伊澤ちはる 五

春は特別な季節です。害も悪も、水の洗いを以て清められり。





あ、水花が潤んでいる、と思った。

ほやりと発光して浮かび上がっているような花弁はなびらがくに、先ほどから降りはじめた涙雨なみだあめが玉となって溜まり流れた。今はまだ半開きだけれど、発光した水花が完全に開花したときが水呼びの合図なのだという。あのときもそうだったのだ──とその様子を見てようやく思い出した。





通学のたびにいつも渡る橋の下には堂々たる川が流れていて、ちょうどふたつの流れの合流地点となっている。澄んでいるのは主流の方で、山の方からぶつかってくる小さな水流は濁っている。小さな川は普段やや控えめに流れているものの、大雨の翌日などはうねる大蛇のような、もしくは荒ぶるカフェオレのような濁流になる。三姉妹は去年橋からここに落ちて溺れたらしい。

らしい、と表現するほど、私の中の百合は遠くへ行ってしまった。

澪と個人的な接触をしたあの日から、私の思考のもやは徐々に晴れていった。代わりに、自我は急速にちはる優位に切り替わっていったのだった。

自我のないお人形のようだった澪もまた揺らいでいた。澪が言うには、この揺らぎも、この川が濁っているのも私がそもそもの原因なのらしい。澪と完全な入れ替わりが完了したはずの椿が、最近になって再び不安定な状態に戻りつつある。そのため澪の土台も脆弱になり、以前の記憶も幾らか戻ったという。この変化はおそらく椿が百合を助けようとしてのことだろうと彼女は言った。

「あなたが最初沼に落ちたとき、あなたから大量に出てきた言葉で濁った水は林に残されたままになっていました。椿さんは、そこで囚われになっている百合さんの気配を感じて水漬みづき、浄化が失敗してしまったのでしょう」




以前のちはるだったとき、私は自分の苦しみの吐き出し場を探していた。結局、誰かにそれを打ち明けるというような方法は取れず、思いは文字としてノートにぶつけられていた。ぶつけてもぶつけても思いは尽きず、書き溜めた文字、積み上げたノートの数は膨大になった。

ちょっとした気まぐれで地域の図書館の古い郷土資料を手に取ったのは、そんなときだった。

資料の中に、昔この辺りに存在していた一族のこと、彼らが行なっていた知られざる儀式のことが書いてあった。彼ら──というか、主な当事者は一族の女性だったというから彼女らというのが正しいのかも知れない──は、一般の女性よりもさらに感受性が鋭く繊細だったという。繊細さは、優しさや癒しや救いのかたちで発揮され、人々から愛された。愛されるのと同じくらい無意識に利用された。けれど彼女らは女神などではないので、やがて心の限界が来た。その救いの手立てとして行われたのが全ての苦しみが浄化される「水呼びの儀式」だったのだという。

水に浸かる。水の底でゆっくり浄化される。一族の娘の誰かと入れ替わって世界を巡り、巡った先で人々を癒す。それからまた水に浸かる……。


泣きたいほど羨ましくなってしまった。


一本の細い糸のように葉が私と繋がっていてくれたから、それまでなんとか持ち堪えられた。でも、その一本さえ切れてしまったとき、私にはたった独りで人生に挑んでいけるほどの余力はなかった。

全ての苦しみが浄化される水呼びの儀式。

ちょうど、水呼びの行われる春の新月は数日後に迫っていた。私は資料に簡単に記してある手順を抜かりなく書き留めていた。昔の一族の慣わしなのだから、どうせ私には作用しない。ただ、自分への葬儀のつもりで最期にかしこまったことをしようという心積もりだった。万が一上手くいったら全てを手放した新しい私になれる。

それらしき澄んだ沼にたどり着くと、浮かんだ水花がぼんぼりみたいにうっすら発光していて、幻想的だった。この水花が合図なのだ、と思うと少し救われた思いがした。









澪が私と繋いでいた手を引っ張った。もう化粧は施しておらず、見た目はすっかりおさなごだ。私たちは、小さな沼のほとりに立っている。あの橋の下で合流する濁った水流のほう、此処はその川の水源だ。

「日を跨ぎました。あと二時間ほどです」

私は、澪ともう一度水呼びの儀式をやり直すつもりでいる。

今度こそ全部浄化する。そして百合を救い出す。私の溜め込んでいた言葉たちは多すぎて、水に溶けきれなかった食塩みたいに小さな淵のなかで飽和状態になっているらしい。言葉というのはの一種だからやがて腐り、更なる悪い澱みを作り出す。言の葉に混じって、私が大事に抱えて離さなかったようもきっと一緒にいる。その腐敗の中にずっと百合が閉じ込められていたことを思うと心が痛む。

「──前の世界の大事なもの、置いていけますか? 」

しゃがんだ私の顔を覗き込む澪の目は不安気だ。不思議に大人びた子だと最初思ったけれど、大人びていて当然なのかもしれない。彼女は、昔から幾度となく循環と浄化を繰り返した司水の分家の子なのだそうだ。

儀式の末にたどり着くのがどんなところか、私も一度経験している。驚くほどに清浄な美しく白い林。その林を起点として、送り出されるのはどこの世界かわからない。実際私の元いた世界は、感覚的にこの世界より五十年ほど時代が進んでいたように感じる。

世界はひとつではなく無数にあるのだと、初めて知ったときの驚きといったらなかった。多くは語らない司水の一族は、本当はもっと大きな世界のことを知っていたけれど、敢えて語らなかったのだな。そのとき私はそう思ったのだった。

「置いていけなくても、林にとどまって水になることはできるでしょう? 」

私が儀式を遂行できたのは司水の分家のひとつだからなのだと、澪は教えてくれた。全てではないけれど、名字に水由来の漢字のついている家は、司水家の分家のひとつである可能性がある。私の名字は伊澤で、水に関係のある“澤”の字が付く。澪は唇を窄めた。

「できます。でも、良いのですか」

「いいの。私はそのつもりの儀式だったの」

澪が躊躇いがちに頷いたときだった。

──来た。

下の方からざくざくとした複数の足音が聞こえる。十二時を回った深夜、小雨のなかこんな場所へ来る者は限られている。

お待ちしておりました、猫の子のような可愛らしく幼い声で澪は言った。

「お継母かあ様、お姉様方」

現れたのは予想通り森沢のおばさまと菫。その後ろから智世子が来たのは想定外だった。

集う五人のうち、司水の血をひく娘が四人。

「本当に、百合は百合ではなくなってしまっているのね。姿はそのままなのに」

開口一番、気の抜けたようにぽつりと菫は呟いた。



聞くところによると、ここ数日菫と智世子は独自に司水家の歴史を探り当て、図書室の資料を読み込んでいたのだという。この場に無関係なはずの智世子がいるのはそのせいで、普段てきぱき動く菫がこのところ物思いに耽っていたのもそのせいだったのかと私は得心した。

「資料にない情報はわたくしが補足したわ。そして、今日この日が節目の日だということも」

森沢のおばさま──都さんはいつもより生き生きしているように見えた。

「節目? 」

「そう。あなたお名前は? 」

「伊澤ちはる、といいます」

「そう。ちはるさん、あなたのつくった澱みはあなただけのせいではないわ」

「え? 」

「司水の一族の、昔は定期的に執り行われていた浄化のための儀式が廃れてしまったから、ごく稀に現れる血の濃い娘たちに浄化されない澱みが偏って堆積してしまう。あなたたちの抱えきれないほどの苦しみは、本来司水一族全体が負うべき苦しみです。あなたひとりで処理できるものではない。だから今日皆で浄化するのよ」

「皆って」

「ここにいる智世子さん以外全員よ」

「都さんも? 菫は──納得しているの」

ただ別れの挨拶だけできれば良かったつもりでいた私は動揺する。私や澪は新参者だからいいとして、都さんと菫は事情が違う。生活も環境も未来も、今日この日を境に何もかも変わってしまう。お父さまとお母さまも置いていくことになる。彼女はそこまで分かっているだろうか。菫は据わった目で頷いた。

「だって、救いたいじゃない。百合も椿も、あなたのことも」

残ったって、結局──と言いかけて、覚悟はできています、と結んだ。









沼のほとりで柔らかな光を放つ水花が徐々にほころび、満開が近づいてきた。

誰にも邪魔されない丑の刻、各世界が綴じて独立する月のない日だからこそ、私たちはこの繊細な儀式を成功裏に収めることができる。

澪が小声でハミングを始める。


“きれいなお花を浮かべましょ

睡蓮 浅紗に 水芭蕉 

月のない夜は きよらなり

ひいふうみっつ 数えたら 

草木もねむる 丑の刻──”


「神聖な儀式だから、水呼びの最中は誰も言葉を発しては駄目よ。智世子さんは見守っていてね。わたくしたちは、ただほとりに立っていれば水が呼んでくれる」

複雑な表情の智世子には申し訳なかったけれど、彼女が見守ってくれていると思うと、なんだか安心できた。


日付をこえた月無夜。沼のほとりに佇んでいたら、水花はとうとう満開になった。

ふと、立っている影が一人増えた気がした。


二人、三人みたり四人よたり


いつたりむたりななたりやたり。

少女たちがどこからともなく湧いてきて徐々に数を増し、やがて沼のほとりをぴたりと囲った。私たちと交ぜこぜになって手を繋ぎ、くるくると軽やかに踊りだす。踊っているうち次第に心持ちも軽やかになる。ああ、こんなことを前回もやった気がする。前回どころか、私は──。


気がつくといつの間にか水の中にいた。

──泣いてる?

水中なのに、上空のよう。長いこと失われていた私の涙が湧いてきて止まらない。先程水花に降りた涙雨のように眼球をとろりと潤して、玉となり溢れこぼれて。









私は融和する。水の中の私を経て、ようやくもとの私に戻る。


害も悪も、水の洗いを以て清められり。








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