【3】

第7話

 わたしたちがヒナタに出会ってから、一年近くが経過しました。フェンスまでの道には去年と同じように、黄金のトンネルが築かれていました。


 その日、わたしはひとりでトンネルを歩きました。イーサンの『調整』が、いつになく長引いていたのです。そろそろ軍に配属される時期が、近づいてきたのかもしれません。


 ほんの数ヶ月前、わたしがヒナタの赤い靴にあこがれていたころに、何人かが『卒業』し、基地へと移送されていきました。わたしと同じ名前の、もうひとりのアレクサも、その時にいなくなりました。だから今、この養育機関でアレクサといえば、もうわたし以外の誰でもありえないのです。


 話を戻しましょう。ヒナタは今日もそこにいて、いつも通りのあいさつの後、彼女は新しい本を貸してくれました。


「これはね、とてもおもしろいの。胸がワクワクするのよ」


 彼女が何を貸してくれたのか、わたしは覚えていません。ただこのころ、この本の貸し借りの時間は、わたしの胸の中に、重いものがズンとのしかかってくる時間でした。わたしはまだ、ヒナタにシンデレラの本を返していません。毎晩毎晩読んでいて、あれを読めるから、『調整』も耐えられるのです。


「アレクサ、イーサンは?」

「今日は来ない。……『調整』の日だから」


 イーサンの『調整』はまだ終わらないようです。誰よりも『心』というものを強く残しているイーサンのことです。たぶん彼にとって、忘れたころにやってくる『調整』は、死刑宣告にも等しいものだったでしょう。こういう時、『心』のない自分という存在に、ホッとしてしまうのです。


 ヒナタにはたぶん『調整』の意味が分からなかったはずです。彼女はひと言、


「ふーん、そうなんだ」


 とだけ言って、今日学校で会ったことを、面白おかしく聴かせてくれました。


 今思えば、あの時のヒナタの顔には、残念そうな色が浮かんでいました。きっととっておきのネタを、イーサンに聴いてもらいたくて仕方なかったのでしょう。わたしとイーサンは違います。わたしにはヒナタの話を聴いて、笑えるほどの『心』を持っていないのですから。


 話が終わり、わたしたちの間には沈黙が降ってきました。秋の風が、わたしのチュニックの裾をはためかせます。将来、わたしたちが配属される予定の『久我山基地』は、常夏の基地なのだと、ミハイロワ先生は言っていました。


「ねえ、アレクサ」

「なに?」

「わたしね、イーサンが好きなの」


 好き。


 もちろん、言葉は知っています。概念も知っています。でもそれが実際何なのか、わたしには分かりませんでした。


「アレクサ、『好き』って分かる?」


 こういう時、ヒナタはけっこう、するどいのです。


「……よく、分からない」


 わたしはヒナタを見ます。フェンスの向こうにいる彼女は今にも泣き出しそうな顔をして、わたしの方を見返しています。


「わたしね、アレクサがうらやましいの」

「……うらやましい?」


『うらやましい』という言葉も知っていますし、概念だって知っています。でもそれは『好き』という言葉よりも、幾分難しいものであるように感じました。


 ヒナタは視線を落としました。


「だって、いつもイーサンと一緒にいるじゃない」


 それが『うらやましい』ということなのでしょうか?


 たしかにわたしとイーサンは、認識番号が連番で、成績も似たり寄ったりでしたし、いつも一緒にいることは事実でした。でもそれがなぜ『うらやましい』につながるのでしょうか。わたしたちは『心』を持たない『兵器のパーツ』であって、ヒナタような『ふつうの女の子』ではないのです。少なくともヒナタには『調整』をする必要なんてないはずなのです。激痛をともなう薬物注射も、その後の猛烈な頭痛も吐き気も、彼女は知りません。平衡感覚の喪失も、それに伴う転倒も、もちろん彼女は経験したことはないはずです。負けると電流が流される仮想戦闘訓練も、日夜起きるけいれん発作も、彼女の身には起こりようもないのです。


 でも、そんなわたしを、ヒナタは『うらやましい』と感じるそうです。

 いつもイーサンと一緒にいるから。ただそれだけの理由で、『うらやましい』と感じるのだそうです。


 いったいヒナタの生活は、どれだけ悲惨だったのでしょうか。


 ヒナタの目には、わたしの顔が映っています。何もないはずの、平坦な表情が、ほんの少しゆがんで見えます。それが『困惑』を感じた時の表情だということ。それを知ったのは、もっとずっと後のことです。


「ヒナタは、パイロットになりたいの?」

「……ううん。わたしには、そんなこと、できない。でもね、軍に入りたいの。……軍に入って、お父さんの役に立って……。イーサンとアレクサと、一緒に戦いたい」


 それは無理だろうな、と考えました。ヒナタは優しいから、殺戮兵器のパイロットにはなれないでしょう。績隷セキレイだけでなく、瓦緋和カワラヒワであれ祝火針イワヒバリであれ、殺戮兵器のパイロットになるのに、優しさは邪魔なものでしかないのです。


 ヒナタは顔を上げました。

 優しさと哀れみとあこがれと嫉妬、いろいろな感情が混ざった、やっぱりわたしには理解できない、変な笑顔でした。


「ねえ、アレクサ。アレクサはさ、ほんとうにパイロットになりたいの?」


 ほんとうに、パイロットになりたいの?

 わたしの声は、勝手に震えました。


「……わたしは」


 愚問でした。なりたいとかなりたくないとか、そんな問題ではないのです。わたしはアレクサ。認識番号JP07-99-3043。殺戮兵器セキレイの、パーツの一部として生み出されたのだから。


「アレクサは、ほんとうはどうしたいの?」


 ほんとうは、どうしたいの?

 どうしたい?

 わたしは。


「パイロットになるよ。……なりたいの」


 わたしはパイロットになるために生み出されました。だからわたしに、それ以外の選択肢なんて、最初からなかったのです。『心』がないはずなのだから、なりたい、なんて思ったわけではありません。でもわたしはまだ幼く、『心』がないなりに、ヒナタに対して何か思うことがあったのでしょう。


 今思えば、わたしは何かひとつでも、ヒナタに勝ちたかったのだと思います。何かひとつでも、彼女より優れた何かを。何かひとつでも、『心』あるふつうの女の子である彼女よりも、恵まれた何かを。


 何か。


「ヒナタ」


 わたしはたぶん、あの時はじめてはっきりと、彼女の名前を呼びました。


「わたしね、セキレイのパイロットになったら……。自分のセキレイを、赤く塗ってもらうの。そうしたらね、あなたを乗せてあげる」


 ヒナタとイーサン、それからわたし。三人で平和な青い空を、どこまでも飛んでいくのです。これはヒナタにはできません。セキレイのパイロットになるべくして、『心』を持たない生を受けたわたしだからこそ、言えたことなのです。


『心』がないなりに、得意げになったわたしに対し、ヒナタは笑顔を浮かべました。

 おそらくそれは、心からの笑みでした。


「アレクサ」

「?」

「……ありがとう」


 ヒナタと過ごした日々を思い出す時、後にも先にもこの笑顔より、印象的だったものはありません。


   ※


 それからまた冬が来て、遅い春が来ました。ヒナタは時おり『シンデレラの本を返して』と催促してきたのですが、わたしはのらりくらりと言い訳をし、返すのを先延ばしにしていました。それくらい、わたしはあの本を気に入っていたのです。


 明日返そう、明日こそ返そう。そう考え続けていたある日、唐突な別れがやってきました。わたしとイーサン、それから数人の同期生たちが、久我山基地へ配属することに決まったのです。


 わたしたちは『心』を持たないパイロットであり、セキレイの部品であり、すなわちそれは『モノ』であるということでした。それでもほんの少しの猶予は与えられて、わたしたちはヒナタにさよならを言いました。


 ヒナタは泣きました。けれどもわたしとイーサンは、泣きませんでした。


 わたしたちが移送されるその日、ヒナタはわたしたちに手紙をくれました。かわいいピンクの封筒には英語で『いつか、あなたの赤いセキレイに乗れる日を、楽しみに待っています』と書いてありました。イーサン宛の手紙に何が書かれていたのか、わたしは知りません。けれども便箋の枚数は彼の方が多く、アクセサリーも入っていました。


「なんて書いてあったの⁉︎」


 移送用のヘリコプターの風を受けながら、となりにいるイーサンに聞きました。


「なんでもないよ!」


 ヘリコプターの羽の音がうるさく、わたしたちの髪をバタバタ揺らしていました。ガブリエルが、ニコールが、アンドリューが、アイゼアが、無表情でヘリを見上げています。無表情な子どもたちの中で、イーサンの腕に巻かれたビーズのブレスレットが、夜闇の星みたいに、キラキラかがやいていました。


 わたしはヒナタに、シンデレラの絵本を返しませんでした。

 わたしたちが、セキレイの正式なパイロットとして久我山基地に迎えられたのは、その翌日のことでした。

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