第12話

 その次の次の次の待機の日、グエン軍曹はやってきました。


 リーランド軍曹はいませんでした。彼らふたりがそれぞれ単体でいるところを、わたしはこの時、はじめて見ました。ちょうど出撃や『調整』が重なって、彼らに馴染みの子どもはわたししかいませんでした。


 誰もいないバスケットコートに、青空と日差しが落ちる午後でした。グエン・ミン・ハン軍曹はいつも通り荷箱に腰掛けて、本のページをめくっています。

 彼はわたしの気配に気づいて、顔を上げました。


「やぁ」


 わたしは定位置となった彼の横に座り込みます。


「何を読んでいるんですか?」

「恋の物語」


 表紙にはベトナム語が書かれています。わたしには読めませんでした。


「他のみんなは?」

「みんな、出撃と『調整』です」


 わたしたちの四番機はガブリエルが乗っていきました。イーサンも出撃し、ニコールとアンドリュー、それからアイゼアは『調整』でした。建物の影から、わたしたちより二個上のヴィクトリアがこちらを見つめていましたが、無表情な彼女は少ししてそのまま顔を引っ込めてしまいました。


「お守りの方は順調?」


 お守り。


 わたしはポケットから、カーキ色の紐の束を取り出しました。誰かが捨てたらしい私物のTシャツがあったので、この時のミサンガには派手なピンクの筋が入っていました。Tシャツには卑猥なスラングが書いてあったのですが、裂いてしまえば字も読めません。だいたい当時のわたしには、そのスラングの意味が分かりませんでした。


「もっときれいなお守りが作りたい?」


 肯定。わたしはうなずきました。ヒナタの作ったキラキラしたお守り。あれがわたしの『目標』だったのです。


「……グエン軍曹は、お守りを持っていますか?」


 持っていたら、見せてもらいたいと考えました。それを真似すれば、もう少しでも、ヒナタのキラキラしたお守りに近づけるのではないか。よしんばそれをイーサンが身につけてくれるのではないか。そんな風に考えていたのです。

 ですが、グエン軍曹は、


「悪いが、その類のものは持っていない」

「……そう、ですか」


 落胆。『心』がないにも関わらず、当時のわたしはずいぶん生意気なものでした。


「でも、いいものを持っている」

「いいもの、とは?」


 わたしは顔を上げました。グエン軍曹は、カーキ色の野戦服のポケットをガサゴソやって、


「これさ」


 そう言って彼が差し出してきたのは、小さな箱でした。


 片手でも握れそうなほど、小さな箱でした。水色のリボンがクロスしてかかっていて、それだけでも十分魅力的だったというのに、あろうことか軍曹は「開けてごらん」と言うのです。わたしは彼の言った通り、恐るおそるリボンをほどきました。なめらかなベルベット地の小箱。パカっと開くと、中にはキラキラかがやく小さな石が入っていました。


「これは……」


 指輪。

 目を見開いたわたしを見て、グエン軍曹は笑いました。


「女に振られたんだ」

「振られた?」

「そう、振られた。……嫌われたんだ」


『嫌われた』という言葉なら、わたしも知っています。『嫌い』という概念も知っています。でもわたしに、『心』のないわたしに『嫌いなもの』というのはありません。


「お前にやるよ、アレクサ」

「でも」


 物事の価値基準が不明瞭なわたしにも、その指輪が高価であることは理解できました。


「いいんだ。……お守りにしなさい」


 彼はそう言って、わたしの指にその輪っかをはめてくれました。


 指輪はぶかぶかで、わたしの関節と関節の間をくるくる遊びました。たぶんわたしよりも、ずっと体の大きい、大人の女性に贈るつもりだったのでしょう。わたしの知っていた大人の女性といえば、ミハイロワ先生以外にはいません。


 でもあの時、それは違う人なのだろうと思っていました。だってミハイロワ先生は、リーランド軍曹と愛し合っていたのですから。『あの行為』が心ある人間の行う『愛』であることは漠然と理解していました。でも世の中に『片想い』なる概念が存在しているだなんて、当時のわたしはつゆほどにも知りませんでした。


『愛』というものは、『心』のないわたしには、難しすぎる概念でした。誰もいないバスケットコートの上に、編隊の影が見えました。わたしとグエン軍曹は、影が見えなくなるまで、兵器の編隊を見送りました。


「グエン軍曹」

「ん?」


 わたしは指から輪っかを抜きました。ドッグタグの鎖に、それを通しながら、


「愛って、なんですか?」

「それは」

「……わたしも、いつか人を愛することができますか?」


 なんであの時、あんな質問をしたのか。わたしには分かりません。


 グエン軍曹は黙ってうつむきました。日差しのまぶしいバスケットコートを見つめる彼の目には、悲しみだとか同情だとか、何か言いようもしれない色のようなものが、濃く浮かんでいました。

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