【12】

第37話

 ヒナタがわたしの世話役として赴任し、わたしの髪がずいぶん短くなってから、一年半の月日が経ちました。南国の久我山基地に季節というものはなく、時おりすさまじい台風と大時化がやってきては、わたしたちの生活の上を通りすぎていきました。


 ヒナタは住居を、わたしの宿舎のとなりに移しました。事実上の同居生活です。毎朝ヒナタに起こされて、彼女の作った朝食を食べ、そして出撃なり訓練なりに出かけました。『調整』の日は、オレンジジュースだけを飲んで出かけましたが、それでも部屋に戻ってくるころには、わたしはそのオレンジ色の液体をすべて嘔吐していました。


 あの宿舎に泊まり込み、二十四時間、三百六十五日、ヒナタはわたしの世話をしました。ヒナタはサリーとは違います。ヒナタは私人としてのすべてを捨て、わたしの下へとやってきてくれました。


 ここまでしてくれた世話役は、今まで辞めさせた八人を含め、彼女だけでした。


 そのおかげもあったのでしょうか。わたしは績隷セキレイとますますひとつになり、まるでほんものの手足のようにその機体を操りました。出撃するたびに、毎回多くの『敵』を撃墜しました。戦況はほんの少しずつですが、それでも確実に改善していったのです。


 何も、すべてが自分の功績だとは思っていません。たかが兵器の分際で、おこがましいことを言ってはならないでしょう。でもそのうちの、一パーセントでの二パーセントでも、わたしの戦果が含まれていることを、忘れないで欲しいのです。



 わたしとヒナタはヒリヒリしたような再会をしましたが、それ以後の関係は良好だったと思います。わたしが非番の日の午後は、よくおしゃべりをしました。場所はわたしの部屋かヒナタの部屋か、晴れている日は轟音が響く青空の下だったりしました。


 わたしには特別な宿舎が与えられていましたから、そのコンクリートの戸建ての屋上は、わたしとヒナタのきわめてプライベートな場所でした。ヒナタはそこに、パラソルとサマーチェアを持ち込み、わたしたちはそこでよく、休日の午後のひと時を楽しみました。


「ねえ、アレクサ」

「ん?」


 ヒナタはジュースのびんをポン、と開けました。わたしのグラスにオレンジジュース、自身のグラスにジンジャエールを注ぎ、わたしたちは乾杯をしました。この行為の意味は謎です。グラスを触れ合わせることによってどんな効果が生まれるのか、『心』をなくしたわたしには、たぶん一生分からないことなのでしょう。


「イーサンの話、したいの」

「イーサンの……」


 ヒナタと出会ってから、やはりイーサンのことは往々にして記憶の奥深くから立ち上ってきました。わたしの中ではどうしても、このふたりの記憶は同じところで結びついているのです。黄金色の葉っぱのトンネル、銀色のフェンスと有刺鉄線に仕切られた向こう側。あのころと何ひとつ変わらない瞳のかがやきが、わたしの方を見ます。


「……わたし」


 あの時、どうして自分が先に話そうと思ったのか分かりません。でもイーサンのことを話すのです。わたしの方がずっと長い時間、彼と一緒にいたのですから、わたしが先に口を開くのは必定なのだと、そう思ったのです。


「さよならする時、ヒナタ、手紙くれたよね」

「うん」


 手紙。『いつか、あなたの赤いセキレイに乗れる日を、楽しみに待っています』と書いてあった、あの手紙。『楽園』の強襲で、あの手紙は焼失してしまいました。


「イーサンの手紙には、お守り、いれたんでしょう?」

「……ええ」


 ヒナタはイーサンが『好き』だと、かつてそう聞かされていました。黄金色のイチョウ並木のトンネルの下、フェンスの向こうのヒナタが言った『好き』というものが、幼いわたしにはまだ、理解できなかったのです。


「……うらやましかったの」


 自分の口から、『うらやましい』なんて言葉が出てくるなんて。


「ヒナタからお守りをもらったイーサンが、うらやましかったんじゃない。……わたしはあれを、あのキラキラ光ったお守りを作れるヒナタが、うらやましかった」


 軍を脱走する前の日々。あのキラキラしたお守りを作れるヒナタがうらやましくて、それを目指して格闘した日々。ゴミ捨て場から着古した衣類を漁り、引き裂いてミサンガを編み続けた、あの日々。


 ヒナタは微笑みを消し、沈痛そうな面持ちでこちらを見つめていました。イーサンはヒナタが『好き』だと言いました。でも彼は、自分の持つ『心』が紛いものであることに気づいていました。それでもふたりは両想いでした。ニコールがグエン曹長に恋をし、わたしがジョシュアとひとつになったように、ヒナタとイーサンもまた、互いを想っていました。


 ヒナタはジンジャエールのびんのラベルを見ながら、


「アレクサ。わたし、昔、言ったよね。……あなたがうらやましい、って」


 わたしはうなずきました。よく覚えています。ヒナタには出撃も訓練も『調整』もない。仮想戦闘訓練で負けた時に流される電流も、投薬処置後のはげしい吐き気やめまいも、彼女は何も知りませんでした。


「ひどいこと言って、ごめんなさい」

「……」

「わたし、何にも分かってなかった」


 轟音とともにパラソルがバタバタはためき、弾丸のように殺戮兵器が飛び出していきました。ヒナタはその軌道を目で追いかけましたが、わたしはしませんでした。オレンジジュースの味が、口いっぱいに広がるのを感じます。音だけ聞いていれば分かります。あれはセキレイでした。


「……でも、変わらないわ」

「何が?」

「わたしが、アレクサのこと、うらやましかったってこと」


 イーサンと一緒にいられるアレクサがうらやましい。

 戦って、父の役に立てることがうらやましいと、かつて彼女は、そう言いました。


「……イーサン、最後、苦しくなかったよね?」

「たぶん」


 わたしは一撃で、彼のコックピットを破壊しました。おそらく、即死したはずです。


「アレクサ」

「うん」

「……ありがとう」


 どこまでも広がる常夏の青空。パラソルに切り取られた濃い影の中で、ヒナタは『ふつう』の優しい女性の顔で、微笑んでいました。


「……うん」


 黄金色の落ち葉が深く積もるあの森のフェンスの前で、わたしはヒナタに出会いました。


 彼女の存在があったからこそ、わたしの幼少期は『恵まれた』ものであったのだと思います。

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