7 こがらし


 大学の前期終了と同時に浅葱と縹のふたりはまた会う約束をした。とりあえずひとまず縹は、体を鍛えること以上に気狂いを演じるつもりになったようだった。大学に入ってからは縹の家にいて遊ぶのもくだらなくなった。ふたりは音楽やスポーツの芸のなさに悲観的になった。何か面白いこと楽しいことに熱中することを夢想し始めた。朝は縹の住む街の駅のそばにある踏切で待ち合わせ、すぐわきの喫茶店で遊びの算段をした。昼を過ぎればそこを飛び出して別の街へビリヤードなり買い物に出かけ、オレたちには何が足りないのかと話し続けた。縹は「オレたちには童心が足りない。キマジメにすることなんて無意味だしツマラナイじゃないか、大人になっても無駄だ。子どもみたいになんでも欲しがって、何でもやるべきだ」と言った。

 たまに家によると、縹の部屋は風船で埋もれていた。彼は「〝破裂する友人会〟という集まりを作ったんだよ」と、訳のわからないことを言ったが、確かにその風船にはどれにもおかしな顔が描かれていて、その顔の裏を返せば、ピーターやらポール、マリーとか名前がつけられた。彼は風船らの名前を呼びかけ、笑ったり悲しんだりとそのフリをするのだ。浅葱はそんな縹に驚くというよりも、その風船を部屋で埋めつくしたという発想に感動した。

 そのうち浅葱も煙草を知った。そして、ふたりして酒を飲むようにもなった。話の流れで、彼はまた「女の子を――」と話した。しかしこうなると恋愛だとか、下心よりも男だけの関係というものがあまりにも貧弱に思えるのだった。浅葱も「確かにオレたちの関係をオレたちで終わらせることもない」と訳のわからないことを言って話にノリ気だった。実際酒だの煙草だのシコウ品に手を触れ出すと、快楽がすぐそばにあった。口もまともにきけなくなれば「これからは多くの人間が相手だ」と彼は叫んだ。浅葱も半分我を忘れてそれならばと思ったが、……しかし実際勢いだけで突っ走った話の流れで、何も考えらていないその言葉からは望めるものはなかった(ふたりには街で見知らぬ女性を誘う度胸もなかった)。

 浅葱は今度こそ単なる平行線の付き合いができるだろうと考えていた。そして青藤を会わせた。黒すぎるストレートのロングヘア、深い色の澄みきった眼、暗い服装、青白い不健康な顔、高い背の彼女が、キリスト教の家の娘として生まれたことを話し、神々しさというものをある不思議な生気でもって示せば、ふたりの純粋な世界観はその神秘性によって驚かされた。

 そして彼は言った。

「この娘とは付き合う気にはなれないなあ」……

 浅葱は思った。縹は、もう昔の縹とは別の人間なのだと。


 その年の冬、浅葱と縹はいつものように踏切で待ち合わせた。踏切の傍の喫茶店に入り、コーヒーを飲んで今までのことを話したり、縹は最近、映画の撮影で、由比ヶ浜で絶命の叫びをあげながら射殺されるシーンを撮ったと話し、浅葱はそれを無反応のまま返した。そして会話などそれ以上なかった。縹は、ひたすら大学でのことを話し、浅葱は中学のころに縹と唄ったり、聞いた歌を口ずさんだ。


両手には 小さな愛と

こぼれない程の 満たされた気持ち

くずれかけた 砂の家で

男と女が 暮しを始めた

幸福だよねと 笑みを絶やさず

懐かしい歌を 二人で口ずさむ


ささやかな夢は あくまで遠く

傷つきあう日は あくまで近く

淋しさ寄り添い 温めあえば

人と人とは ひとつと信じて

壊される前に 二人で旅たて

昔の友より 明日の二人


心を開く 隙間をもちたい

閉ざしたままで 時をおくるな

一人がいやで 肩よせた筈

子供のように はしゃいだ日々もいい

風にまかれる 人生がある

たくましさだけで 疲れるよりはいい


心はふたつ 身体もふたつ

ひとつになりたい 願いは同じ

青い空見て はぐれた雲の

行方を追えば 涙も乾く

運命があると 思えるならば

寒さをしのぐ 寝ぐらはひとつ


君の身体は 心を癒し

僕の心は 君を突きさす

くずれかけた 砂の家で

木の葉のように 舞うだけ舞えばいい

朝陽を見たかい 嵐の中にも

懐かしい歌が 聞こえてくるだろう


 気づけば店を出て白い息を吐きながら大通りを歩いていた。ふたりとも変に意気高揚として、会話をしていたけれど、何を話しているのかはわからなかった。縹は「二藍に会いたい」とそればかり言いだした。浅葱にはそれはできなかった。二藍はもう彼らの手からは離れて、別の男のところにいた。揚句、縹はある作家の話をした。受験前に読まされた小説の話だった。それは男が友人の交際相手を奪って友人を死なせ、その後ある決意で自身も自殺する話だった。縹はその話を何度も浅葱にした。初めて聞いた時は「そうか、そうか」などと大げさに話したが、今となっては大分昔の話のように思えた。浅葱は高校のころ教員に言われて同じものを読んでいた。しかし彼が読んだのは実際その小説の一部分だけであることを知って浅葱は不安を覚えた。その小説はある意味で教訓めいたもののはずだったが、彼はその後それをひたすらに「良かった、良かった」というのだ。浅葱は、恋愛で、ことに女の人のためだけに命を捨てられるものか? と思い、怒りがこみ上げた。しかし不安はいつしか浅葱の支えでもあった。ふたりがこうして訳もなく会うのもそのためにあったからだ。浅葱はそれを変に利用して、彼をツナギとめることばかりをしていた。浅葱にとって彼の不幸は喜ばしかった。彼が不幸になれば浅葱は彼と会う口実ができた。彼もそれをわかっていたかも知れない。それでも彼が浅葱を頼るのはなぜだかわからない。

 しかし、すでにふたりの間柄はチグハグしていた。それに気付きながらどうにもならないのは、ふたりがあまりにも長い時間を共有したからだった。

「二藍に会いたい。連絡取れるだろう? してくれないか?」

「メールしたって返ってこないさ、無駄だよ。諦めなよ」

 いくら堕落して、凶暴化して、狂気を帯びても、何らかの訳のわからない要因で、ふたりはひきあっていた。しかしそれも結局は懐古する日のための産物にしかならなかった。

「ほら、ほら! これを受け取れ――」

 彼はまた金を出した。狂気だと思った。何がそうさせているのか結局、最後まで浅葱にはわからなかった。

 いつの間にかふたりは踏切に戻っていた。突然縹は言った。

「…………今までありがとう」

 その時、浅葱にとっての世界が一変した。警笛とともに、電車が遮断機の向こうを滑って行く。

 浅葱は思った、これで縹とは永遠に会わないだろうと――。

 キーンという電車のブレーキ音が浅葱の意識の中で溶けていった。


 数日ののち、浅葱は薄柿とともに縹の告別式に出た。棺桶の中で眠る彼の顔を眺め、静かな憎悪を煮やした。薄柿も浅葱についたまま、棺桶の中の顔を眺めた。同級生や高校の友人らしき人物が幾人と、二藍も参列していた。

 死んでからもう何日も経っていた。死相は化粧も厚く、彼は人形のような顔で眠っている。――そこにいるのは彼ではない何かだ――とも思える。彼の体は事故の時に損壊がひどかったため、棺からは顔しか見られなかった。しかしそれでも顔を見ることができただけましだと思った。浅葱はいちりんの花を頬のそばに添えた。薄柿も同じくそうした。浅葱ははじめてこの時、縹の両親と面会した。浅葱が芳名帳に記載している際に、縹の母親らしき人が声をかけてきたのだ。まだ若々しい姿のふたりは、彼に寄ってきて、「いままでどうも、お世話になったみたいで」などと話したが、彼は何もないかのようにして「いいえ、こちらこそ」と軽い挨拶をした。しかし胸中では――アナタたちは葵のことをどうお思いだったのですか?――と思った。そして薄柿とともにその場から離れた。

 式場を出るとまだ茶色い葉の茂る並木道に出る。アスファルトの道はかたく冷たい色をしている。その上を浅葱と薄柿は歩いている。縹家という看板を横目に通り過ぎた。浅葱と薄柿は同じ空気の中に白い息を漏らしている。

 パラパラと枯れ葉が舞いおりて、空をこがらしが通り過ぎた。

 彼女は浅葱の腕につかまり、無表情のまま「寒い」と呟いた。そして彼はこの理解し難い心境から少し、口角を曲げたのだった。

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