罪と罰

@3372mugi

第1話

午前4時半。

 何度かの失敗とそれに伴う苦痛を経て、今では少年は、まだ陽も昇らない真っ暗なその時間に毎日絶対に目覚めるようになった。目覚まし時計などという物はもちろんない。少年には、薄い、擦り切れて汚れた一枚の毛布以外には、寝具すら与えられていなかった。11月の朝方はしんしんと冷え込む。数枚の新聞紙と擦り切れた毛布にくるまって、少年は冷たい床に直接横になって寝ていた。

少年は毎朝、真っ暗な中で目を覚まし、自分が目を覚ましている事に絶望するのだった。今日も1日が始まる。痛みと屈辱と恐怖に満ちた1日が。神様、どうか寝ているうちに僕を消し去って下さい。少年は毎晩神に祈って眠りについた。しかし祈りが聞き届けられる事はなかった。父と母は天国に行ったのだと、葬儀の時に神父は少年に言った。天国からずっと君を見守っているのだと。そして祈れば、いつも神は応えてくれると。早く僕を天に召して下さい。天国で父と母に合わせて下さい。そう毎晩祈りながらもそれを信じる事は、少年にはもう出来なかった。ただ、苦しみから解放して欲しい。シャボン玉が消えるように、寝ているうちにふっと、消えてしまいたい。今ではそれが、少年の唯一の望みだった。


 朝の仕事は少なくない。この時間に起きないと、学校に行く前に終わらせる事はできない。冷え込んだ床から上体を起こそうと手を動かすと、背中が激しく痛んだ。昨夜の罰の記憶が蘇り、少年は歯を食いしばった。「罰は50回ね」と言った伯母の顔は嗜虐的な喜びで暗く輝いていた。あの人達は苦しむ僕を見て楽しんでいる。痛みに悲鳴をあげ、全身を強ばらせてのけぞる姿を、心底楽しんでいるのだと気付いた時、少年は恐怖で体の震えを抑えることができなかった。そんな恐怖で震え上がる姿をまた、2人は楽しんでいるのだった。

 昨夜、針金のハンガーを捻った手製の鞭で30回打たれた所で、少年は一度意識を失った。背中の皮膚は裂け、血が滴り落ちた。少年の意識を取り戻させる為に、彼の従兄は少年に思い切り平手打ちをした。意識を失った者を打っても面白くないのだ。痛みに顔を歪ませ、涙を流して許しを懇願する姿がないと、楽しめないのだ。意識を取り戻させられた少年は従兄に髪をつかまれ、風呂場まで引きずられた。風呂場の床に倒れ込んだ少年は冷たいシャワーの水をかけられて、痛みと寒さでガチガチと震えた。何度も何度も浴槽の水に顔を突っ込まれる罰受けた恐怖が蘇る。「ごめんなさい。許してください。ごめんなさい。お願いします。許して…」意味のない言葉だと分かっていても、許される事などないと分かっていても、言いやめる事はできなかった。伯母が風呂場にやってきて、自分の息子にゴムホースを渡して言った。「こいつびちょびちょじゃない。あんた、これで残りの20回やっといて。」

 そのゴムホースは少年を打つためにホームセンターでわざわざ買ってきたものだった。いや、そのゴムホースを買いに行ったのは少年自身だった。自分を痛め付けるための道具を、彼は自分で買ってくるように命じられた。断ることなんて出来なかった。ホームセンターまで歩く道中、少年はこのまま逃げ出そうと何度も思った。でも、彼はその時もうすでに恐怖で支配されていた。逃げ出したいと考えるのと同じくらい強く、連れ戻されたら味わうであろう苦痛に対する恐怖が彼を襲った。ここに来てすぐの頃に、彼は一度耐えきれずに逃げ出そうとした。でも、土地勘のない小学生の彼が、逃げられる場所はなかった。途方に暮れているところを捕まり、家に連れ戻された時にはひどい拷問を受けた。無駄だ。今度もきっと逃げ出せない。結局はいつも、恐怖が勝つのだった。ホームセンターに着くと彼は、渡された金で言われたようにゴムホースを買った。小さな震える声で「40センチ下さい。」という少年を、ホームセンターの店員は一瞬訝しんだ。ホースを40センチ、何に使うのだろうか。でも、まあ、いろんな客がいる。自分には関係のない事だ。

そして家に帰り着くと、自分で買いに行かされた鞭で少年は打たれた。「僕はバカだから。悪い子だから。クズの奴隷だから。鞭で打たれるのは当然。その証拠に僕は自分でそれを買いに行ったじゃないか。」自分でそれを買いに行ったという事実は彼の心を深く傷付け打ち砕いた。それ以降、彼は抵抗するのをやめた。何をされてもただひたすら歯を食いしばり、声を漏らさないように自分の服や、時には腕を噛みながら耐えた。逃げる事もしなくなった。罰だと言われたら自ら上半身を剥き出しにして、跪いた。

 昨晩、残りの20回をゴムホースにしてくれたのは、あの女の情けなのだろうか?ゴムホースの鞭もとても痛いけれど、針金ハンガーよりはマシだ。風呂場で立たされて残りの20回を数えさせられながら、少年は意識を失い倒れてしまわないように、自分で自分の太腿を抓り続けた。伯母は自分の息子が自分の甥を打ちのめすのを煙草を吸いながら眺めた。まるでショーを眺めるように。そしてショーのフィナーレは人間灰皿だ。女はその瞬間を楽しむように、薄い笑みを浮かべながら少年に煙草の煙を吹きかけた。少年はその匂いを嗅ぐだけで、背中が激しく痛み胃液が逆流しそうになった。歯をくいしばり、全身に力を入れてそれを待ち受ける。神様、どうか力を下さい。これに耐えられるだけの力を。どうか、悲鳴をあげずに耐えられますように。目をぎゅっと瞑り、なんとか心のスイッチをオフにしようと試みた。ジュッと音がして肉の焼ける臭いがした。「ングッ、グェッ」激しい痛みに頭が真っ白になり、思わず声が漏れそうになるのを手で必死に口を押さえて堪えた。全身を痙攣させ倒れ込む少年を見下ろし、「ドレイのレがもうすぐ完成ね!」と親子は楽しそうにゲラゲラと笑った。少年の目は助けを求めて虚に宙を彷徨ったが、助けはどこにもなかった。親子が虐待に飽きて風呂場を後にしてもしばらく、少年は立ち上がる事ができず激しく震えながら、壊れたレコードのように、か細い声で「ごめんなさい。ごめんなさい。」と繰り返していた。痛みのあまり、少年は失禁していた。


 4時半を5分回った。背中の痛みと闘い、少年はなんとか四つ這いになった。肩で大きく息をしながら、歯を食いしばって痛みを堪えた。グズグズする時間はない。早く起き上がって仕事にかからないといけない。何とか立ち上がると、少年は目をぎゅっと瞑って「お願い、動いて。」と自らに呟いた。一度身体が動き出せば、脳は痛みを幾分忘れるのだ。彼はそれを経験から学んだ。

洗濯機を回してから、風呂掃除とトイレ掃除、それから玄関の中と外を掃除する。箒ではいたら全てをくまなく雑巾掛けする。洗濯物を干し、家中の窓ガラスを拭く。伯母が起きて来たら、盗み食いをしないように監視され怒鳴りつけられながら朝食の準備をする。親子が朝食を摂っている間に家中のゴミを集める。今日はゴミ出しの日だ。

 「おい、奴隷!!」ゴミを集め終わり、親子が食べ終わった食器を片付けようと台所に向かったところで大声で呼びつけられた。少年は「はい」と怯えた声で返事をしながら台所に急いだ。また何かミスを犯したのだろうか?片付けに行くのが遅かったのだろうか?慌てて台所に着いた少年は床に落ちたパンを目にした。何かまずい事が起きたようだ。一体何をされるのだろう。少年は恐怖に身体が震えそうになるのを必死に抑えた。「食べろ」従兄弟がパンのかけらをこちらに蹴り飛ばしながら冷たい目で言い放つ。伯母は呆れたように鼻を鳴らすが、内心は2人とも面白がっているのだ。

 「はい」少年はすぐさま床に正座をし、迷う事なく蹴られたパンを口に入れる。どんな命令でも逆らうことは許されない事を、少年は身を持って嫌というほど思い知らされている。床に落ちたパンを食べる事など、もはや何でもない事だ。彼の自尊心はもう擦り切れて、糸屑のように吹けば飛ぶ代物になっていた。土下座をしろと言われたら泥水の中でも土下座をするし、舐めろと言われたら便器でも舐めた。つらいという気持ちが無いわけではなかったが、恐怖が屈辱感に勝り、そしてそんな自分を自分でも蔑んでいた。それなのに親子は定期的に、少年の自尊心を傷付ける手を緩めなかった。ほんの少しでも、彼の尊厳の残骸を探しては叩き潰すのだった。

 「朝ごはんもらっといてお礼もないのかよ!」何が起こっているのか読めず、混乱し怯えながら咀嚼する少年の頬を、女が思い切り平手打ちする。「ヒッごめんなさい!ごめんなさい!」少年は弾かれたように床に頭を擦り付けて謝る。もはや身体の震えを抑えられない。罰だけは免れたい。2日連続の鞭は耐えがたい痛みだ。吐き気がして思わず食べた物を戻しそうになり、必死で飲み込む。ここで吐いたりしたら何をされるか分からない。怯える少年の頭を踏みつけながら、親子は台所を後にする。「助かった」少年は内心胸を撫で下ろした。これだけで済んだのは、彼にとっては幸運なことだった。


 恐怖、痛み、屈辱、悲しみ。

 それがこの家で彼が味わった感情のほとんど全てだった。かつて、愛され、慈しまれ、喜びや楽しさで満ちていた彼の日常は、両親の突然の事故死で粉々に砕け散った。櫂都と呼ばれていた少年は、今では名のないただの奴隷になった。「はい」「ごめんなさい」「許してください」彼が日常的にこの家で発する言葉は主にこの3つだけだ。名前を呼ばれる事はもうない。何もかも奪われた彼が唯一縋ったのは、たった1つのほんの小さな、糸屑のような自尊心だった。それは彼らを憎まない事。何度も何度も執拗に叩き潰され擦り切れ果てた彼の自尊心だったが、それでも心を憎しみにだけは支配されたくなかった。恐怖に支配されて身動きが取れず、自ら奴隷である事を受け入れてしまった後も、憎しみに支配されなければ、心だけは自由でいられると彼は信じた。

 「何があっても、人を憎んではいけないのよ。憎しみに心が支配されたら、あなたがあなたでなくなってしまうから。」

そう教えてくれたのは母だった。少年はその教えだけは、守りたかったのだ。

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