第9話 羽虫男

 茜差す紫の空には、雲を象るような眩しい光が細く描かれている。いっそ亀裂が走ったようにも見える入日の御光は、きっと目を離した隙に夜へと変わる。冬も一寸先にまで迫ったころの夕暮れ時は、きらきらしくも肌寒かった。

 サダルメリク、ネブラ、ラリマーの三人は馬車に揺られている。連絡を受けたブルース侯爵が迎えの馬車を出したのだ。

 国賓を二度も失踪させたとして、近衛星団の力の入りようは凄まじかった。馬車の遥か頭上では箒に乗った団員が警戒態勢を取っているし、馬を扱う御者の隣にも団員が座っている。ただし、その静けさは星の瞬きさながらで、地を鳴らす蹄と車輪の音だけが小気味よく町に響いていた。

 馬車に揺られながら腕を組むサダルメリクは、「仕事を手伝ってもらうとなれば、これから忙しくなるよ」とネブラに告げた。


「へいへい。どんとこい」

「その態度は頼もしいけどさ、本当に、いよいよ近衛星団は本腰を入れるよ。というか、入れざるを得ないんだ。僕の見立てでは、この事件は警察じゃ捜査しきれなくて手を引くと思う」サダルメリクはフルートを振るう。「のせいでね」


 割れた注射器が宙に浮かぶ。ネブラやラリマーの会敵した魔法使いが使っていた薬の残骸だ。詩の蜜酒を加工したものだと推測されていて、甘い匂いがする。

 サダルメリクとネブラの体面に座っていたラリマーが「それがどうかしましたか」と言った。


「主成分が詩の蜜酒なのは間違いないとして、あとは高純度の聖水と電解質、バイコーンの尿、ホーリーバジルと気違いナスビの煎じ湯を少々ってところかな……材料からして、魔力の一時的な底上げを目的としています。詩の蜜酒単体で摂取するよりも即効性がある。とんだ薬物だよ。こんなものを作った人間が過激派にいるのだとしたら厄介なことになります。やってることは神の偉業に等しいのに、斬新すぎて薬事法のどの類にも引っかからない……見つけだせたとして、実行犯や主犯でないなら、たとえ過激派の一味であっても、そいつを取っ捕まえる理由がないわけです」

「法の上の罪を理由に捜査する警察じゃ、動くに動けないわけだ。それこそ、法ではなく皇家の命を理由に行動できる近衛星団じゃなきゃ」

「そのとおりだよ、ネブラ」


 ラリマーは数度と目を瞬かせてから口を開く。


「きちんと調べたわけでもないのに、見ただけで成分がわかるのか」

「え、そこ?」

「自分の命への危機感のなさ」

「なにを根拠に成分を割りだしているのですか?」

「うーん。ざっくり言うと経験に尽きるけど、見てるものは魔力でしょうかね」

「魔力……薬の材料となるものが本来持つ魔力?」


 サダルメリクは頷いて、自分の蟀谷こめかみを人差し指で小突き、「公子のかけてらっしゃる魔法道具と同じですよ」と言った。

 ラリマーは眼鏡に触れる。魔法の痕跡を辿るための魔法道具だ。もう使う場面もないだろうと、おもむろに外した。


「先生はその薬に使われている材料の魔力を読み取ったのか?」

「そういうこと。そもそもの話からしようか。紀元前ならいざ知らず、現代のの大抵はを指す。理由は単純。わずかでも魔力がこめられていることが魔法薬の定義であるなら、魔法のありふれたこの時代じゃ、使用成分やら製造過程やらで、どうしても魔力は混入するからだ。例外として、魔力アレルギーを持つひとのために魔力非含有マジフリーの薬もあるけどね。それはあくまで特別な製法で作られているのであって、一般的な薬の材料は多分に魔力を含む。たとえば、成長痛の痛み止めにはゴブリンの化石、化粧水や美容液には不死鳥の血清、自白剤にはブギーマンの気配などが材料としてよく見られる。探せばもっとわかりやすい例だってあるだろうね」

「俺の国では、ユニコーンの角が解毒剤や解熱剤に使われています。また、非常に珍しい枝角のユニコーンとなると、その角に触れただけで毒物は蒸発すると言われていますね」


 ラリマーの相槌に、サダルメリクは「ユニコーンってだけでただでさえ珍しいのに、枝角のユニコーンとかもいるの? すごいな公国」とこぼした。

 話が逸れていい気はしない。ネブラは小さく唸ってから、再び口を開く。


「じゃ、先生は、バイコーンだのホーリーバジルだのの魔力を判別したってことかよ。警察の鑑識捜査も形無しだな」

「たまたま見覚えのある魔力だったからわかっただけさ。この薬だってもっとちゃんと調べたほうがいいよ。僕には見つけられなかったものが見つかるかもしれない」

「これを作った犯人の魔力は?」

「それこそ鑑定しないと。魔力なんて、ごく身近な相手のしか覚えがないよ」サダルメリクはにっこり笑う。「ネブラの魔力なら僕は一発で見抜ける自信があるね」


 感覚が鋭敏な者であれば、そのぶん魔力の判別も容易だ。道具もなしに一瞬にして、それが誰の魔力か、どれだけの魔法を使った痕なのかもわかる。

 ネブラは「悪いことはできねえな」とぞっとするふりをした。


「特徴を掴みやすいんだよね。魔力ってひとによって全然違って、そのルーツは《大洪水》まで遡ると言われている」

「公国にいたころの魔法の授業でも習いました」ラリマーが言う。「《大洪水》のおかげで陸の生物は多く死に絶えたが、海や空の生物のほとんどはその難を逃れ、環境に適応して進化した。人魚には羽が、妖精には鱗が生えた。同じように、生き残った人類の原種と魔力の持つものが交わることで、人が魔法を使えるようになったのでは、と」

「いろんな説はあるけど、異種族と混ざって魔力を強めたというのが一般的な見解ですね。なので、混ざった血の影響か、あるいは個人の体質や性質か……各々の持つ魔力は特有の個性を持つ。たとえばだけど、僕の魔力は水っぽいとよく言われます。それが関係してるのか、僕は水辺のほうが調子がいいし、水を操る魔法も得意だ。あとはネブラ、君は昔から炎と相性がいいね。周りの火が君の魔力に反応している。これらのような生まれ持っての性質を隠すことは難しい。魔法として現れた現象以上に、魔力は正直だ。人由来であろうと、材料由来であろうとね」

「魔力の精査で大抵の事件は解決するってことだろ」

「大抵はね。でも、すんご~い稀の稀に、難航することもあるんだ」サダルメリクは片目を瞑る。「ここで二人に問題。《大洪水》で沈んだものを挙げてみて。なんでもいいよ。植物でも動物でも鉱物でも」


 ネブラとラリマーは間を置かず答える。


「植物ならマンドレイク、生物ならゴブリン」

「鉱物となると、かつてアトランティス帝国でのみ採掘されたとされる伝説の金属、オレイカルコスが有名ですね」

「そうだね」サダルメリクは頷いた。「化石としてわりと頻繁に発掘されるゴブリンはともかく、言い伝えやわずかな資料にしか残らないマンドレイクは、たとえこの世界に再び現れたとしても、その魔力を察知できない」

「……見たことも感じたこともない魔力は判別できないということですね」

「公子のおっしゃったオレイカルコスにしたところで、もしかしたら僕たちの身近なところにあるかもしれませんよ? でも、誰も知らないから魔力からの判別はできない。同じことが事件の捜査にも言える。記録にない魔力は手がかりにならない。これがの中身」


 ラリマーは「なるほど」と顎に手を遣り、しげしげとサダルメリクを眺めた。


「ハーメルン氏は物知りですね。説明もお上手だ。勉強になります」

「公子にそのように評価していただけるとは、面映ゆいですね」

「ブルース候からも貴殿のことは伺っている。帝都でも指折りの魔法使いだとか」

「いやあ、そんなそんな。よく言われる謳い文句だけど、あくまで帝都出の魔法使いの中でもって意味だから……僕は二等級ですけど、近衛星団には一等級の魔法使いだってごろごろいるので。本当は名が挙がるほど大した者じゃないんですよ」

「ご謙遜を」


 二人の会話に、ネブラは眉を顰める。己の師匠に媚びを売っているように見えるラリマーにも、ラリマーの世辞に笑みを浮かべているサダルメリクも、なんとなく気に食わなかったのだ。気に食わないならば態度で示すのがネブラだ。というわけで、ラリマーの腰かける座席のあたりを思いっきり蹴ってやった。わかりやすい威嚇行動によって馬車はわずかに揺れた。

 しかし、あからさまに邪険にするようなネブラの態度など、ラリマーには痛くも痒くもないようで、「躾のなっていない足だな」などと漏らしただけだった。ラリマーは高貴な出自であり、言葉を選ぶ品位も持ち合わせているため、こういう直接的な物言いをする際はかえって悪意がほとんどない。昼間の暴漢たちに話しかけたときなどがそうだ。相手の気分を害そうという意図はなく、本音が漏れた感覚に近い。その傲慢な気質が、ネブラと致命的に相性が悪い。


「人間を相手にとは、えっらそうな公子さまだな!」

「俺はえらそうなんじゃない。えらいんだ。お前は大してえらくもないのにえらそうだが、いったい何様なんだ?」


 ネブラからしてみればラリマーに神経を逆撫でされているような感覚だろうが、ラリマーからしてみればネブラが無駄に突っかかってくるような感覚だ。互いが相手に言い返している気持ちでいるため、微妙にずれたまま平行線で口論が続く。

 二人の様子を眺めていたサダルメリクは、小さくため息をつく。


「そういえば、ラリマー公子は、どうして“恭順の魔法”なんて知りたいんだい?」


 大人の目から見て、二人に足りないのは相互理解。互譲の精神。なので、サダルメリクがそのように尋ねたのは、純粋なお節介からだった。情緒を乱されて怒ってばかりいるネブラが、あまりにも見ていられなかったから。

 サダルメリクの質問に対して、ラリマーは静かに顎を引く。答えるのを少し躊躇うようなそぶりを見せたものの、次に告げた言葉には淀みがなかった。


「将来、俺は帝国の第四皇女であるアメトリンさまと結婚することになります」

「婚約してるんだっけ」

「はい。そのため公国の臣下は、婚姻後、公国が帝国に飲みこまれると恐れている」

「だから奴隷を調教して、兵士にして、力を蓄えて反抗しようって?」

「まさか。純粋に国力を上げるためですよ。アトランティスほど魔法が発達していないため、マンパワーこそ文明であり力。国力が上がれば、帝国は下手に我が国を軽んじることはできなくなる。自分が将来統治する国を慮ることは当然だ」

「生まれた母国のため。奴隷解放の進む世界で、現状維持を選んだわけか」

「魔法が発展すれば奴隷も不要になるでしょう。しかし、まだその時ではない。一度でも訪れたことがあるならばご理解いただけると思うが、我が国は奴隷が労働をこなすことで稼働しているものがあまりに多い。国を円滑に運営していくのに、奴隷を欠かすことはできない」

「ふうん。自分の物差しで勝手な立場を押しつけて、そうやって誰かを迫害するように傷つけることは、よくないことだと思うけどね」

「まさか貴殿は俺に恭順の魔法を学ぶなと言いたいのか?」

「頭回せよ。相手の立場になってみろって話だろうが」

「相手の立場になる? なんだそれは、前世か来世の話か? 今の俺が俺でなくなるのは死ぬときくらいのものなのに、考えるだけ時間の無駄だ」

「うん。あのね、公子、」


 サダルメリクが言葉を返そうとしてすぐ、「そうだな、無駄だよ、先生」とネブラが吐き捨てるように言った。窓の外の景色を眺めていると見せかけて、ネブラの目はラリマーを見ていた。ネブラは片手間で相手を罵らない。全身全霊で嫌味を放つため、視線は常に相手へと向けられている。特に嫌いで傷つけてやろうとしている人間ならばなおさらだった。


「こんな尊いお方に対して、人間の命は同価値だ、なんて説いても無駄だ。自分は磨かれた宝石とでも思ってるからか知らんが、下賤な民なんざ石ころにしか見えねえ、致命的な病気にかかってんだよ。ケートス先生だって匙を投げるぜ。こいつに効く薬はありません、ってな」


 何度も何度も突っかかられた鬱憤もあり、さしものラリマーも気分を害して、美しい眉を顰めた。サダルメリクが「落ち着きなよ、ネブラ」と断じたけれど、ネブラとラリマーは「は?」「あん?」と睨み合う。そこからはドミノ倒しのようだった。


「そう言う貴様はずっと俺に噛みついてきていたな、狂犬病か? 口輪はどうした? 隔離所から脱走したときに失くしてきたのか?」

「へえん、石ころじゃなくて犬ころに見えてんの。幻覚症状まで出てるとなりゃあよほど重症らしいな。アトランティス帝国にその風土病持ちこまないでくれる?」

「ちょっと、二人とも」

「こんな躾のなっていない野蛮な獣を放し飼いになってるなんて世も末だな」

「蝶よ花よと育てられた無知な坊ちゃんが世間を語るなんざ百年早えんだよ」

「無知はどちらだ? 他国の公子を前にここまで無礼な態度を取れる、その学のなさと面の皮の厚さは称賛に値するが」

「おっと、パパとママに泣きついて怒ってもらおうってか? えーん、助けて、ボクのことを馬鹿にしてくるやつがいるんだよう、って。立場のある人間はいいねえ。俺には無理だわ、恥ずかしくて」

「あれー? 僕の声聞こえてるー?」


 サダルメリクの苦笑いを最後に、ラリマーは重くため息をついた。その自重で沈みきった声のまま「やめだやめ」とこぼす。テンポよく崩れつづけたドミノが最後の一枚を倒したのだ。しんと静まり返るなか、ラリマーは気怠げに前髪を払う。

 一方のネブラも、熱していたところを冷や水を浴びたようにおとなしくなった。

 ややあって、ラリマーが再び口を開く。


「とにかく……俺は国のために魔法を学びにここまで来た。貴様がなんと言うと関係ない。さきほどの会話については互いに不問としよう。ハーメルン氏も、困らせてしまったようで……国を代表して来ているのにお恥ずかしいかぎりだが、俺も些か冷静さを欠いていたようです。申し訳ありません」

「いやあ。お気になさらず。僕はびっくりしちゃっただけなので」サダルメリクはひらひらと両手を振った。「こちらこそ、ネブラが言いすぎちゃってごめんね。わかっているよ。貴方には貴方の事情がある。公子として国のためにという心がけだって立派だ。素晴らしい責任感だと思っています」

「責任なんて軽いものではない。俺のこれは職務ではなく、人生だから」


 だったら、俺のこれは仕事じゃなくて、人生だ——その昔、目の前の高貴な少年と似たようなことを、いまにも死んでしまいそうなずたぼろの少年が言ったのだっけ。

 ふとサダルメリクは思い出して、笑みにもならない表情を浮かべる。


「将来の国の長として堂々たる振る舞いをすべし、歴史に名を残せるような一廉ひとかどの人間になるべし。いつ帝国に侵略されてもおかしくない小さな国の世継として、生まれたときからそのように望まれた。人間の命が同価値であるわけがない。もしそうなら俺はこんなふうに生きてはいない」ラリマーは強い瞳で言う。「俺はえらそうなんじゃない。えらいんだ」


 気高い様でそう言い切ったラリマーの声は、実に淡々としていた。それは、定められた条文を読むような、単なる事実を述べるような、そういった温度のなさとは違っていた。ただ、これまでと同じような会話にすぎない——その姿勢は、ラリマーの本心からの言葉であると、言外に伝えている。

 不遜にして愚直。

 サダルメリクは感嘆してしまった。ネブラとは正反対の心根。両者間で調和が取れないのは当然だ。犬猿というか、まさしく水と油。相容れることがない。

 呆気に取られたように息をつき、サダルメリクは苦笑する。


「……ええ、そうですね、公子」ただ、とサダルメリクは続ける。「僕が言いたかったのは、目的が国のためなら、他のやりかたもあるということです。力を持たない人間の力なんて借りなくとも、誰かがつらい気持ちになるような方法を選ばなくとも、きっと貴方なら国を導ける」


 そう言われて、ラリマーは目を見開かせる。静謐な水面に似た瞳は、開かれたことにより多分な夕明かりを取りこんだ。どれだけ気高くとも、そのような表情でいればあどけなくも見える。ラリマーはネブラと同い年の、まだ瑞々しい少年だった。


「望めばなんだってできるよ。僕たちは魔法使いなんだから」


  




 さて。ここでもう一人の迷える魔法使い見習いについても述べておこう。その見習いというのはもちろん、「お前はついてくんなよ」という一言で一人帰路につかされた、哀れなコメットのことである。

 サダルメリクが駆けつけて、いよいよ魔法使い見習いとして修行にふさわしいお手伝いができると意気ごんで、しかしその希望はものの見事に打ち砕かれた。もちろんごねた。わりと本気で縋りついた。それも全部いなされ、三人は悠々と馬車に乗って行った。まさか本当に置いてけぼりにされるなんて思わなかった。ショックを受けてしばらくその場に放心したほどだった。

 暗い顔のまま、コメットはとぼとぼ帰り道を歩く。


「なんで僕だけ……?」


 目と鼻の先にあったご褒美を取りあげられたような気分だ。せっかくサダルメリクがその気になってくれたのに、コメットだってついていきたかったのに、ネブラは邪魔だとでも言いたげに、コメットを拒んだ。

 たしかに、ネブラはなにも教えてくれない意地悪な師匠で、コメットをねた回数なんて足の指を入れても足りないくらいだ。それでも、先刻の拒絶は、これまでにないほどコメットを強く打ちのめした。どれだけ嫌な顔をしていたとしても、コメットがそばにいるのをネブラが拒んだことは、実は一度としてなかったから。

 とぼとぼと煉瓦の道を辿り、萌黄色の丘の上、三階建ての塔のような家はもう目の前だった。けれど、コメットは「“開けゴマ”」と言う気力も残っておらず、庭の真ん中に倒れこんだ。

 突っ伏せば緑と土の味。ごろんと半身に横たわる。見ごろを終えたアメジストセージはしゃらんしゃらんと風に揺れていた。化粧桜ケショウザクラの飴玉みたいな蕾も震えている。その様を映すコメットの瞳も震える。


「うっ……ぐぅう、うううっ」


 じわじわ、ゆるゆる、瞳の水面が波打つ。睫毛が湿る。唸る声が濡れていく。

 ぐしゃりと庭草を握り締めた。手の中に冷たい土が潜りこむ。その温度さえ悲しかった。自分のことをほったらかしにする、ネブラの言葉みたいで。

 

「ああぁあぁぁもうやだあああ!!!!」


 破裂したようにコメットは泣いた。真っ赤な外套ケープに包まれた小さな体を捩る。高く広い空ではうへええんという無様な声も響かずに、小さく溶けていくだけだった。空しい。それでも涙は止まらない。

 だって、本当はずっと我慢していた。

 ずっとずっと我慢していた。

 コメットがネブラに弟子入りしたのは、生まれてはじめて見つけた魔法使いが彼だったからだ。きっかけはそんな些細なことだったけれど、きらきらしてて、かっこよくて、素敵で、憧れずにはいられない、そんな魔法使いの一番星を見つけてしまったのだ。遥か彼方で爆散する星に願いをこめるように、人々は異能の賢者と言って魔法使いを称える。誰かを幸せにする希望の光だと祈りを捧げる。だから、「希望を見せてほしい」と言われたとき、コメットは脳足りんなりに、サダルメリクは自分に祈りを捧げたのだと解釈した。嬉しかった。そうなりたいと、本当に思ったのに。


「やだやだやだ! ネブラのばかあ! きらい! ひどい、ひどいひどい!」


 何一つまとまらない拙い思いが水浸しの言葉になる。ぐずぐずになった顔をコメットは手で拭った。嗚咽はちっとも止まらなくて、酸素が薄くなる。真っ赤になりながら必死に息をする。吸いこむ風が冷たくて悲しい。もうやだ。ネブラなんて知らない。どうにでもなっちゃえばいいんだ。コメットはえぐえぐと泣きつづけた。

 すると、風に乗ってプゥ~ンという鼻につく音が聞こえてきた。音の主は庭に横たわるコメットの頭上を旋回する。コメットはわずかに視線を遣った。


「僕の羽虫……」


 コメットがそう漏らす、羽虫はぷいぷい飛んでコメットの視界を走った。茫洋とした声で「君はずっと元気だねえ」と呟く。あれだけ憎たらしかった同室の虫も、こんなときは少しだけ優しく見える。庭でたった一人泣き喚いている自分のためにここまで来てくれたような気がした。なんとはなしに「僕を慰めて」と言った。


「いいぜ」


 返事があった。コメットの声ではない。そもそも聞いたことのない声だ。

 コメットは驚愕した。視界から羽虫が消え、代わりに見知らぬ男がいる。乳白色に近い淡やかな金髪の、まろやかな青年。光を反射しない真っ黒な瞳も、垂れ目がちなまなじりのおかげで、恐ろしさは微塵もない。ハシバミ色の外套コートの中は羽振りのよさが伺える服装で、稼ぎのいい商人のようないでたちだった。

——羽虫が人間になった。

 声を失ったコメットは瞬きさえ忘れて男をじっと見上げる。俄かには信じられなくて「僕の気が触れている可能性がある」と固く目を瞑った。その拍子に、ぽろっと涙がこぼれ落ちる。その一筋を指で掬ったのはコメットではなかった。目と一緒に眉間にも皺を寄せるコメットの、まろい頬をくすぐるように撫でる。その感覚に、自分が正気であることを悟る。


「羽虫が人間になった!」


 今度こそコメットは声に出して飛び跳ねた。目を開け、上体を起こしながら、文字どおり尻込みする。コメットの頬を撫でていた手は容易く離れた。男は「おっ、元気出た」とにこやかに言う。それどころじゃないのだ。ただの羽虫だと思ってたのに、なんだこいつ。コメットが「イーッ」と威嚇すると、男は「歯並びいいな」とこぼした。


「なに、なんで、っ誰?」

「わかってるくせにい」

「僕の部屋にいた羽虫でしょ。なんで人間に?」

「魔法使いだもん。どんな姿にだってこのとおり」


 男はパチンと指を鳴らすや否や、コメットの見慣れた羽虫の姿に変身した。コメットの周りをくるりと一周して、たちまち元の姿に戻る。コメットの真正面にしゃがみこんだ男は、コメットの肩へ片腕を回す。


「そんな顔すんなよ。俺とお前の仲じゃん」


 軽々しい態度に、コメットはなんと言えばいいのかわからなかった。さっきまでしっちゃかめっちゃかになった情緒のまま、無茶苦茶に泣いていたのだ。しかも、いきなり羽虫が人間になった。冷静に状況を整理するほうが無理な話である。

 呆然とするコメットに「で、なにがあったんだ?」と男は言う。


「……なにって」

「泣いてんの以上に魔力が乱れてる。嫌なことあったんだろ。ネブラ?」

「ネブラを知ってるの?」

「そりゃあ同じ部屋にいたんだもん。知ってるに決まってる」

「君がずっと僕のとこにいたのはなんで?」

「んー? 元気にしてるかなあって」

「うん?」

「ま、いいじゃん、俺のことは」男はもう片腕をコメットの肩へ通し、ぎゅっと身を寄せた。「またネブラにいじめられた? お前いっつもあしらわれてんもんな、馬鹿弟子~とかなんとか言われて」


 充血した目のコメットが、歯を食いしばる。その顔を見て、男は「おう泣くな泣くな」と自分ごと体を揺さぶった。肩口に回していた手を下ろし、コメットの両脇に通した。そのまま、まるで猫を引き延ばすかのようにコメットの体を持ち上げ、無理矢理立たせる。草や土やらをぱっぱと叩き落としてやった。


「……ネブラが僕にかまってくれない」

「いつものことだろ」

「置いてけぼりにした」

「目に見える展開。意外性の欠片もねーわ。あいつがお前をほったらかしにする男だってのはわかりきってたことなのに、見る目ないんだなあ。そんで泣いてたわけ?」

「いつまで経っても僕に魔法を教えてくれない。僕だって魔法使いになりたいのに。僕はネブラの弟子なのに。僕はまだだって持ってない!」

「あーね」


 コメットは外套ケープの裾をぎゅっと握りしめた。男は「皺になるから」と言ってその手を取る。やわやわと揉まれる手をコメットは握り返して外套ケープの裾の代わりにしてやる。依然として見知らぬ男だが、あの羽虫だと思えば気は許せた。


「杖がないのは魔法使いとして致命的だもんな。いつまで経っても安定しないし上達も遅い。お前は一人でがんばってるけど杖がないんじゃ限界あるよ。仮杖でもいいからなんか見繕ったほうがいいよな」

「大先生も、僕にはまず杖が必要だって言ってた」コメットは唇を尖らせる。「でも、大先生もひどい、僕を連れてってくれなかった。本当やだ。僕だけがんばろうとして馬鹿みたいだ」


 愚痴を吐いたおかげで涙腺は落ち着いたものの、いつもの能天気な笑顔は雲隠れしている。コメットは拗ねているのだ。自分がみじめでしょうがなくて、男が自分を見下ろすのをコメットは黙って受け入れる。


「俺が杖を見繕ってやろっか?」


 すると、なんでもないように男が言った。

 コメットは「えっ」と顔を上げる。


「欲しいんだろ? 杖」

「ほ、欲しい」

「杖は師匠と考えるなんて決まりはないし、俺が考えてやるよ」

「本当!?」ぱっと顔を明るくしたコメットは、しかしたちまち俯いた。「でも、いいのかな。杖を勝手に決めちゃって。怒られない?」

「怒るって誰が?」

「誰って……ネブラとか、大先生とか」

「あの二人がお前を怒るの?」


 そう尋ねられて、コメットは考えてみる。怒らない気がした。男は「決まり」と言ってニッと笑った。言うが早いか、「さてさて」と顎に手を遣り、ぼんやりしているコメットを見下ろす。頭の天辺てっぺんから爪先まで眺め、再び頭へと視線を遣ったとき、ぴくりとその眉が跳ねた。


「おっ、いいもん持ってんじゃん」


 男はコメットの左側の横髪をまとめる髪飾りに触れた。コメットが呆気に取られていると、ぱちんという音が耳元で聞こえた。それが髪飾りの留め具を外された音だと気づいたとき、コメットは素早く両手で髪飾りを押さえる。ステップを踏むように後ずさることで男から距離を取った。消えかけていた警戒心が息を吹き返す。


「な、なに」

「寄越せよ。報酬だ」

「報酬? お金取るの?」

「そりゃそうだろ。世の中金だぜ。俺、ただ働きとか絶対ヤだから」

「えっ、えぇええ?」

「どうせそんなもんで誤魔化したってお前の髪はへんてこなままだよ。寄越せ」

「だめっ! これは大先生からもらったんだもん!」


 コメットの反論に、男はきょとんとした顔をする。意外と話が通じたらしく、「ふうん」と言って手を下ろす。諦めたのだとコメットは悟った。ふう、と息をついたのも束の間、男はコメットの体をまさぐりはじめた。


「わひゃっ」


 コメットは肩を震わせる。男の手はコメットの顔、首元、腕を辿り、外套ケープの中にまで侵入した。ブラウス越しの脇腹、革製のズボンの隙間、とにかく指の通せる場所は無遠慮に触られた。くすぐったさと驚き、そしてわけのわからなさに、コメットは身を捩って抵抗する。けれど、十五歳の子供であるコメットには大人の男の手を振りほどくことなどできようわけもなく、「ふぐう」「うーっうーっ」「ひぇええん」と喚くしかなかった。

 そんな哀れなコメットの反応など知ったこっちゃない男は、「ウーン」と渋い顔をしながらコメットの体を漁りつづけた。その指先が、コメットのお尻のポケットにかかる。中をまさぐってから「おっ」と反応した。その手が引き抜かれる。コメットははふはふと息を整えながら男が自分から離れるのを眺めた。男の手に握られていたのは、ラリマーからもらった美しいブレスレットだった。


「ま、これでいっか」


 男は満足したように握り締める。鮮やかな青緑色の石を繋ぐチェーンがか細く音を立てた。そのブレスレットが男の外套コートのポケットに収まってしまうのを、コメットは力なく見届ける。せっかくラリマーさんからもらったのに。綺麗だったのに。


「よし。報酬はいただいた」

「勝手に取ったんでしょ」

「髪飾りと比べたら安いもんだろ」

「それ、公子からもらったブレスレットだよ?」

「お前は杖が欲しくないの?」

「そりゃあ欲しいけどさ」


 コメットはじっとりとした目で男を見る。少し乱れて留められた髪飾りの、炎の灯ったような真鍮が、鮮やかな夕焼けに煌めいている。その様に、男は真っ黒な瞳を細めた。


はたしかに決していいやつじゃねーけど、それなりにお前のことは気にかけてるみたいだし、まけといてやるって言ってんの」いたずらに笑う。「破格だぜ。俺、弟子なんて持たねー主義でさ、昔、どうしてもって大金詰まれて一日だけ教えてやったのが最後。コメット、お前、運がいいよ」

「えっ、えー……?」

「とにかく! 杖さえあればお前はもっと魔法が上達する。強くなれる。虎に翼。獅子に鰭。魔法使いに杖だよ。そうと決まればちゃちゃーっと見つけちゃおう。お前にがあるならそれが一番いいんだけどね。長年使ってきたような思い入れのあるものでもいいし、機能性を重視してもいい。魔法使いによっては握ったときの感触とかも大事だったりする。しっくりくるだとか、気持ちが昂るだとか、そういうの」

「普通に、魔法使いらしく、杖じゃだめなの?」

「別にいいけど、だとしたら作ってもらわなきゃだな。もし似たような形状で代用するなら、指揮棒とか菜箸とかになるか?」

「そこらへんの木の棒とかは?」

「思い入れなさすぎるだろ。やめとけやめとけ」

「そんなに思い入れって大事なの?」

「適当な杖を選ぶと、魔力が嫌がることもあるからな。思い入れのあるものは、そのぶん馴染むのが早くなる」男は首を傾げる。「なあ、コメット。これまで魔法を使って一番わくわくしたのはどんなときだった? 心に残ったのはなんだった?」


 男に尋ねられて、コメットは「わくわく……」と呟きながら思い返してみる。サダルメリクの家に来て、ネブラから魔法を教わるようになって、コメットはたくさんの魔法に触れた。扉を開けるための“開けゴマ”。アップルガースの店で歌った椅子を修理する魔法。カメオの指輪から踊る文字。笑顔を見たくて一緒に口遊んだ歌。届くと嬉しい葉書。ネブラの魔法は焦げ臭かった。花火に変えれば眩しかった。どこまでも優美なフルートの音色。傷つけるための魔法もあることを知った。しがない魔法使い見習いの自分にはまだ遠く、できないことはたくさんある。だからこそ、あの一瞬が色褪せない。


「箒で空を飛んだとき」


 星が走るように閃いた。呟いたことがあまりにもしっくり来て、コメットは脳で呟いたか口に出したかわからないほどだった。とくとくと鼓動が早まった気がした。思い出すのはあの日、ネブラと出会った日のこと。


「僕がはじめて魔法を使ったのが、空を飛んだときだった……ネブラと一緒に、なんだけど。箒を飛ばすのに必要な魔力量は120mBマジベルで、ネブラの魔力だけじゃ足りないから、二人で唱えたんだ。箒に乗ったのはたった一度きり。僕一人でも飛ばせない。でも、なんでもできるって思ったあの瞬間が最高で、忘れられないんだ」

「なら箒でいいんじゃね?」男はあっけらかんとして言った。「面白いじゃん。箒を杖として持っときゃ楽だろうなあ。魔法は安定する、いざとなったら空も飛べる。まさに一石二鳥……いや、一二鳥だな」

「でも、僕の魔力量は72mBマジベルだよ? 飛ばせもしない箒をずっと持っとくのってなんか変じゃない?」

「いいんだよ、杖なんだから。箒に乗るのは追々考えてけ。まあ、お前の魔力の性質なら、その気になりゃあ魔力量とかあんま関係ねーと思うけど」


 コメットは目を瞬かせる。


「僕の魔力の性質?」

「そう。魔力には人それぞれ個性があるのはちゃんと教わったか?」

「今日聞いた。でも、僕は魔力なんてまだ感じ取れないし、自分や他のひとの違いだってわからないよ。君にはわかるの?」

「まあな。わかりやすいところで言うと、お前の入れこんでる女の子、なんだっけ、魔法中毒でぶっ倒れたときの」

「ミラ?」

「その子。あの魔力は逸材だよ。一度嗅いだら忘れらんない。壁に貼られた葉書からだって色の香りがするくらいだもん。セイレーンよりも危険。カンタリスで作った愛の妙薬よりもずっと危険。深入りは禁物」

「へえ~。魔力って、匂いとかも感じるんだね。ネブラや大先生はどんなの?」

「お前の師匠は、火薬みたいな魔力だな。夏場に感じるとうんざりしそう。お前の言う大先生は、なんてーか、潮風みたいに湿っぽい」男は意地悪く口角を上げる。「隠しきれてねーの。如雨露のふりしてんの笑えるぜ」


 よくわからなかったけれど、コメットは占いを聞いているような気分になった。わくわくしながら「それじゃあ僕は?」と尋ねてみると、短く「係数持ち」と返ってきた。なにそれ、と尋ねる暇もなく、「珍しい魔力だな、俺も久しぶりに見たかも」と男は漏らす。


「んま、魔力の話は後だ。いまはお前の杖だろ、コメット」

「えーなんでなんで。僕の魔力について、もっと教えてよう」

「追加料金払える?」

「ケチ!」

「金の切れ目が縁の切れ目さ。報酬分は付き合ってやるよ」男は家を指差した。「なんでもいいからとりあえず箒持ってきて」


 男に言われるがまま、渋々ながら、コメットは箒を持ちだしてきた。持ってきたのは、ネブラと共に乗った、金雀枝エニシダ製の長箒だ。穂を束ねた金具の部分には足掛けがついていて、飛行には打ってつけ。ただ、片手で持つには少し重いし、やっぱり杖には向かない気がする。コメットは難しい顔をしていた。


「本当にこれが杖になるの?」

「ぶっちゃけ市販の箒よりもオーダーメイドしたほうが絶対にいいんだけど、とりあえずはこれでいいだろ。急拵えの仮杖だよ」


 コメットは箒を両手で握り、じいっと見つめてみる。


「見つめたってなんにもなんねーから。杖なんだから魔法を使わなきゃ」

「“いけない虫ムシ、君は無視むし、どっか行っちゃえお邪魔虫~”」

「だーれがお邪魔虫だ」

「君だよ」

「俺は人間だもん」

「ハッ! 虫除けの魔法が効かなかったのって、本当は君が人間だったから?」


 男は大口を開けて笑った。キャンディー百個詰めれそう、とコメットは思った。


「でも、いきなり魔法を使えって言われても、なんにも思いつかないよ」箒の柄でこんこんと額を叩いて、ウーンと唸るコメット。「あ、そうだ。ネブラ先生が言ってた、なんだっけ、ナントカの華麗なる魔法集……」

「『アンドロメダ・ディーの華麗なる魔法集』?」

「それを読んで練習しよっかな。ド派手な魔法ばっかりらしくて、楽しそう」

「初心者ってのは身の丈に合わない魔法を使いたがるねえ」

「悪い?」

「悪くはねーけど、もっとお前の好きそうなのがあるよ」

「え、なに?」

「それに乗って、」男は箒を指差し。「そこの森を、」家の裏の森を指差す。「爆速で突っ切る。目指すは十秒」


 箒に乗って、裏の森を、爆速で突っ切る。目指すは十秒。突拍子もなく告げられて、コメットはじわじわと顔を顰めていく。なに言ってんのという気概を隠しもしない表情だ。男もその心理に気づいているだろうに、むくれる子供をかわいがるように、甘んじて受け入れている。そんな大人の余裕すらもコメットの目には戯れに見えた。箒の穂先を地面に落とし、柄に体重をかけ、「あのねえ、」と責めるための口を開く。


「まず僕は飛べないんだよ?」

「報酬分は付き合うって。それくらい俺が手伝ってやるよ」

「君、あの森に入ったことある?」

「ない!」

「だったら知らないでしょ。三百エーカーもあるんだよ?」

「へえ、そうなの」

「そうなの。僕、あそこの道を抜けてきたからわかるけど、すっごく広いの。十秒で駆け抜けるなんて絶対にできっこない。不可能」

「関係ねーなあ」したり顔で男は返す。「俺の辞書は完璧だから不可能の文字だってあるけど、その意味には、俺にはあてはまらないこと、って書いてあるぜ」


 言い切らないうちに、男は箒の柄を握り、乱暴に引き抜いた。箒に体重を預けていたコメットは前につんのめって転びそうになった。ちょっと、と文句を言うも、男はまったく気にしていない。箒を片手に持ち、コメットに尋ねる。


「なあ、コメット。お前のは精神的無理と物理的無理のどっちだ?」

「……なんて?」

「世の中には二種類の無理があると俺は思うわけよ。たとえばだけどさ、毎日千回腹筋をするのを一週間続けろと言われてできるか?」

「えー」

「それが精神的無理だ」男はかわいこぶって、箒を持っていないほうの手を口元に遣ってみせた。「えー、死ぬ気でやればできるだろうけど、絶対やりたくないしやりきれなーい」


 誰かを真似るみたいに男は代弁したけど、「僕そんなふうに言ってない」とコメットは思った。猫撫で声のあざとい話しかたが癪に障った。ぶりっ子という言葉をコメットは知らない。


「そんで、物理的無理。三百エーカーの森を十秒で移動できるか。これはまあ物理的に無理だよな。お前の言うとおり、普通にやったらできっこない、不可能だよ。でもさ、俺たちは魔法使いじゃん。物理的無理は魔法で解決できる。望めばなんだってできるんだよ。お前にその気があるなら魔法を奏でよう」


 パチンと男が指を鳴らすと、ハシバミ色の三角帽子が宙に現れる。タッセルと角飾りのついた独特の帽子だ。男はその鍔を掴むと、コメットの頭に被せた。

 コメットが丸まった目で男を見上げると、風に攫われるように手を引かれた。それに素直に従って、男と一緒に箒に跨る。後ろから抱きこまれるようにして身を竦めたとき、コメットはなにかとんでもないことが起こるのを予感した。初めて空を駆け抜けた日のことを思い出して、否が応にも胸が高鳴る。

 茜差す紫の空には光が走っている。萎びたアメジストセージの香の乗る晩秋の風は、煽るような追い風だ。見据える先は薄暗い森。そんななんの変哲もない風景が、コメットの目には、どきどきのたっぷり詰まった宝箱のように見えた。耳元でこぼれる笑みがくすぐったくて心地好い。自分だけに聞かせるにはもったいないくらい甘い声で、男が囁く。


「さあ、三百エーカーを十秒でぶっちぎる準備はいいか?」


 パチンと男が指を鳴らす——二人を乗せた箒は、文字どおりぶっ飛んだ。

 風を超え、音も超え、光さえ超える、でたらめなスピード。魂から体が引き剥がされるような凄まじい圧力は一瞬だった。電流が流れたように震えて、そこからはいっそなにも感じない。なにが起きたかわからない。世界がよそ見をしているあいだに、あらゆる自然法則を無視しながら、その箒星は魔力を燃やして駆け抜ける。

 鬱蒼とした木々が玩具おもちゃにさえ見えた神がかりな速度は、最後の間隙を縫ったあと、緩やかに失われる。森を終えた先にはのどかな夕景。たったの十秒が永遠のようで、コメットの心臓は百万回も脈を打ったような気がした。衝撃的だった。高揚して息苦しい。広大だった三百エーカーの森はとうにコメットの背中にあった。外套ケープの裾には葈耳オナモミがひっついている。

 望めば叶う、なんでもできる、僕たちは魔法使い。 


「あはははっ、ははっ、ああ、もう——最っ高!」


 コメットは箒に乗ったまま、きゃあきゃあと跳ねた。体を伸ばして手放しで喜んでいる。早鐘を打つ鼓動に巻きこまれて声も震えていた。瞳に滲む興奮が、淡い金色の日差しを受けて、ぴかりと光る。ああ、やっぱり、魔法使いって最高だ。コメットは熱の冷めやらない顔で男へと振り返る。


「ねえっ、そういえば、君の名前は?」


 まるで夢見心地の、ふわふわと覚束ない様子で、そう尋ねる。

 男はプフッと吹きだすように肩を震わせ、たまらなく笑った。


「おっそ。今かよ」

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