第24話

 けたたましいモーニングコールの音でサエコの安眠は破られた。

 う〜ん、とうめいてからモゾモゾと芋虫いもむしみたいに動く。


 朝は苦手だ。

 ここが天国か地獄だったらどうしよう、といつも不安になる。

 

「ちょっと……目覚ましのサービスを頼んだ覚えはないのだけれども」

「あと20分したらバイトを上がるから。顔を洗っておいで」


 おのれ、イツキめ。

 昨夜のキスに対する仕返しか。


 携帯の時計は5時40分を示している。

 いくら夏場とはいえ、この時間帯から活動するのは辛い。


 5分だけ休憩しようと思い、お気に入りのJ-POPを流して、静かになったら頬っぺたをパンパンした。


 まずはトイレを済ませた。

 温かいコーヒーを一杯淹れて、読み終わったファッション誌を返却コーナーに戻しておく。


 すごいな。

 シャワーを無料で利用できるのか。


 もしかして日本のカフェって世界一? なんてマヌケなことを想像しながら、荷物を一個にまとめて、一晩お世話になった部屋に別れを告げる。


「精算、精算っと……」


 チェックアウトは無人のマシンでやる。

 寝ぼけていたせいで変なボタンに触れてしまい、知らない画面に迷い込んでパニックになっていたら、後ろから手が伸びてきてTOP画面に戻してくれた。


 もちろんイツキだ。

 少年漫画のTシャツ姿だから男の子みたい。


「支払いは? 現金? カード?」

「え〜と……クレジットカードで」

「じゃあ、こっち」


 いきなりの急接近に起き抜けの心臓は鳴りまくり。

 そんなサエコの心境を知ってか知らずか、イツキは柔らかい胸を押しつけてくる。


「ここにカードを挿し込むの。暗証番号を間違わないよう要注意ね」

「できるわよ、そのくらい」

「どうかな〜」


 イツキは軽薄っぽい笑みを浮かべて、サエコの首筋にふうっと息をかけてきた。

 体をすくめたサエコの口から色っぽい声が飛び出てしまう。


「サエちん、朝に弱いからね」

「やめてよ。イツキの仕事場でしょう。叱られるわよ」

「ユニフォームを脱いだから。今は通りすがりのフリーターなのです」

「もう、意地悪なんだから……」


 頬っぺたを膨らませてみたが、声ににじんだ嬉しさまでは隠せない。


 いつものイツキだ。

 ちゃんとサエコを直視してくれた。

 そんな当たり前に感動してキュンと高鳴る心を、服の上から優しく押さえつけておく。


「バイト、お疲れさま」


 店の前で労いの言葉をかけると、


「ありがとう。夜間はまだ慣れなくてね。昼夜逆転だから、さすがに最後の2時間はキツかったな」


 イツキは疲れ切った笑顔をくれる。


 頭をナデナデしてあげたいな〜。

 途中まで伸ばした手を引っ込めて、サエコは何事もなかったかのように背伸びした。


 まだイツキが家を出ていった理由を聞いていない。

 それなのに仲直りしたら軽い女みたいで嫌だ。


「朝食はどうする? サエちんが選んでよ」


 イツキが指さす先には24時間営業のバーガー屋と、同じく24時間営業のファミレスが見えた。

 どちらもお得なモーニングを6時から提供しているらしい。


「じゃあ、バーガー屋で」


 サエコが一歩を踏み出そうとした時、イツキにストップをかけられた。


 手を差し出してくる。

 握れという意味らしい。


「バイトの人に見つかるかもよ」

「それがどうしたの? 何かマズいことでも?」


 この人たらし〜!

 自分の顔が赤くなっていくのが分かり恥ずかしくなる。


「あんた、本当に朝に強いわよね」

「まさか。8時間働いてクタクタだよ」


 そんな言葉とは裏腹に、イツキは思いのほか強い力でサエコをリードしてくれた。


        ◆        ◆


「はぁ⁉︎ パチスロで15万円勝った⁉︎」


 客がほとんどいないバーガー屋の2階にサエコの奇声が響いた。

 電線に止まっていたカラスがひと鳴きして、バサバサと去っていく。


「1日で、じゃないよ。2日に分けてね。1日目に5万円稼いだ。2日目に10万円稼いだ。証拠になるか分からないけれども、その写真」


 レシートが写っている。

 よく分からないが、景品と交換してくれるらしい。


 このご時世、パチスロで10万円とか稼げるのかな?

 それって負ける時は1日15万円くらい損するってこと?


 これまで意識してこなかったパチスロ屋という存在が、とてつもなく恐ろしい施設に思えてきて身を震わせる。


「え〜と……話が飛躍しているけれども……まとまった額のお金が手に入った。それでアパートを借りたってことね」

「そうそう。僕って深夜もシフトに入ったりするし。サエちんに迷惑かけると思って出ていった」

「なんで相談してくれないのよ」


 他にも疑問はある。

 そもそもフリーターのイツキが簡単に部屋を借りられるのか、とか。


「だってサエちん、僕を引き留めようとするだろう」

自惚うぬぼれないで。これまでの家賃を精算してもらって、あんたなんかポイよ、ポイ」

「ポイって……」


 イツキが苦笑いした時、ホットコーヒーの表面にさざ波が立つ。


「イツキなんて、い〜らない」


 もちろんサエコの強がりだ。

 イツキは見抜いて黙りこくっている。


 元恋人に対する優しさ。

 それを理解したサエコの胸がチクチクと痛む。


「ここから歩いていける距離に住んでいるのよね。家賃っていくらなのよ」

「月々3万5千円。敷金礼金無し」

「うわっ⁉︎ 安っ⁉︎」


 たまたま2階を掃除していたスタッフがびっくりする。

 サエコは、すみません、ごめんなさい、と頭を下げておいた。


「大丈夫なの、その物件? 強盗殺人とか起きたんじゃないの?」

「いやいや、普通に古いアパートだから。出稼ぎの外国人労働者が住んでいる。水商売のお姉ちゃんとかね。防犯のセキュリティはガバガバだけれども、ほら、僕って盗まれるような物、ほとんど持っていないし」

「でも、クレジットカードの1枚や2枚はあるでしょう。うちで預かるから。小さい金庫を買ってあげるから」

「それも平気。サエちんの家の棚に隠している。カードの番号は暗記している」


 ゲホッ!

 食べかけのバーガーが喉に詰まって、サエコは激しくむせてしまう。


「ごめん、驚かせるつもりは……」

「いやいや、驚くわよ」


 大切なクレジットカードを知人の家に置いていくなんて。

 厚かましいというべきか、大胆というべきか。

 いや、単なるバカだ。


「よくアパート契約の連帯保証人が見つかったわよね」

「まあね〜。もしかして、サエちんにお願いしたら、サエちんが連帯保証人になってくれた?」

「私もそこまで優しくない。さすがに却下」

「だよね〜」


 サエコは席を立ち、イツキの真横に座り直した。

 ちょこん、と甘えてみる。


 バイト終わりだから酸っぱい汗の匂いをまとっている。

 でも、イツキは距離を開けようとはせず、むしろ肩を抱いてくれた。


 イツキはひどい。

 サエコを突き放したり、急に優しくしたり。


 まるで恋の高等テクニックじゃないか。

 そんなことされたら沼みたいに抜けられなくなる。


「黙って出ていったのは悪いと思っているよ。でも、サエちんは反対するかもしれない。そうしたら僕の決意も鈍るだろう。それが嫌で黙って出ていくしかなかった」

「あんたって、本当にサイテー」

「うん、知ってる」

「バカ、バカ、バカ、バカ」

「ごめんよ。でも、サエちんのお荷物でしかない自分に嫌気が差しちゃって。変えたかった。変わりたかった」

「どう? 前に進めた?」

「少しはね」


 たった一言でいい。

 好き、という言葉がほしい。

 催促する代わりにイツキの太ももをつまんだ。


「好きだから心が痛いって、とても不思議だよね」


 サエコはこの相方に何度目か分からない恋をする。

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