第15話 見習いの手並み



「……」

「ふら」

「静かに。急に動かないで」


 壁に立ててあった短槍を取ろうとしたルーシャを止めた。



 砂利を踏みながら一歩、二歩。あまり得意ではなさそうな二本足で寄ってくる巨体。フラァマより頭ふたつほど大きい。

 木の幹のような灰茶色の毛並みで、立ち上がると少し痩せて見える。

 まさに話していた柿持熊かきもちくま。あまりまじまじと見たことはなかったけれど、実際に手の平が色付いた柿のよう。


 まだかなり遠い。攻撃するとかそういう距離ではないのに立ち上がっていた。

 もしフラァマ達を襲うつもりなら、四つ足で駆けてきた方が早かっただろうに。



「先日とは違います。ただの獣です」

「ただのって……」

「迷い込んで開けた場所に出てしまい、私たちを見て驚いただけです」


 別の生き物の縄張りに入ってしまったと理解して、驚きで威嚇の姿勢を取っているだけだ。

 悪意や害意があるわけではない。忌吐いみばきと違うし、忌吐きに追われて興奮していた猪狸いのたぬきとも違う。



「ルーシャ、動かないで。落ち着いて息をして、ここで待っていて下さい」

「フラァマ」」

「大丈夫」


 先日の襲撃を受けた上で少し出かけようとしたのだ。

 用心して準備はしている。色々と。


「あなたが変なことをしなければ大丈夫ですから」

「……わかったわ」



 にじり寄るかどうするか戸惑っている柿持熊に、ゆっくり過ぎず急ぎ過ぎない足で近付いた。

 ここで変にゆっくり過ぎると余計に神経を尖らせてしまう。もちろん早足など論外。


「ここはお前の来る場所ではありません。森の魔女の家ですよ」


 話しかけながら。以前にお師様がやったように……お師様はもっと面倒そうな言い方だったかもしれない。


「魔女リンゴの弟子フラァマが言います。帰りなさい」

「Wo……Wuu」

「ウォ・ウー? 帰りなさい、ウォ・ウー」


 名乗ったわけではないだろうが、柿持熊の唸りを優しく返しながら腰の小瓶を取った。

 砂利との境辺りまで来ると、柿持熊との距離が残り十歩もないくらい。

 ゆっくりと頷きながら、瓶の液体を垂らしながら横に線を引く。


 液そのものは強い匂い。地面に撒かれたそれが周囲を漂い、柿持熊が肉球より赤っぽい鼻をひくひくと動かした。


「わかりますか、ウォ・ウー。ウォ・ウー」

「……」

「ここは魔女リンゴの住まい。この先に進めばお前はシチューの肉ですよ。ウォ・ウー」


 柿持熊が前足を下ろす。

 飛びかかってくる体勢ではないと見て次の瓶を手にした。場合によっては違う手だったけれど。



「そうです、ウォ・ウー。お前の道はこっちじゃない」

「Wu……」


 新しい瓶に木で出来た小さな筒を差して、取り出してから筒の反対を口にする。

 ふうぅっと息を吹き込んだ。


 筒の出口から、少し甘い匂いをさせながら丸く膨らむ泡玉。

 手の平より大きく膨らみ宙に浮いた泡玉に、柿持熊の顔もつられて上がる。

 背中のルーシャも、フラァマからは見えないけれど同じような顔をしているのだろう。そう思うと少しおかしい。



「それについて行きなさい。お前のいるべき場所に」


 言いながら、もうひとつ別の筒――さっきのより少し太い筒を加えて、泡玉の背中を押すように吹いた。

 ゆっくりだが力を感じる風が泡玉を包み、柿持熊の頭上を抜けて入ってきた方角に向けて流れていく。

 頭に一粒の雫を受けた柿持熊が泡玉を追って背中を向けた。そのまま敷地から去っていく背中を見送って。




「……今の、魔法?」

「ただの道具ですよ。最初のは月菊の花から作った香水で、大抵の肉ある獣の気持ちを宥めます。人間でも、極度に興奮した場合に飲ませることがあるとか」


 半分以下に薄めてですけど、と。すぐ後ろに来ていたルーシャに瓶を見せてから腰帯に戻す。

 柿持熊の姿は森の奥に消えていった。


「泡玉の液は腐った果実から作っています。すごく甘い匂いで酒精もありますが、獣が引き寄せられるんですよ。いざとなったら瓶をそこらに投げつけて逃げることも」


 液で濡れた筒を、いつも使う葉っぱで拭う。

 そのままにしておくと甘い匂いが染みついてしまうが、この葉っぱは臭気も軽減してくれる便利なものだ。だからお尻を拭くのにも適しているのだけれど。



「魔法はこっち、筒の方ですね。なかなか割れない泡玉を作る筒と、風を吹かせる筒。お日様がこれくらい動くまで消えない風です」


 これくらい、と人差し指と中指を立てて見せた。

 太陽がこの指の角度くらい傾く時間まで吹き続ける。


「これもニウ・リンゴの魔法?」

「私が作ったんですよ。この小瓶も」


 指先で弾くと蓋が開いて、指で軽く押さえればきゅうっと閉まって中身が漏れない。


「お母様の香水の瓶がこんな蓋でしたわ。お姉様のはわたくしに開けられなかったのだけれど」

「魔法の仕掛けで持ち主しか開け閉めできないようにも出来ます。作る時にその人の血か髪の毛が必要です」

「そうでしたの」


 場合によっては危険なものもある。そうした仕掛けも必要だ。

 町の魔女が作ったのだと思う。



「もっとすごい魔法でやっつけてしまうのかと思いましたわ」

「仕留める手も持っていましたが、暴れられたら危険だったでしょう。殺す理由もありませんから」

「シチューのお肉は?」

「熊の解体は大変ですよ。半日かかりますし、この時期じゃ結局肉が傷んでしまいます」


 吊るして血を抜いて腹を裂いてなどかなりの労力。その挙句に熱に負けて臭くなった肉なんて割に合わない。

 涼しい時期だったらシチューになっていたかもしれない。お師様が腹を減らしてここにいたら問答無用だったか。あの柿持熊は運が良かった。



「それより家に入っていて下さい。やはり気になります」

「どうしたの?」

「獣がここに入り込むのは滅多にありませんし、近場で柿持熊なんて珍しい。おそらく双鼻竜ふたはなりゅうが歩いたせいで追われたんでしょうけど」


 柿持熊や猪狸が入ってきた方角。おそらく忌吐きも同じところから。

 確信が持てたので、今の遭遇も無駄ではない。


「お師様の結界が破れています」



  ◆   ◇   ◆

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