四人の再来③

 紫音の言う通りになった。

 翌日の昼過ぎになって、ヴィルフォール夫人が再び221Bを尋ねてきたのである。

「ようこそお越し下さいました。早速本題と参りましょう」

 紫音は手で椅子を指して勧めながら、自分は肘掛けに腰掛けて言った。

「お尋ねのモンテ・クリスト伯爵ですが、ザコーネ氏という方で、マルタ島の裕福な船主の息子です。貴女が仰った通り世襲した財産を利用して、モンテ・クリスト島を買い上げ、伯爵となりました。その後戦争へ。終戦後は世界各地を飛び回り、御存知の通り目下この街に滞在していますが、その他には特段お伝えすることがありません。ただ一つ言えるのは、伯爵が立派な紳士で、何一つ後ろ暗いところを持たず、私の捜査を受けるに値しない人物だということです」

 早口にきっぱりとそう言った。

「そうなんですのね。ありがとうございました。こちら謝礼ですわ」

 ヴィルフォール夫人はハンドバッグの中から小切手を取り出した。

「お二人で十五億円です。それでは失礼致しますわ」

 ヴィルフォール夫人は立ち上がった。わたしは彼女を見送ろうとサッとドアを開けた。

「少々お待ちを!」

 出て行こうとした夫人を紫音が大声で呼び止めた。夫人は廊下へ出る戸口で立ち止まり、振り返った。わたしは開けたドアを閉め直した。

「私のところに来たのはご主人の指示ですか?」

「そうです。知りたいことがあるならシャーロック・ホームズ氏に尋ねれば良いと主人が申しましたので」

 紫音は満足気な笑みを一瞬浮かべた。

「それは恐縮です。ではご主人には、オートイユには癲狂院を作るつもりだそうだ、とお伝え下さい。貴女が何故私の所に来たのか、それが今回の件で二番目に興味深い問題でした」

「二番目に? では一番は何ですの?」

 夫人は紫音の話に大変興味を唆られたかのように向き直った。わたしは次に紫音が何と言うか分かっていたので、開けて閉めたドアをまた開けた。

 紫音は小切手を取り手帳に挟むと、それを大切そうにポケットにしまった。

「私は貧乏な人間です」

 そう言うと紫音はもう夫人に興味がないと言わんばかりに後ろを向いた。

 ヴィルフォール夫人は帰っていった。確かに紫音の言う通り、彼女は馬車で来ていた。

「ワトソン、この異常な羽振りの良さを見たか?」

 夫人の馬車が動き出したのを確認してから紫音が言った。手には先程しまったばかりの小切手を持っていた。

「二人で十五億って言ってたね」

「そうだ。シャーロック・ホームズの時代における一万二千ポンド。真っ当な仕事で稼ぐ者が支払える額ではない」

 そりゃそうだ。宝くじだってそう高額ではない。

「私が最後にああ答えたのには、金額のこともあって、多分に『プライオリ・スクールThe Priory School』の影響があることは認めるが、決して嘘を吐いた訳ではないということは分かってくれるだろうね」

 分からなかった。いや、紫音がそう言うのだからそうなのだろうし、何かしらの意味があるのだろうとは思うけども、それが何であるか見当はつかなかった。

「その金がどこから入っているか、だよ。ヴィルフォール夫人に収入源はないし、だからこそ分かった事だが、今回の件にはヴィルフォールその人が関与している。故にこれはヴィルフォール自身の金と見て間違いないだろう。ではヴィルフォールとは何者か」

 紫音はそれきり黙ってしまった。はっきりしたことは何も言えないということらしい。

「そのヴィルフォールもやっぱりMAFIAかな?」

 わたしは敢えて話を振った。

恐らくPerhaps.。それも幹部だろう。でなければモンテ・クリスト伯爵がその立場にいる理由が説明できない」

 わたしから話を振っておいて何だが、この紫音の返事を聞いてわたしは少しげんなりした。相変わらず彼女は周囲の人間を、ただの要素としか思っていないらしいと感じられたからだ。あらゆることに論理を持ち込もうとする。他人同士の関係性でさえ。

 わたしに言わせれば、人の関係なんて論理だけでは測れない。いわんや行動をや。なるほど痕跡から行動を辿るのは論理的に可能だろう。だが、その理由まではわかるまい。常人には理解できない、何かしらの特殊な理由かもしれないではないか。世の中には「空が眩しかったから」という理由で殺人を犯した狂人もいるのだ。それを論理で説明付けようとするのはナンセンスだと思う。

「君の思うことは尤もだよ、ワトソン。確かに私は他人を『状況を作り出す要素factor』くらいにしか思っていない。それ以上の興味を持つ理由も無いからね。しかし、今回に限っては論理的に説明付ける必要がある。何故なら相手は再来だ。説明付けるというより、説明付いている筈だと言うべきだな。本来社交界にいるべきモンテ・クリスト伯爵がMAFIAにいるんだ。何かしら退っ引きならない理由があるに違いない」

「それがヴィルフォールもMAFIAにいるって考える理由?」

「勿論。モンテ・クリスト伯爵が社交界にいるのは、復讐相手がそこにいるからだ。ではその再来がMAFIAにいるのは? 同じ理由と考えるのが自然だろう。ヴィルフォールは復讐相手の一人だからな。モンテ・クリスト伯爵がMAFIAにいるなら、他の三人もMAFIAにいる。だが正体が見えない」

 紫音は見るからに苛立っていた。分かるべきものが分からないと時々こうなるので、わたしはさほど気にしなかった。その苛立ちの矛先がわたしに向きさえしなければ、特段気にする必要はない。放っておけばそのうち消える。

 わたし達の関係性はいつもこんな感じだ。

 ところで、ここまで散々出てきたMAFIAについてだが、まさかわたしの記録を本作から読んでいる人はいないと思うので、深くは説明しないことをご了承願う。分からないという方は『橋姫紫音の回想』を読んで頂きたい。

 紫音はいよいよ考えるのを諦めたらしく、寝室からヴァイオリンを持って来た。諦めたとわたしが思ったのには理由があって、いつものように膝の上に乗せてそぞろに掻き鳴らすのではなく、普通に構えて弾こうとしていたからである。

 ゲリラの如き演奏が始まった。

 バッハに始まり、モンティのチャールダーシュ、サラサーテのカプリチオ・バスコ、ベートーヴェン、ブラームス、ラヴェル、サラサーテのカルメン協奏曲、メンデルスゾーン、ドヴォルザーク、パガニーニ、コレッリ、といった調子で三時間半も続いた。頭に浮んだ順に弾いているとしか思えなかった。わたしは正直かなり閉口した。しかし、曲の全部を弾いていたわけではないので、これでも短く収まった方だろう。

 紫音の演奏に合わせて、部屋に置かれたアップライトピアノも音を立てていて、ひとりでに鍵盤が下がっているのが見えた。一人で二つ弾いているらしい。魔術とはかくも偉大なり、といったところか。

 暫くはわたしが今まで紫音の演奏で聞いたことのある曲だけだったが、最後に一曲わたしの知らない、しかし聞き覚えは何となくある曲を奏でた。

「何だっけ、これ」

 わたしは素直に尋ねた。

 紫音の機嫌はすっかり直っているようだった。もし機嫌が悪ければ、わたしが声をかけた時点で嫌そうな顔をするから分かる。

「ツィゴイネルワイゼン。サラサーテだ。彼の代表作と言っていいだろう。私は滅多に弾かないんだがね」

 彼女がある程度サラサーテに思い入れを持っているのは確かだった。他の作曲者よりも弾いている回数が明らかに多い。ホームズの聖典の一つ『赤毛連盟』で、彼がサラサーテのコンサートに行った描写があることが理由かもしれない。

「さて、そろそろティータイムとしよう」

 紫音は始まったときと同じようにいきなり演奏会を止めて呼び鈴を鳴らした。彼女はいつもきまぐれなので、わたしは勿論驚かなかった。

 そして、ティータイムといっても本格的なものではない。ハドソン夫人が淹れてくれた紅茶と、ちょっとしたお菓子を食べるだけだ。いわゆるおやつタイムくらいの認識でだいたい間違いない。

 しかし、ハドソン夫人はお盆の上にティーポットではなく、五枚の名刺を乗せて上がってきた。

「ホームズさんにお会いしたいと言う方々が」

「入れてくれ。ついでに紅茶も追加で。嗚呼、名刺はそこへでも置いておいてくれ」

 ハドソン夫人は少しばかり心外そうな顔をしたが、何も言わずに降りていった。やがて、ドカドカと五人の男性が居間へ上がってきた。

「どうも、ホームズさん」

 先頭に立って昇ってきた男が言った。

 わたしはその顔に覚えがあった。わたしと紫音が初めて会った翌日、ちょっとした事件で出会った巡査だ。

「君がいきなり押しかけて来るとは何事だ、礼堂れいどう巡査」

 紫音は肘掛け椅子に腰掛けながら言った。

「ところが、もう巡査じゃないんですよ」

「そうらしいな。晴れてレストレイド警部だ」

 礼堂巡査、もとい警部は明らかに驚いた。

「なんで分かったんですか。名刺をご覧になったとも思えませんが」

 部屋の入口付近にあるサイドテーブルの上に置かれた名刺を紫音が見ていないのは、誰の目にも明らかだった。彼女は部屋の奥にいたのだから。

「スーツだな。君が今着ているスーツは随分と上等で、巡査の給料で仕立てられるようなものじゃない。しかも仕立ておろしだ。だとすれば何が理由か。出世と考えるのが自然だろう。それもそれなりに高いレベルへの出世だ。そして君の勤続年数を考えれば、警部より上ということは有り得ない。レストレイドというのは、呼び名の変化から推理した。以前の君なら『橋姫探偵』と呼んだはずだ。それが今日は『ホームズさん』だった。ならば私の影響を受けたと考えて間違いない。警官の君が与えられる人物は、レストレイドだと考えるのが普通だと思うね」

 礼堂警部は二三度頷いた。

「今日はホームズさんにご紹介したい人を四人連れて来ておりまして」

「見れば分かる。然るべき順に紹介してくれ」

 パイプに火をつけながら紫音は言ったが、その然るべき順というのが礼堂警部には分からないようだった。暫く困った様子で四人の男達を見ていたが、諦めて紹介を始めた。

「まず、こちら暮楠くれぐす俊臣としおみ君、トバイアス・グレグスン氏。こちらが城偸じょうぬす彰宏あきひろ君、アセルニー・ジョーンズ氏。こちらが帆吹ほふきすぐる君、スタンレー・ホプキンス氏。最後にまく淳夫あつお君、アレック・マクドナルド氏。皆警部です」

 紫音は暫く黙っていたが、やがて我慢が出来なくなったらしく、声を上げて笑いだした。

「ハハハ。これは傑作だよ、レストレイド。皆殆どそのままの苗字じゃないか」

「しかしホームズさん、彼等は皆元々は違う姓だったのです。つい最近変わったのです。ですが、違ったということは分かるのですが、どう違ったのか分からないのです。書類も戸籍も何もかも変わっていて……」

「英霊再来とはそういうものだ。後天的に再来に組み込まれるとそういうことも起こる。しかし、これ程の無理が通るなら、私は『法務図ほうむず』で彼女が『和戸尊わとそん』、モリアーティ役が『森亜庭もりあてい』なんて名前でも良かったじゃないか」

「思いますに、」

 城偸警部が口を挟んだ。

「お三方は神秘の強い家柄のお生まれですから、家の名前までは変わらなかったのではありませんか?」

 紫音はようやく笑うのをやめた。

「私も同感だ。或いは我々の家名にも明確なモチーフがあるからかもしれない。ありがとう、ジョーンズ警部、と呼んで構わないね? 他の方々も? 結構。他に用事は?」

 五人の警部達は互いに顔を見合わせた。

「特にありません。お会い出来て光栄です、ホームズさん」

 帆吹警部がそう言い、幕警部が頷いた。

 そうしてこの場は解散となり、礼堂警部だけが残った。

「レストレイド、君は何か用事があるわけだな。その様子からするとまた殺しか」

「そうです。推理の必要もないでしょうね。我々五人は皆殺人が専門ですから。ところで、ホームズさんは捜査権はお持ちで?」

 礼堂警部はやや心配そうに言った。

「必要か?」

「必要なんです。いくらシャーロック・ホームズさんでも、現代の法に従って頂かなくては」

「ハ、我々にしてみれば有って無いような法にね! だいたい、君達だって捜査令状が出ないだろう?」

 夏山市には裁判所が無いし、他の裁判所からこの市を認識することは出来ないのだから、礼状が出るわけがない。それはわたしにも分かった。因みに夏山市に裁判所がない理由は、控訴のしようがないからである。なので、代わりに神託によって刑が決まる。それなら否が応でも納得せざるを得ないからだ。

「裁判所からは出ませんが、代わりに魔術連盟から出てます。何せ我々夏山市警察も、今や実質的には魔術連盟の下部組織ですから」

 X県警ではなく夏山市警察な辺りに神秘の影がちらついている。しかし、一般の県警職員がこの市で活動するのは不可能だから、こうなるのも無理からぬことだろう。

「餅は餅屋だな。この場合、魔術師には魔術連盟か。しかし私も同様だ。私もワトソンも、警官たる君よりも強い捜査権限がある。逮捕、家宅捜索、武器携行、囮捜査くらいなら問題なく出来る。私がその必要ありとさえ認めれば、礼状無しでも可能だ」

 そう、これこそわたし達二人が拳銃を携行出来る理由である。魔術師であるからと言って、つまり日本国法によって取り締まられることがないからと言って、無闇に銃などの武器を携行していいわけではないのだから。

「それは心強い。しかし一体どういう根拠で」

「探偵にも外交上の機密というものがある、レストレイド。しかし、私は世界中どこでも同様に自由に捜査出来る。必要な法整備は済ませてあるからな」

 紫音はかなりとんでもないことを言った。さっきの権限ですら改めて思うと尋常ではなかった。本当に何でもありだなこの人。

「そうでもないよ、ワトソン。あくまでも綾女あやめさんの協力があったから出来たことだ。私一人では流石に世界を意のままには出来ない」

 わたしの思考を読んだ彼女が言った。確かに、再現されし神たる、玉鬘たまかずら綾女さんの協力があれば、なるほど何でも出来るだろう。あのひとが協力してくれれば、だけど。よく協力して貰えたな、と普通に思うくらいあのひとは他人に無頓着な印象なので、きっと相当大変な交渉をしたのだろう。

「神秘に関わらないものでもですか?」

「当然だ。しかしその手の事件なら私が出る必要は無いだろうな。神秘が関わらないなら警察にだって捜査出来る。君達だって最近はそう無能でもないんだろう?」

「勿論です。神秘が絡むとどうにもなりませんが。では、確かに捜査権があるんですね?」

「また『レディ・フランシス・カーファックスの失踪』のときの様な面倒になるのは御免だからな」

 分かる人にしか分からないような返答だが、礼堂警部には伝わったらしい。ちょっと嬉しそうな顔をしていた。まあ、言っていることが分からなくても、文脈から肯定だとは分かるだろう。

「では、MAFIA内部の犯罪でも捜査出来ますか?」

「勿論出来るが……そんな面倒事を抱えているのか? 何故すぐ私のところへ来なかった」

 紫音の口調が少し強くなった。はっきりと非難の音が乗っていた。

「こんな時間でもすぐ来たんですよ。発生からまだ四時間程度です」

 気の毒な警部は椅子の上で少し小さくなって答えた。

「発見からは?」

「二時間程度です。取り敢えず現場を保存して、鑑識にすら何も触らせていません」

結構Excellent. 。遺体もそのまま?」

「勿論です。簡単な検死のみ行いました。おいで頂けますか?」

「すぐ行く。ワトソン、そんなに遅くはならないと思うが、先に休んでしまっても構わない。嗚呼、ミセス・ハドソン、夕食は要らないから夜食を用意しておいてくれ。それから馬車の用意をすぐに。キャブでいい。よし。それじゃ」

 紫音は早口でこう捲し立てると、フロックコートを引っ掴んで飛び出して行った。

 まあ、こういうことはよくある。わたしにいて欲しい時は媚びるくせに、そうでない時は放置プレイの如し。彼女にも彼女なりの考えがあるのだろうから、別にそれで気を悪くすることはないが、しかしもうちょっとどうにかして欲しいと思うこともないではない。

 とはいえ、どうにかといっても、それが夕食中に呼び出すことではないのは確かだろう。

 ハドソン夫人が文句を――わたしにではなく、急に要らないと言い出した紫音に対して――言いながら持ってきてくれた夕食を食べている途中で、わたしのスマホが鳴ったので見てみると、紫音からのLINEだった。彼女はLINEで済むこと伝えるためにわざわざ手紙やらメールやらを送ったりはしない。フロックコートを着ている割に、現代のツールはフル活用する。彼女の懐中時計はスマホ代わりだ。彼女曰く、十九世紀風スマートウォッチ、だそうだ。

「元来watchとは懐中時計を指す言葉だ。正確に言うなら、身に着ける時計、というべきだろうね。今では専ら腕時計に取って代わられているが」

 というのが紫音の談。仕組みはよく分からないし分かる気もないが、スマホを分解して部品を使っていたから、スマホで出来ることなら何でも出来るだろう。勿論LINEも。画面を魔術で空中に投影することが出来るらしいが、実はまともに使っているところを見たことがない。多分わたしを呼び出す時にしか使っていない。彼女の膨大な知識量を以てすればインターネットブラウジングは必要ないだろうし、地図も要らない。適当な時間に起きるのでアラームも必要ない。本当に無駄な高機能だ。そうは言っても、彼女は恐らく作ること自体に楽しみを見出していると思われるので、野暮なことは何も言うまい。

 話を戻すと、とにかく早く来いということと、現場の住所が書かれていた。

 せめてこっちの都合を訊けよ、とは思ったが、すぐ行くと返事して着替えを始めた。途中で呼び鈴――と言っても、シャーロック・ホームズの時代には既にあったらしい電気式のいわゆるチャイム――を鳴らしてハドソン夫人を呼ぶ。

 夫人はすぐに上がってきた。

「ワトソン先生、お出かけですか?」

「ええ。ホームズが呼んでますから。申し訳ないんですが、わたしの夕食はそのまま夜食に回してください」

「ホームズさんの勝手気儘に付き合うのも大変ですよ。ワトソン先生からも何か言って下さい」

「伝えておきます。それでは」

 わたしは家を出た。

 現場は家からそう遠くもなかったが、わたしは運転免許も持ってないし、紫音の馬車を使うわけにもいかない、というか紫音が全部ポケットに入れたまま行ってしまったので、仕方なくタクシーを呼んだ。

 到着したのは、山を切り崩した造成地の一角にある、広々とした一軒家で、周囲には特に何もなく、ただ鬱蒼と木々が生い茂っているだけだった。被害者の自宅らしい。

 玄関まで来ると、礼堂警部が立っていた。わたしは車代を払って、警部と一緒に家の中に入った。

 被害者の家は二階建てで、一階の部屋は客間、それに居間、ダイニングキッチン、バスルーム。二階には、夫婦の寝所と書斎の二つがあった。現場は客間だが、客間も他の部屋も荒らされた様子はなく、また争ったような跡もないそうだ。

 紫音は死体のそばで屈んで何か探していた。

「やあワトソン。急に呼び立てて悪かった」

 死体の方を向いたまま紫音が言った。

「ハドソンさんが、勝手気儘もいい加減にしろって」

「ハ! 彼女もミセス・ハドソンが板についてきたらしいな。そうさせたのは勿論私だが」

 紫音はやはり一瞬だけ楽しそうな表情を浮かべた。

 わたしは死体へ視線を向けた。そして、紫音がいつもやっているようにしてわたしにも何か分からないかやってみようとした。

 男性。四十代後半から五十代前半。白髪交じりの頭髪。中年太りの形跡はあるものの、肥満ではない。上下とも黒のスーツに黒い革靴。高価そうな腕時計。手には何も持っていないが、指輪から判断すると結婚しているらしい。近くにペンが落ちていた。

 額の中央に射創。弾は貫通していないようだ。

 特に何も分からなかった。

「見ての通りだ、ワトソン。この人物は多分に西洋風の生活をしている。経済状況も悪くない。身近な敵も少ないようだ。犯人は身長180センチ程度、被害者と特別親しい間柄ではなく、何かを持ち去った」

「全然見ての通りじゃない」

「そうか? 玄関に靴脱がなく、部屋の中でも靴を履いているくらいだ。西洋風の生活をしていると考えるのが普通だ。スーツも腕時計も上等なブランドもので、経済状況に問題がないと考えられる。勿論この男が借金塗れのブランド狂で無いという仮定に基づく話だ。身近に敵が多くある者が、拳銃を鍵のかかった戸棚に仕舞っておくか? 示威目的ならもっと見えやすいところに置くはずだ。あんな微妙なところに置くのはあまりに自己満足的だ」

 紫音は部屋の一角を示しながら言った。そこには鍵のかけられた戸棚があり、中にいくつかの小さな盾と拳銃が置かれているのが見えた。

 紫音はすっくと立ち上がった。

「私も今しがたここへ到着したばかりで、大したことは分かっていない。第一発見者の夫人が、死体を見るなり卒倒したそうだが、意識を取り戻したというので会いに行っていた。面白いことが分かったから君をその場で呼んで、ここで落ち合ったというわけだ」

「面白いこと? でも今さっき大したことは分かっていないって」

「別に嘘は言っていない。事件について大したことは分かっていない。だがこの被害者の男については分かったことがある」

「それは?」

 紫音が勿体ぶりたがるのは今に始まったことではないので、わたしはさっさと続きを促した。

「ヴィルフォールだよ。この男こそジェラール・ド・ヴィルフォールだ」

 紫音は楽しそうにそう言い、わたしは目を見張った。

「じゃあ第一発見者って、あのヴィルフォール夫人!?」

「そうだ。だからこそ分かったと言うべきだがね」

 驚いた。

 まさかついさっき話題にしていた人物がここで死んでいて、その第一発見者が今日の訪問者だった人物だとは。礼堂警部の方に顔を向けると、彼もまた驚きに満ちた顔をしていた。彼の場合、わたし達がこの被害者を知っているような素振りを見せたことに対する驚きだろう。

 紫音は死体の周りをまたぐるりと一周した。

 その後で、床に落ちている物を拾い上げ、それを指先でくるくる回しながら眺めていた。ボールペンのようだ。勿論紫音も私も白手を着けている。

 わたしは死体の近くに屈み込んで、もう一度見た。

「銃創以外に傷はなし」

「ああ」

「額の中央。狙いは正確」

「そうだ」

「弾丸は貫通していない」

「その通り」

「被害者の死因は何だと思う?」

「脳幹を撃ち抜かれたことによる即死だ」

 紫音が淡々と答えた。まあわたしも彼女と同感だ。それ以外の可能性がないかと、ちょっと試しただけだ。わたしは立ち上がり、紫音のそばに行った。

 彼女は何やら考え事をしているようだったが、わたしが近くに来たのを見て、口を開いた。

「なるほど。これは確かに面白い」

「……どこが」

「死んでいるのが面白いわけではないよ。勿論それも興味深いことではあるが」

「じゃあどうして?」

「被害者の側にボールペンが落ちていた。卓上のペン立てから取ったものだな。キャップは外して反対側に付けてある。当然、そんなことをするのは何かを書く時だけだ。キャップを外したまま保管する馬鹿ではないだろうからな。しかし、何かを書こうとしていた形跡はペンの他にない。おかしいと思わないか?」

 わたしは首を傾げた。

 言われてみれば、確かに違和感があるかもしれない。

 だが、それがどうしたというのだろうか。ペンを取ったが何も書かなかったのであれば、他に痕跡は残るまい。

 紫音は続けた。

「どこにも紙がない。ペンだけがあっても、ものは書けない。だから必ずあったはずだ。メモの類かもしれないし、何か書類かもしれない。或いは手帳かも」

 わたしは納得した。つまり被害者はこの部屋の中で何らかの文章を書いていた可能性があるということだ。けれどそれがない。わたしがここへ来たとき、紫音が探していたのはそれだったのだ。

「じゃあ、犯人が持ち去った?」

「そう考えるのが自然だな。これを作業仮説としよう。では何故犯人はその紙を持ち去ったのか」

「証拠隠滅のためじゃないの? 現場にあったってことは、もしかすると重要な物証の可能性もあるし」

「その可能性は確かにある。しかし違うと思う。もし本当にそうなら、ヴィルフォール氏を殺した者がその重要書類をこの場で処分しなかったのは何故だ? そんなものが見付かれば、犯行を立証できるというのに」

 それは確かにそうだ。犯人がその重要書類を持っていたとしても、捨てたり燃やしたりせずそのままにしておいた理由とは何だろうか。

「簡単なことだ。その紙がその状態で必要だからだ」

「どういうこと?」

 わたしは尋ねた。

「ヴィルフォール氏が殺された状況を思い出してくれ。彼はこの部屋に一人で居た。そして撃たれる直前には何か書いていたはずだ。そう、書きかけ、或いは書き終えられた文書があったはずなんだ。それを奪うことが犯人の目的だったと考えれば、全て辻褄が合う」

「じゃあ、その文書って?」

「そこまではデータが足りないな。我々に必要なのは、ヴィルフォール氏に関する、あらゆる情報だ。レストレイド」

 紫音はここまで放置されていた礼堂警部を呼んだ。

「この部屋で見るべきものは見た。鑑識を入れてくれて構わない。それから、被害者の情報が要る」

 礼堂警部は分厚いファイルを出してきた。

「これが彼の資料です。数年間に亘って我々が細々と調査してきた結果です」

「ハ!」

 紫音は笑った。

「手は出せないが、怪しむことは出来るというわけだな。まあ今回はそれに感謝しよう」

 紫音はファイルを開き、中の資料にサッと目を通した。彼女は速読が出来るので、わたしには信じられない速度でも内容は理解しているはずだ。

 その証拠に、ファイルを閉じた時の彼女は嬉しそうにニコニコとしていた。まず間違いなく、何かいい結果が得られた時しかこの表情かおはしない。

 紫音は今度はボーイを呼び、預けたハットを持ってこさせた。ということは出掛けるつもりらしい。

「ワトソン、君も一緒に来てくれると助かる」

「勿論行くよ。でもどこに?」

「モンテ・クリスト伯爵邸だ。直ちに行って確認するべきことがある」

 そう言うと、私の返事も待たず颯爽と出て行った。

 慌てて追って出ると、紫音はもう馬車に乗るところだった。わたしを乗せるなり、馬車は軽快に走り出した。

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