第9話

 都心といえども、終電とその一本前の電車は空いている。


 乗客の7割は疲れ切ったサラリーマン。

 残りの3割はこれから水商売へ向かう女性たち。


 向かいの席のサラリーマンが船を漕いでいる。

 発車のベルで目を覚ますと、駅の看板を見てギョッとして、慌てて降りるというシーンがあった。


 大変よね……。


 サエコは夜型だから頭がピンピンしている。

 仕事がない日でも0時より先にベッドに入ることは珍しい。


 駅から家へと向かう道すがら、例の小さな公園があり、真っ赤なサルビアの花が咲いていた。


 花筒を千切って蜜を吸ってみる。

 雨が多かったせいか甘さに欠ける。


 公共の場所なので厳密には窃盗せっとうになる。

 この時間帯は人に見つからないから許されるだろうという、身勝手な判断によるものだ。


 だから天罰なのだと思う。

 マンションに帰ってきたら、ドアの前にその女がいたのは。


 一目で元恋人だと分かった。


 癖のある髪をポニーテールにしている。

 初夏というのにライダースジャケットを着ており、下はダボダボのデニムだから、男に見えないこともない。

 いや、実際にイケメン顔である。


 寝ている?

 そう、玄関のドアにもたれて、くぅくぅと可愛い寝息を立てていたのである。


 えっ? 何時間前からいるの?

 そもそも、なんで連絡してくれないの?

 ていうか、オートロックなのだが……。

 どうやって侵入してきた?


 洪水のように疑問が湧いてきたが、サエコはぶんぶんと首を振った。


 彼女の名前はやしろイツキ。

 大学時代の同級生。

 たぶん、元恋人。


 それが目の前にいて、すでに終電の時間を過ぎているという揺るぎない真実が横たわっている。


「あ、サエちんだ」


 こちらの足音で目覚めたイツキが目をこする。

 迷い猫みたいな顔を向けられて、サエコは視線をさまよわせた。


 やだ……イツキったら。

 ますます凛々りりしい顔立ちになっている。


 でも、首から下に目を向けると、出るところは出て引っ込むところは引っ込んでいるから、アンバランスな感じが魅力的なのだ。


「どうしたの、急に?」

「恋人に捨てられた」


に刺された』くらいの軽い口調で言うから、サエコも『はぁ』の表情になる。


「家から追い出された」

「いやいやいや……冗談はやめてよ」

「冗談じゃない、本当、サエちんしか頼れない」


 イツキが真顔で言うものだから、心臓のあたりがジンと熱くなる。


「ダメ、ホテルに泊りなさい。お金を貸してあげるから」

「えぇ〜」

「子供じゃないんだから」


 そもそも元恋人同士なのだ。

 パートナーに捨てられたから、サエコの家に転がり込むなんて、神経がどうかしているし、最低のゴミ人間がやることだろう。


 サエコは携帯を取り出して近くのホテルに電話してみる。

『すみません、あいにく今夜は満室でして……』と返される。


 ならばと2軒目のホテルにも電話してみた。

『今夜ですか? 申し訳ありません、空き部屋はなくて……』


 チッ。

 舌打ちしてから家の鍵を取り出す。


「入りなさいよ」

「やった、サエちん、優しい」

「そもそも事前にメッセージをよこしなさいよ。不意打ちなんて、大人がやることじゃないでしょう」

「いやいや、SIMカードも没収された」


 カバンを置いて、ジャケットを脱いだサエコは、眉間にシワを寄せた。


 聞けば、携帯電話の通信料を恋人に負担させていたらしい。

 喧嘩別れした時、SIMカードを抜かれたのだとか。


「このご時世、携帯が使えないなんて丸腰よね」

「そう、それ。丸腰だからサエちんしか頼れない」

「やっぱり、あなた、最低のクズ人間だわ」


 見た目は100点なのに……。

 内面はご覧の通り0点なのだ。


 計画性ゼロ、行き当たりばったり、楽観的、ボケッとしている、危機感が皆無、脳みそが幼稚園児……。

 イツキの悪口なら原稿用紙いっぱい書ける。


 この女にれてしまったことは、サエコの人生において、一生消えない汚点になるだろう。


「ねぇ、サエちん、あのカップ麺もらっていい?」

「100円ね」

「やった」


 イツキは電気ケトルに新しい水を入れて、慣れた風にスイッチを押した。

 ラベルを楽しそうに破きながら、


「サエちんの部屋、汚くない? ワーカホリックだから?」


 こちらが一番気にしている点を厚かましくも指摘してくる。


「悪かったわね。どっかの無職女と違って忙しいのよ。そもそも、イツキだって、掃除は得意じゃないでしょう」

「やった、イツキって呼んでくれた」

「はぁ?」

「久しぶりにイツキって呼ばれた」


 この人たらし〜!

 サエコは赤くなった顔を隠すため洗面台へ向かう。


 ダメ。

 追い返そう。

 明日の朝にはバイバイする。


 やっぱり復縁しない? といって居座るのが目に見えている。

 そして『サエちんの荷物になりたくない』とか適当な置き手紙を残して消えるのだ。


 そういう女なのだ。

 社イツキは。


 よっぽど腹が空いていたのか、イツキは3分経つのを待たずにラーメンをふ〜ふ〜している。


「サエちん、知りたくないの?」

「何を? あんたの所持金?」

「そうじゃなくて、僕がなんで恋人と破局したのか」

「くだらない理由でしょう。相手のへそくりを勝手に使ったか。知らないところで借金を作ったか」

「ぶっぶ〜」

「じゃあ、浮気した?」

「それもぶっぶ〜」

「イツキにぶっぶ〜されると腹が立つ」

「そうだね。昔からサエちんの方が頭いいもんね。帝斗システムでしょ。よく車内広告で見かける。ああいう会社って、こんなご時世でも、ボーナス2か月半とか出るんだっけ」


 サエコは冷蔵庫から飲むタイプのゼリーを取り出して封を切った。


 イツキはおいしそうに物を食べる。

 猫みたいで、昔から可愛いと思っていた。


「相手のことを間違ってサエちんと呼んでしまった」

「はぁ?」

「あと寝言で、サエちん、サエちん、連呼しちゃったらしい」

「ちょっと、ちょっと……」

「向こうがブチ切れて。サエちんって誰よ、みたいな。それから修羅場の連続で、現在にいたる」

「イツキって本当にクズね。最低……その子、可哀そう……」


 古い恋人の名前を出しちゃうなんて。

 超がつく大バカだ、けれどもイツキらしい。


「だから、僕が家を失った責任の半分はサエちんにある。そう思わない?」

「思わないから。これっぽちも思わないから」

「ちぇ〜」


 こんなイツキにも一個だけ美徳がある。

 嘘はつかない、どんなに不利な状況でも。


 自分がガラスを割ったら、やったのは自分だと素直に名乗り出るのだ。


 ゆえに嘘じゃない。

 その子と破局しちゃった理由は。


「久しぶりに僕と一緒に寝ない?」

「やだ、床で寝なさい、布団を出してあげるから」

「ぐすん……ぐすん……」

「そんな顔しても却下」

「ちぇ〜」


 イツキはポケットに手を突っ込んで中をまさぐった。


「ずっと昔にゲーセン行ったでしょ。僕が無理やり連れ込んだやつ。サエちんに二千円借りて、返すの忘れていたと思ってさ」

「もう何年前よ。5年くらい前じゃない」

「まだ時効成立前でしょう」


 1枚、2枚、3枚、4枚……。

 五百円玉ばかり出てくる。


「ごめん、お札がなくて」

「なんかイツキらしいなぁ」

「あと、これはカップ麺代」


 さらに百円玉が出てくる。


「ねぇ、サエちん、冷蔵庫をのぞいてもいい?」

「ダメ、ビール飲みたいとか言い出す気でしょう」

「いいじゃん、二人で半分こしようよ」

「だ〜め」

「お金は払うから」


 サエコはやれやれと首を振ってから、350mlの缶とグラスを2つ持ってきた。


「お金は要らないから」

「やった、サエちん太っ腹」

「イツキって本当に甘えるのが上手よね」

「相手がサエちんだから。そういや、昔もこうやって飲んだよね。バイトが終わった後とか。コンビニで廃棄はいきになったコロッケとフライドチキンを持ち寄ってさ」

「あったわね。最悪の習慣だわ。この時間帯に揚げ物とか。思い出したら頭が痛くなる」

「あっはっは」


 久しぶりに悪友とカンパイした。

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