第9話 協力

 幾度も角を曲がり、広場から遠ざかるにつれて、ヴァンは気づいたことがあった。歩いている移民の顔つきが変わっていたのである。みな、ボロボロの衣服を着ていて生気のない顔を貼り付けている。背筋を伸ばして歩いている人などどこにもいなかった。それに加えて、灯りの量は明らかに減っているし、わずかながら照らされている建物の壁は、清潔にする余裕などないのか、土で汚れきっていた。建物の間隔も狭く、貧しい街に迷い込んだかのようだった。

 バルザイが持つランタンを頼りに、ヴァンは後ろをついていく。ふいに、バルザイの前方で影が動いた。バルザイはそちらへランタンを向ける。ランタンの灯りが生き物のように建物を照らすと、そこからよろよろと人が出てきた。

 独特の臭気に、ヴァンは鼻を押さえる。彼らは歩いているというよりも、窮屈そうに這っているようだった。黒い皮膚に伸びたままの髪では性別も分からない。目は虚ろで、手足は骨と皮だけのように細い。栄養不足な体にはぶかぶかのシャツが着せられている。サイズを誤ったというより痩せてそうなってしまったと考える方が正しかった。その彼らが向かってくる。ヴァンの元へ。

「お、お恵みを……私に、いくばくかの幾ばくかの」訛りの強い口調でそのなかの一人がいった。「どうか」

 ヴァンは狼狽えた。縋るように迫る、その虚ろな眼を直視できなかった。答えられないでいると、バルザイが「申し訳ないが」と切り出す。

「今はこちらの方を案内中なので後にしていただけないですか」ランタンの光がバルザイの顔を下から照らす。ナイフでえくぼを作ったかのような凶悪な笑みだった。

 彼らは怯えたように小さく呻いた。「その声はバルザイ様……」そして固い地面に跪く。

 それで分かった。彼らは目が見えていないのだ。よく見ると、他の人々も体の一部が欠損していたり、杖をついている。ここは遺棄される場所なのだ。ヴァンは身震いした。

「それで――行ってもよろしいですか」バルザイはゆっくりいう。

 彼らはバルザイの存在を認めると、体を折って跪いた。次々と平身低頭して許しを乞うた。バルザイは「誰にでも間違いはありますからね」と面倒くさそうにいう。バルザイを見ていると、このような場面は一度や二度ではないようだった。彼らは大人しく引き下がるが、ヴァンは何かしてあげたい思いに囚われた。

 彼らの立場はルデカルでの自分だった。両親を亡くして物乞いをしていた過去は忘れもしない。ヴァンはポケットに手を突っ込む。何かないか。金は全て渡してしまったから期待はできなかったが、隠しポケットに小さな感触があった。それは市場で買ったマメだった。

 ヴァンは去りゆく移民を呼びとめる。「待ってくれ」

 振り返った移民は問いたげな顔をしている。ヴァンは近づいてマメを握らせた。「少ししかないが、腹の足しにはなるだろう」

 彼らの顔に光が宿った。「ありがとうございます……ありがとうございます」

 そうして彼らは建物に帰っていった。家と称するには不充分な建物に。

 なんて惨いのだろう。ヴァンは哀れみを抱くほかなかった。こういう光景はスラムでよく見ていたが、ルデカルを出てなお、この場所にも階級があることにむなしさを思えた。同時に、先ほどの広場の光景を思い出す。移民の楽観的な顔、駆け回る子供たち。彼らは確かに移民であった。それとも偽りだというのか。そう思ったとき、広場は部外者への広報用の場所ではないかと疑念が膨らむ。さながらエントランスだけは立派な公衆浴場のように。対外的に鉱山運営が上手くいっているのを見せびらかすために。――その確信は歩くごとに深まっていく。

 バルザイは何もいわず、ヴァンを先導した。バルザイにとっては日常の光景なのだ。しかし、ヴァンは訊ねずにはいられなかった。

「さっきの男……」ヴァンはバルザイの大きな背中に声を掛けた。「どう見たって危険な状態だった。ここは環境のよい移民の街なんだろう。だったら、あれはどういうことなんだ」

 バルザイは答えない。

「おい」ヴァンが声を張ると、バルザイは音もなく立ち止まった。一瞬、殺気のようなものを感じヴァンは身震いする。感じたことのない感覚だったが、すぐにそれは和らぐ。

 バルザイが面倒くさそうに振り返る。「あなたは少しお人好しすぎる」

「違う。俺はただ」

「いや、そうです」バルザイは断固とした口調で遮った。「あなたはお人好しだ。そして彼らは怠け者。ここ移民の街でも外と同じように、働くことで賃金が渡されます。そういうわけですから、働かない怠け者にはこのような末路が当然です」

「だが、食事くらいは与えられるだろう。あの人たちだって人間だ」

「それはその通りです。ですが、あなたがいうように例外を認めたら、他の労働者の方はどう思うでしょう?」

 今度はヴァンが黙った。バルザイがほくそ笑む。

「いいですか……私は管理者の責任を果たし、適切な環境を用意しています。働かないのは彼らが自らの手で選んだんです。黙って聞いておりましたが、あなたは首を突っ込みすぎる。これは運営上の問題なのです。お分かりですか?」

 バルザイはそれで充分だというように、口を閉じる。バルザイの苛立った口ぶりを見て、ヴァンは考えていたことを、軌道修正せざるを得なかった。

 バルザイにはいわなかったが、ヴァンはサリュを移住させようと悩んでいた。広場を見たとき、ここは楽園だと思った。太陽の光がないだけで、生活している人たちは外の街と変わらなかったのだから。

 それでもバルザイに言わなかったのは、サリュの希望を聞いていなかったからだ。自分の一存で勝手に来ることにしたら、サリュだっていい気はしないだろう。ヴァンはこの町に生活の土台を作ってから、サリュを来させようと考えていた。幸い体力には自信があったから、褒美を得て鉱山から脱出するのも無理な話ではなかった。それに仮に、外へ解放されなくても問題はなかった。バルザイにいってここへサリュを呼んでもらえばいいのだ。バルザイは移民集めに躍起だから、喜んで迎え入れるだろう。あくまで最終手段だが――。

 ただ、その考えも移民の彼らを見てまるきり変わってしまった。広場の移民とこの地区の移民には格差がありすぎる。これでは人種が違うだけで、ルデカルの富裕層と貧困層の状況と変わりなかった。食堂であったような多少の諍いならば、ヴァンが対処できるだろう。だが、この扱いは……。労働者たる働きができなければ遺棄されてしまうのだ。もしも、サリュだったらと思うとそれだけで胸が痛む。

 ヴァンはサリュを建物から出てきた移民に重ね合わせ、すぐに自分が愚かなことをしたと思い、想像を振り払った。ともあれ、バルザイに黙っていたのは結果的に正解であった。

 バルザイの足が一つの建物の前で止まり、蝶番が取れかかった鉄の扉を開いた。鍵はかかってなかった。ここまで歩いてきて、どこであっても施錠されていないのは街のなかであれば自由に行動できることを示していた。だが、それはバルザイが自らの管理能力に絶対的な自信を持っているからに違いなかった。

「ここです。ここがあなたにとっての生活の拠点になります」バルザイはいう。

 バルザイの隣に並び、ヴァンは室内を見やる。バルザイのランタンが不気味に室内を照らす。粗末なベッドに寝そべっている男が頭をもたげた。彼は何もいわず、ヴァンの様子を窺っている。視線を逸らすと、蛇のような目をした男や、部屋の奥には腕に無数の傷がある男。虎視眈々と獲物を狙う二つの目がいくつも暗闇のなかに蠢いていた。ヴァンは驚いて言葉を発することができなかった。日の光を浴びて暮らしていたとは思えなかった。この建物――房には犯罪者が溢れていた。

「あなたにはこの房で過ごしてもらいます。ここで生活し、労働するのです」

 ヴァンは絶句した。「ここで……」

「ええ。そうです。鉱山内ではグループを組むといったでしょう。この方たちがあなたの仲間となるのですよ」

 バルザイは含み笑いをする。

 こいつらが仲間……? どうしたって快く協力できる関係を作れるとは思えなかった。ヴァンが黙って立ったままでいると、バルザイはゆっくりと房を出ようとする。

「もう一つ」バルザイは思いついたようにいった。「最後に私から忠告を。私は気に入った人を直接案内するのですが、そこで人となりを観察するのが好きなんです。それであなたの欠点を申し上げましょう。あなたはどうしようもないくらいお人好しだ。平時には賞賛されることなのでしょうが、ここではそれが命取りになるやもしれません。だから、そんなお人好しなあなたには、この言葉が相応しいでしょう。生きたければ、人を信じないことです」

 バルザイはそういって、扉を閉めた。その音は耳の奥でいつまでもこだましていた。

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