伊澤ちはる 三

問題は摩擦だ。あれが滑らかな移行にひずみを作る。






月が出ている、

──と思ったのは勘違いで、それは部屋のガラス窓に反射したうす黄色のあかりなのだった。

毎日、ひどく眠い。本来眠るべき時間に深く眠れていないから日中浅いまどろみを繰り返す。夢の中でさえ眠くて、葉の夢を見る夢を見る。ゆめなかで目を開こうと奮闘するも上下の瞼は恐ろしいほどの接着力で閉じていて、ちょっとやそっとでは開かない──と、思っている最中に不意にあっけなく開いた。網膜が真っ先に像を結んで捉えたのが、月のような暖色灯だった。

窓を開けると本物の月がもう随分高くにまで上っているのが見えた。庭の草木が風になびいて騒騒ざわざわ鳴って、何か囁き合っている生き物に思えた。


放課後、森沢邸にお呼ばれするにあたって、学校近くの菓子店へ寄った。お持たせ用にバウムクーヘンを選ぶ。「和菓子より日持ちするからこれで好いでしょ」と問う菫に同意しながら、私はその美しい同心模様に気を取られていた。

あれのモチーフは樹木の年輪だと聞いたことがあるけれど、私は真っ先に水の波紋を連想してしまう。思い出す。沼の底から見えた、水面のさざめき。どうして光のない夜、水の只中で不自然にあれが見えたのだろう。

私はあの儀式を全く信頼して行ったわけではなかった。いざというときの御守りとして縋るように調査しておいたただけで、半信半疑のまま開き直りでやったことだ。まさか本当に作用するものだとは思わなかった。ほとんど調べた通りに事は運んだ。完璧にうまく行かなかったのは私が悪い。水に沈んで言葉が私の中から次々と出て行ってなお、未練がましく手放せないものがあった。葉、葉、と胸のうちで何度も繰り返した。


問題は摩擦だ。あれが滑らかな移行にひずみを作る。

摩擦となっていたものは、たぶん言葉の泡なのだろう。


「また居眠り? 」

菫が顔を覗かせる。こんなふうに菫は、不意に部屋に訪ねてくることがある。

「うん」

「お湯にも入らないで、駄目じゃない」

「うん」

と言ってもそれは口だけで、菫は入浴の催促に来たわけでもなさそうだった。いったん顔を引っ込めた菫は、今度は顔の代わりに手だけを出してきた。

「見て。見つけた」

「何? 」

思わず気持ちが緩んで笑った。菫の手に、子ども用のシャボン液とストローが二セットあった。








吹くと、儚い泡が次々と生産されてあっという間に風に流れていった。開け放った窓に二人して寄りかかってふざけながら作るシャボン玉は、一部は外へ、一部は室内へとどちらにも自由に行き来した。

容器にストローをつけては吹き、つけては吹きするうちに微量の石鹸液が口内にも流れ込む。舌が痺れることも、こういう味だったことも忘れていた。

「使わないで、あの子に譲ったら良かった」

思い出したように菫が私を見て目を丸くする。あの子というのは今日紹介された森沢家の養子のことだろう。

「いいんじゃない、私たちが楽しむことだって大事じゃない。あの子にはまたの機会に違うものをあげれば好いんだし」

安心したように菫は頷き、窓縁まどべりについた腕に頭を乗せて脱力した。

「椿って思ったの」

あの子を見たとき──と菫は弱ったような声を出した。

「全然椿に似てなかったでしょ、なのにそう思った。智世子お姉さんにも言えなかった」

「そうなの? 私には分からなかった」

「百合は多分そうだよね」

なに、と意味を問うと、なんでもないとかわされてしまった。

菫はきっと、煮え切らないのだ。

私は正真正銘の百合だし、菫を騙しているつもりはない。それでも後ろめたいのは、私の中に残留してしまったちはるの質量が思いの外大きいからだろう。

私はたぶん、菫が長年慣れ親しんだ百合と少しずれている。


いつの間に頭を上げて、菫はストローの穴から夜空を覗いていた。彼女の無邪気な仕草を見るのは久しぶりだった。

「こうやって見ると、逆みたいだね」

「逆? 」

「うん、夜空に月が浮かんでるんじゃなくて、夜空が壁とか幕みたいなもので、月のところだけぽかんと穴が空いてるの。そこから向こうの世界が見えるの」

風に菫の前髪が揺れて、くるんと円い額と見る間に露わになる生え際の産毛とを、私は思わず食い入るように見詰めた。

じきに、菫がいつまでもそうやって筒越しに夜空を眺めるので、中の石鹸液が垂れて目に入りはしまいかとやきもきする。

いた

案の定だった。洗面器と手拭いを取ってきてやろうと部屋の隅に駆ける途中で、また唐突に昔のことを思い出した。




葉は誰にでも優しかった。

「誰にでも優しい」という言葉はあまり良い意味で使われなかったりするけれど、私はそういう人が好きだった。だってそれは分け隔てがないということだから。

葉が私にしてくれた愛の告白は、まるでなにかの儀式のように厳粛だった。

気まずさと緊張で何度も言葉を詰まらせながらも最後まで伝えてくれたあれは、白状だとか申告だとかの系統に近くて、私は懺悔を受け止める神父のような面持ちで聞いていた。聞いた当時はただ驚いたから、赦すとか赦さないとか、そんな風には考えなかった。葉のせいじゃないよ、とだけ言った。

けれど私は神父ではない。

ゆるせなかった。

葉が信じられる存在ではなくなった。たったそれだけで私の危うい足場は全壊してしまったのだと思う。なんて呆気ない。

異性と親しくなって、もっと親しくなりたいと思ったら、どうしても恋に発展させなければならないのですか。親友のままでいられないのですか。友情は恋愛の下位互換ではないのに。

葉にしてみれば、私は酷いことをしたんだろう。それなのに酷いことをした私が“さびしいよ”と伝えたくなるのは都合が良過ぎるだろうか。


ああ、あの人にマスカラを塗り損ねてしまった。




最初の頃よりちはるが増幅してはいまいかと私は訝る。

思い出が水溶性ならば、私が泣けるようになったときに彼女はきれいに出ていってくれるのだろうか。そうなるのを待っている。それに賭けて、願うしかない。

戻ると、菫は涙と赤い涙堂るいどうが親和して潤んだ目をぱたぱたとしばたかせて痛がっていた。

「擦っちゃ駄目だよ。洗って」

「蛾がいたの」

菫は噛み合わない返答をする。

「さっき一瞬、見た気がした。部屋の中に入ったかも知れない」

「そうなの? あとで探すね」

「今」

今探して、ほとんど駄々をこねるように菫が言うので面食らう。たぶん彼女は今日のあれこれで相当疲れたのだろう。普段しっかり者の菫だけれど、疲れると近しい者に小さな我儘を言って甘えてくる癖がある。

「分かったから。そんなに気になる? 」


菫は洗面器の水を両手で掬って、「だって椿が──」と唇を尖らせた。

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