シャーロック・ホームズの再来、或いは橋姫紫音の帰還

竜山藍音

四人の再来①

「犯罪専門家の見地からすると――」

 肘掛椅子に収まった女性が口を開いた。紫のドレッシングガウンをゆったりと着て、右手には先程まで咥えていた桜材のちょっと長いパイプ。彼女のお気に入りでもあり、何が議論しようという時には必ず手にしていた。

夏山なつやまは故モリアーティMoriarty教授の再来が死んで以来、不思議と面白くない町になってしまった」

 彼女はしみじみと続けた。モリアーティのところだけやたらと発音がよかった。

「きみの意見に賛同するまともな市民が数多くいるとは考えにくいね」

「ごもっとも、自己中心的ではいけない。――完璧な回答だね、ワトソンWatson

 ワトソンと呼ばれた女――つまりわたし、若菜わかな樹里じゅり――は直前まで新聞を読んでいたが、その手を止めて肘掛の方に向き直った。わたしが着ているのはグレーのスーツだが、まだちょっと慣れない。

 わたしがワトソンであるということは、勿論彼女はホームズである。しかし、わたしが若菜樹里であるということは、当然彼女は橋姫はしひめ紫音しおんである。彼女は紫音でありながらホームズでもあるのだから。

 関係ない話だが、彼女はわたしのことを呼ぶときに、見事な英語の発音でWatsonと呼んでくれるので、正直「ワトソン」と表記するべきか、それとも「ワトスン」と表記するべきなのか悩ましいこともないではない。しかしながら、ここではわたしの慣れ親しんだ「ワトソン」でいくことにする。

 ついでに、紫音はしばしば英語交じりの日本語で話すが、頻繁に出る単語をいちいち英語で表記すると書くのも読むのも大変になってしまうので、固有名詞はカタカナで表記することをご容赦頂きたい。ただし、初回のみ英語でルビを振る。それと、YesとかExcellentなどの極々簡単な英語はそのまま英語で表記することもお許し願う。その方が読者の皆様にも彼女の奇矯ぶり、そしてそれに付き合わされるわたしの苦労が伝わりやすいのではないかと思ってのことである。勿論特殊なものや英文には日本語訳も添えておく。

 さて、時空を戻そう。

「まあ、平和だからいいんじゃないかな。多少つまらなくても」

 わたしは読んでいた新聞を畳み、テーブルの上に放った。

「ハ! モリアーティの再来が死んで夏山市は平和になり、誰もが万々歳だな。仕事にあぶれた専門家を除けば」

「そうは言うけど、そもそも働かなくても生活していけるだけの資産はあるでしょ」

「大事なのは資産ではなく事件だ。私には仕事そのものが報酬なんだ」

 紫音はニコリともせずに言った。

 わたし達二人が、シャーロックSherlockホームズHolmesジョンJohnHH.ワトソンWatsonになったのはつい最近の事だった。前からその兆候はあったが、わたしの医師免許取得をきっかけとして、遂に「世界」によってその英霊再来Reincarnationであると定められてしまったのだ。それ以来、わたし達は互いをホームズ、ワトソンと呼んでいる。しかしまあ、地の文までそうする必要はないだろう。わたし達はあくまでもその再来であって、本物のホームズとワトソンではない。そこは弁えているつもりだ。

 弁えているという割になり切っているのにもちゃんと理由があるので、それも弁解させてもらいたいと思うが、その為に一応、英霊再来という概念について説明しておこうと思う。

 英霊再来、或いは単に再来とは、ある種の生まれ変わりのようなものだ。わたし達のような魔術師でなくとも「誰某の再来」という表現は普通に使うだろうと思う。それとほとんど変わりはない。ただ一つ違うのは、英霊再来には特別な「能力スキル」があるということだ。

 この能力スキルは、再来がその元となった人物の逸話や特異な力を再現するためのものだと言われている。

 例えば、紫音=ホームズの場合は、わたしの知る限り「変装を見破られない」「必要な情報が揃えば必ず真実に辿り着く」という能力スキルを持っている。

 英霊再来になるのに性別は関係ないし、年齢も関係ない。わたし達が今までに手掛けた事件の中で出会った最も恐ろしい犯人は、まだ五歳でありながら「赤い切り裂き魔」などと呼ばれた殺人鬼の再来だった。その事件については、犯人が幼いことや事件そのものの凄惨さ等を鑑みて公表しないよう紫音から強く命じられているのでこれ以上話すことは出来ないが、再来英霊の、ひいては『世界』の恐ろしさを痛感させられる大事件だった。

 基本的には再来といえども現代人なので、現代人らしく振舞って差し支えないのだが、それらしい格好をしたり、それらしい言動をすることで再来としての力のようなものが高まるらしい。だからわたし達は男装しているのである。

 ついでに家兼事務所も変わった。221Bに。17段の階段を登ると居間へ繋がるドアがあり、その更に奥のドアから紫音の寝室へ行ける。わたしの寝室は上階だ。

 再来としての力が高まると、外界にも様々な影響を及ぼす。今しがた述べた、家が変わったというのもその一つだ。内装が変わったのは紫音の仕業だが、住所が変わったのはこの再来力がもたらした影響だ。何しろ、ベイカー街221Bという住所になってしまったのだから。勿論ここはロンドンではないので、正確な住所はX県夏山市ベイカー街221B(都道府県名をぼかしているのは許してもらいたい。わたしとて魔術師の末端として、夏山市の場所を大々的に広めるわけにはいかないのだ)というなかなか滅茶苦茶なものなっている。しかも、隣の建物の住所は変わっていないため、夏山市ベイカー街には221Bしか存在しないというカオスぶりだ。

 それほど高い再来力を持つことからも分かってもらえるとは思うが、わたしの見る限り、紫音はこの上なくホームズだった。その類稀なる観察力と推理力は然ることながら、パイプや皮下注射器、ストラディヴァリウスなどの持ち物も、立ち居振る舞いも彼女のホームズ感を引き立たせる。俗っぽいホームズではなく、本物を。まあ今までの人生の殆どをホームズたらんとして生きて来た彼女だからこその出来栄えなのだろう。わたしはそこまでワトソンになりきれていない。

 そんなことを考えながら紫音の方を眺めていた時、彼女はわたしが置いた新聞に何か目新しい事件はないかと目を通していたが、丁度読み終わるかどうかくらいのタイミングで呼び鈴が鳴ったので新聞を脇に除け(という表現はかなり好意的な見方をしたものであり、実際には放り捨て)、ちらと通りに目を向けてから、来訪者を入れるよう言った。その後物凄い勢いで寝室に駆け込み、数秒後に出て来た時にはフロックコートをきっちり着ていた。まあ、さっきのガウンの下にウェストコートまで着ていたから、一番上に羽織るものを変えただけだ。

 直後に入ってきたのはわたしと同じくらいの年齢に見える女性だった。と言っても、わたし達の年齢は綾女さんの手によって、紫音が帰ってきた頃(五年前)に固定されているので、わたし達の方が幾分若く見えたことだろう。

 女性はわたしと紫音とを見比べ、どちらがシャーロック・ホームズの名を持つ者か見極めたらしく、紫音の方を向いて口を開いた。わたしはその様を見てボスコム谷のアリス・ターナー嬢を思い出したが、いきなりそんなことを口走っては双方に迷惑だろうと思って何も言わなかった。

「シャーロック・ホームズ様、巷に溢れているお話とは些か印象が異なるようですが……」

 紫音は笑いだした。来訪者は酷く当惑したようだった。

「いや失敬。あれは創作です。私はあくまでもその再来。よく言えば生まれ変わり、悪く言えば模造品です」

 客の顔が曇ったのを紫音は見逃さなかった。そのため、女性が何かを言うよりも紫音が再び口を開く方が早かった。

「分かりやすく言えば、この体にシャーロック・ホームズという中身を詰め込んだものが私です。貴女の知る探偵ホームズと同じだけの仕事をお約束しましょう。さ、お掛け下さい。ご用件を伺いましょう、ヴィルフォール夫人」

 女性は紫音の差し示した椅子に腰を下ろしながらも、目に見えて驚いた。

「まあ、どこかでお会いしたことがありまして?」

「いいえ。ちょっとした観察です。コツさえ掴めば誰でもある程度は出来るようになります。しかし、ご自身のお名前を隠しておこうとお思いでしたら、帽子の裏に名前を縫い付けておかないことです。私の位置からでもはっきりとM. H. Villefortと読めます。私の持つ知識をいくらか動員すれば、そのサインをエロイーズ・ヴィルフォール夫人Madame Héloïse Villefortと解するのはさほど難しいことではありません」

「まあ、そんな単純なことでしたのね。それで本題ですけれど、この度はある人の素性を調べて頂きたいと思いましたの」

「そうだろうと思いました。モンテ・クリスト伯爵と仰る方ですね?」

「本当に何でもお見通しですのね。何か分かりましたら謝礼はいくらでもお出ししますわ」

「では、貴女の目から見たモンテ・クリスト伯爵がどのようなお方なのか、お聞かせ願いましょう」

 紫音は例の如く指先だけを突き合わせるようにして手を合わせた。

「モンテ・クリスト伯爵は、見たところ申し分ない紳士です。立ち居振る舞いは立派で、顔は吸血鬼のように青白いですけれど、顔立ちは整っておりますわ。なんでも世襲した財産を数年前から動かし始めたそうで、無限に持っているかのようにお金をお使いになるんですの。その上頭もよろしくて、まるで知らないことはないかのようです。それから、コンスタンチノープルで買った奴隷だという美しい女性をいつもオペラにお連れになりますの」

 紫音の目が輝いた。だが紫音はそれ以上詳しいことを聞こうとはせずに立ち上がった。

「伯爵の御住まいは?」

「シャン・ゼリゼー30番地です」

「お話はよくわかりました。何か分かったらお手紙を差し上げますので」

 紫音に見送られ、女性は静かに出て行った。

「さて、コイツは面白くなりそうだ」

 紫音は肘掛に戻って来るなりそう言った。

「そう? モンテ・クリスト伯爵っていうのはちょっと変わった人みたいだけど、その人を調べるだけでしょ。そんなにホームズ好みの事件ってわけでもなさそうだけど」

「ワトソン、君はもう少し推理小説と医学書以外の物も読んだ方がいいな。モンテ・クリスト伯爵は、所謂『三銃士』でも知られるフランスの作家アレクサンドル・デュマ・ペールの代表作の一つ『モンテ・クリスト伯』の主人公だ。ヴィルフォール夫人も、その登場人物の一人。だから私は彼女の目的が分かったというだけに過ぎない。しかし、ここで大切なのは、モンテ・クリスト伯爵は恐らく世界で最も高名な復讐者だということだ」

「シャーロック・ホームズが世界で最も高名な探偵なのと同じように?」

 紫音はニヤッと笑った。彼女はウェストコートのポケットから懐中時計を取り出し、ちらと目を落としてからまた仕舞った。

「今から押しかけては迷惑だろう。門前払いにされる可能性が高いな。ちょっと出かけてくるから、先に寝ていてくれ」

 彼女はハットとステッキを手に取り、颯爽と出て行った。

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