第5話 兄妹の秘密


「ゾフィー、大丈夫?」

 ヒルデガルトは壁を通り抜けて家に侵入したが、ゾフィーはいなかった。

「どこ?」

 家じゅうを飛び回って探す。……ゾフィーは、地下室に隠れていた。

「ゾフィー!」

 飛びつくようにして近寄ると、ゾフィーは小さく悲鳴を上げた。


「ヒルデ!? びっくりした!! 何の断りもなく、こんなところまで入ってこないでくれる!?」

「ああ、悪かった……じゃなくて、大丈夫!?」

「何が?」

「敵国から空襲が来るって……!」

「ああ」


 ゾフィーは何とも微妙な顔をした。


「来ないかも知れないし、大丈夫よ。これは、念のため地下室に避難しているだけ」

「そ、そうなの……?」


 ヒルデガルトは不安気にきょろきょろした。ゾフィーはやや表情を緩めた。


「ヒルデも、ここに隠れる?」

「いや……幽霊には空襲は効かないから、いい。ただ、この時代で初めてできた友達のことが、心配だっただけ」

「……」


 ゾフィーは、何かを見定めるように、じっとヒルデガルトの目を見つめた。それから言った。


「……ありがとう、ヒルデ」

「どういたしまして、ゾフィー」


 二人は同時に小さく笑った。ぎこちなく、しかし柔らかく。


 ヒルデとゾフィーはサイレンが止むまで、暗くて狭くて少し埃っぽい地下室の中で静かに過ごした。ヒルデは時折うろちょろして、ジャガイモの入った袋などを覗き込んでいたが、ゾフィーのそばから離れることは無かった。

 二人は他愛もない話をした。ゾフィーはヒルデガルトの正体について知りたがったので、ヒルデガルトはでき得る限り答えてあげた。ヒルデガルトはこの時代について知りたかったので、ゾフィーに色々と質問をした。


「じゃあヒルデは、結構長くこの世にいるの?」

「うん」

「すごい。歴史学者が知ったら泣いて喜びそうだわ」

「どうかな。忘れていることも多いし。私は別に世の中のことを分かっているわけじゃなかったんだよな」


 会話は密かに盛り上がって行った。

 しかしゾフィーは時折、ひどく心配そうな顔をするのだった。


 警報が止んで、ゾフィーは立ち上がった。

 その背中がひどく心細そうに見えたので、ヒルデは声を掛けた。


「ねえ、また部屋に上がってもいいかな?」


 ゾフィーは悩まし気に目を伏せてから、頷いた。


「いいけど、……兄が帰ってくるまでね」

「あなた、兄さんと一緒に暮らしているの?」

「うん。一緒にこの家を借りているの」


 食事が二皿分保管してあったのはこのためか、とヒルデガルトは得心した。


「分かった。あなたのお兄さんのことは一目見たら帰るから、それまで居させてよ」

「……うん。それと……机の中を勝手に見たりしないでよ。……その、プライベートなものだから」

「ん、分かった」


 そうして二人は地上階に上がった。ゾフィーは二人分のコーヒーを淹れようとしていた。


「タンポポの根を使った代用品だけれど、飲む? ……というか、飲めるのかしら?」

「折角だけど、幽霊は飲食ができないんだよ。お構いなく、自分のだけ淹れてちょうだいな」

「分かったわ」


 そこへ、ガチャンと扉の開く音がした。


「あ、ハンスが……」


 ゾフィーは手を止めた。


「ごめんなさい、ヒルデ。もう帰ってくれるかしら……」


 分かった、とヒルデが言いかけた時だった。

 ドタドタと靴の音がして、一人の男性が部屋に入ってきた。ゾフィーとそっくりの、光沢のある茶色い髪をしている。


「町を見て来たかい、ゾフィー!」


 ハンスは開口一番に言った。囁くように、しかし興奮が抑えきれないように。


「落書きは半分くらいしか消されていなかった。間に合わなかったんだね。これでミュンヘンの人々が少しは勇気づけられるといいのだが……」

「ちょ、ちょっと、静かにしましょう? 誰が聞いているか分からないもの」


 ゾフィーは慌てた様子でハンスを止めに入り、ヒルデガルトに出て行くよう目で合図した。

 しかしヒルデガルトは動けずにいた。

 ……この二人は、落書きについて間違いなく知っているのだ。

 ゾフィーは焦っており、また苛立たしそうでもあった。何かを誤魔化すように、話題を変える。


「そんなことより、避難は大丈夫だったの? 警報の間、またフラフラ出歩いたりしていないでしょうね」

「ああ、ちゃんと大学の地下室に入れてもらっていたよ。大丈夫!」

「良かったわ」

「そもそも、そんなに連日で落書きに出るような真似はしないさ。ゲシュタポの連中が夜中に壁を見張りに来ているかもしれないだろう? 捕まってしまったら元も子もないからね」

「……」


 ゾフィーはまたしてもヒルデガルトを振り返った。ヒルデガルトは、ハンスのことを穴が開く程見つめていた。


「驚いた。あの落書き、あなたがやったの?」


 問いかけると、ハンスは飛び上がって驚いた。


「何だいあれ! 何かいる!!」

「今気が付いたの、ハンス!?」

「いいいいいい今、急に現れたよ! ボワンって!」

「そう? 私はさっきからずっとここにいたんだけどな。ゾフィーに釣られて見えるようになったかな」

「ウワー! また喋ったァー!」

「ヒヒッ。こんにちは、はじめまして、ハンス・ショル」

「ひえー!」

「ハンス、落ち着いて。いつもの素晴らしい度胸はどこに行ったのよ」

「いや、まあ、確かに……ビラを配ることに比べたら、幽霊なんて大したことないな……」

「だから! ハンスったら!」

「……!!」


 ハンスは慌てて手で口を押さえた。

 ヒルデガルトは、ゾフィーの様子がおかしかった理由がようやく分かった。

 この二人は間違いなく、落書きとビラ配りに関与している。そしてそれを何が何でも秘密にしたいと思っている。


「なるほどね」

 ヒルデガルトは二人の目を覗き込んだ。

「あなたたちは、私がナチスに何か告げ口するかもって思っているわけだ」

「……」


 ふふん、とヒルデガルトは笑った。


「心配しなくても、私はあなたたちの味方だよ。それどころか、あなたたちと一緒に活動したいと思っているんだ」

「……嘘よ」

 ゾフィーがかすれた声で言う。

「あなた、きっとナチスの開発した新型のスパイなんだわ。そうやって反逆者をあぶりだしているんでしょう」

「まさかあ」

「もうばれてしまったようだから、僕から言っておくが」

 ハンスは早くも落ち着いた様子だった。

「落書きもビラ配りも、やったのは僕一人だよ。ゾフィーは政治に興味がないんだ。告げ口するなら僕一人にしてくれ」

「ハンス!」


 ゾフィーが非難するようにハンスを見上げる。ヒルデガルトは笑みを深めた。


「私も自由が好きなんだ」


 兄妹はぴくりともせずにヒルデガルトを凝視している。


「だからヒトラーの奴をからかってやろうと決めたんだよ。ヒヒッ」

「……」

「それに百年くらい前、私も自由のために戦った。言論の自由や、憲法の制定を求める市民に、協力してね」


 ゾフィーは軽く息を飲んだ。


「ひょっとしてそれって……まさか1848年の」

「うん、確かそんな年だった。知ってるの?」


 兄妹は顔を見合わせて、頷いた。


「ヒトラー政権下では、その事件は金持ちの――ブルジョワ的な革命だとして、タブー視されているんだ。しかし歴史上重要な事件だったと、僕たちは思っているよ」

「そうか……そうだったのか」


 ハンスの言葉を聞いて、ヒルデガルトはしばし感じ入った。あれは負けてしまった戦いだったけれど、あの戦いは無駄ではなかった。あの時自由を求めて散った命は無駄ではなかったのだ。自由の精神はこうして受け継がれている。


「あはは。自由ばんざい、だね」

「……」

「ちょっと、話しましょうよ」


 ゾフィーは言い、机と椅子を手で示した。


「いいよ。いくらでも話そう。夜は長い」


 ヒルデガルトはにっこり笑って言った。

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