリは頭のすみでそう考える。


 夢のことにも加えて、目の前の男は何となく胡散臭い。

 穏やかな笑顔も心の裏側を隠しているかのように見えてしまう。


 サンドイッチを咀嚼しながらしばらく彼を観察していると、パスタを食んでドリンクで唇を湿らせたニールがヒオリに問う。


「もしよろしければ貴女のブレンドを見せていただけませんか?ヒオリ殿がいつもどのようにお仕事をしているのか気になるんです」

「……はあ。私の、ですか?しかし、貴方の仕事は良いのですか?」

「今日一日は研究所に慣れろと言われているもので」

「なるほど……」


 気のない返事を返しながら、ヒオリは考える。

 アロマに限らず独自のレシピがあるものはディアトン国立魔法研究所の博士と、関連企業以外には漏らさぬように徹底していた。


 彼がどこかの企業スパイである可能性も考えたが……流石に金も実力もコネもあるこの研究所関係者が、怪しげな人間を採用する可能性は少ないだろう。

 かたわらに置いたコーヒーを飲んで頭を巡らせ、そして吐息をもらして頷いた。


「詳しい調香方法は教えられませんが、それでも良かったらぜひどうぞ」


 承諾すると、「嬉しいです」とニールはまるで花がほころぶように笑った。

 穏やかでありながら少年のように目を輝かせ、口元に優雅な笑みを浮かべる彼に、ヒオリは半瞬戸惑う。


 それほどアロマの調香に興味があったのだろうか?

 彼の考えていることがいまいちわからず、変な人だなと思うことにして嘆息した。


(他にも何か聞いておくべきかな……)


 単刀直入に夢の出来事を聞くべきだろうか?だとすれば何と切り出せばいいのだろう?

 悩みながら再び、ヒオリが口を開きかけた瞬間だった。


 ふわり、と鼻孔に嗅ぎ覚えのある複雑な香りが届く。

 花のような、スパイスのような、それでいて柑橘類か樹木のような、嗅いでいると眠くなってしまう甘さを含んだ匂い。


 何の植物が由来かわからない不思議なそれに、ぎくりと心臓が跳ねた。


(これは……夢の中の!!)


 そう察したとき、背後に誰かが歩み寄った気配を感じて体を強張らせる。


「……あの!す、すみません!」


 にわかに小さく震える声をかけられて、はっと振り返る。

 いつの間にか己が腰かける椅子のそばには、華奢で可憐な女性が胸元でぎゅっと手を握りながら立っていた。


 白衣に矮躯を包んだ、プラチナブロンドが美しい妖精の如き美女。

 それが朝一番に目撃した騒動の中心人物であることに気が付き、ヒオリは内心ぎくりとする。

 だが何とか表面上は平静を保ち、彼女を見つめた。


§


 早鐘を打つように脈打つ心臓を抑えながらヒオリは、普段のそっけなさを隠すように笑顔を形作る。

 そしてなるべく疑心や敵意に見えないように、柔らかい口調で彼女に訊ねた。


「貴女は、確かリリアン女史?ですよね。どうかしたんですか?」

「え?あの、私……」


 おどおどと気弱そうな女性……リリアンはしかし、ヒオリの問いには答えない。

 彼女の視線は熱っぽく、こちらを通り越してテーブルの向こうへと注がれており、そこにはやはりというかじっと二人の様子を伺っているニールがいた。


 これほどの美女に憧れの眼差しで見つめられれば、彼とて悪い気はしないだろう。そう思ったが、意外なことに青年がリリアンを見る表情は何処となく寒々しい。

 先ほど己に見せた顔とは全く違う印象だったので、ヒオリは「こんな顔も出来るのか」と少々面食らった。


 しかしリリアンはニールの冷たい表情に気付かぬのか、陶器のような頬をバラ色に染めながらおずおずと語り掛ける。


「その、貴方が今日新しくいらっしゃった方ですよね!わたし、その、貴方とお話ししたくって……!」

「私とですか?」

「は、はい!あの、良かったら二人でお茶をしませんか?」


 真っ直ぐにニールを見つめて小首を傾げながら話しかける彼女は、何処となく未成熟な少女じみていた。

 人によってはその様子を愛らしいと形容するのかもしれないが、ヒオリの心は白けて眉間にしわを寄せる。


 成人した人間、しかも博士号を取った者がする話し方ではないと思った。

 これでは多感な年齢の学生の方がまだマシな誘い方をするのではないか。


(何というか、クロード所長にもコナをかけて、気の多い女性なのね……)


 性格悪く内心で悪態をつき、リリアンの横顔を見つめる。

 もちろん己が思うような下世話な理由ではなく、新しく配属された博士の研究に興味を覚えただけなのかもしれない。

 だがそれにしてはこの言動は勘違いされやすすぎる。


 ニールに、ではなく他人に、彼女はそういった類の他意があると思われるのはあまり良いことではないだろう。

 流石にこれは注意した方がいいのではと改めてリリアンを見たとき、遮るようにニールが口を開いた。


「申し訳ない。私はこれから用事があるのですよ。それに貴女のお誘いを受ける気にはとてもなりません」

「え?」


 リリアンが呆けた声を出す。

 言葉に棘があったことに気付いたヒオリもまた、片眉を跳ね上げてニールに視線を転じる。

 まさかこんなにきっぱりと断るとは思ってもみなかった。


 だが冷たいその言葉に反し、告げた彼はにこにこと機嫌よく笑っている。


「私はこの研究所には仕事で来ているのですよ。個人的なお誘いは今後もご遠慮したいですねえ」


 再び放たれた拒絶の言葉に、流石にリリアンも何かおかしいと気づいたらしい。

 困惑に眉をたれ下げ、一歩、二歩と後ずさり、何故かぎろりとヒオリに視線を転じた。


 温室でも感じた、恨めしげな目である。


 敵意を持たれたことを感じ、背中に嫌な汗が浮かぶ。

 あまりこのリリアンと言う女性に、己の印象を残したくなかった。


 焦るヒオリが一瞬視線を逸らした間に、彼女はすでに敵意を隠してふるふると震えていた。

 嫌な予感が芽生えて、ヒオリはニールに目配せすると一緒に席を立つ。


「それでは私はこれで。午後の準備がありますので」

「そんな、わたし、わたし……」


 リリアンはニールを潤んだ目で見つめ、涙声で呟き始める。

 様子がおかしいことに気が付きはじめた他職員たちの視線が集まってきたのを感じた。

 ちっと舌打って、ヒオリは空になった皿の乗ったプレートを持ち上げて先にその場を立ち去ろうとした。


「リリアン、どうしたの?」

「リリアン!」


 己と入れ替わるように駆け付けてきたのは、眉をつり上げた女性職員たちであった。

 肩越しに振り返ると、彼女らは子ウサギのように震えるリリアンの肩を労わるように抱き、「大丈夫?」と問いかけている。


 しかしリリアンは泣き止まない。

 細い泣き声が聞こえて来た瞬間、彼女の肩を抱いていた一人が親の仇でも見るかのような眼差しでヒオリを睨みつけた。

 まずいと思ったが、その女性は肩をいからせてずんずんこちらに近づいてくる。


 面倒くさいことになりそうだなと迎え撃つ覚悟で振り返る……が、その目の前を、すっと濃紺のスーツの背中が遮った。


「失礼。彼女は大切な予定がありますので」

「な……っ!」


 ヒオリと女性を遮るように間に入ったのは、ニールである。

 彼は驚き見上げる彼女にふっと笑みを落とし、ヒオリの背を押して歩きはじめた。

 一応肩ごしに確認だけしたが、女性たちはぽかんとしているのみ。ただ彼女らの背後にいるリリアンが、恐ろしい目でこちらを睨んでいた。


 しかし次いで声がかけられることはなかった。安心して二人は、プレートをカウンターに返却してカフェテリアを出る。

 薬品部門棟に続く渡り廊下に入った時、誰もいなくなったことを確認し、ヒオリは苛立たし気に口を開く。


「案外、毒を吐く方なんですね」

「そういうつもりでは無かったのですが。私は貴女との予定を大事にしたかったのですよ」


 歯の浮くような台詞に、ヒオリは半眼でニールの横顔を睨みつけた。

 この男も随分勘違いされるようなことを言う。これが生来のものなら、罪づくりな性分だ。


「これからあの一団……特にクロードさんに睨まれたらやって行けなくなりますよ」

「あの方の態度ですと、遅かれ早かれ目をつけられたような気はしますね」


 それは否定できなかった。

 しかし意外にいい性格だな、この男。そう思いながらヒオリは深く嘆息する。

 リリアン女史のせいで、聞きたいと思っていたことの半分も聞けなかったことも残念だった。

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